梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

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2018年12月29日 05時17分33秒 | Weblog
前回、大学のクラブ同期の忘年会での、天城山登山を何とか達成出来たことをお伝えしました。今年5月頃からウォーキングを始めたこと、2ヶ月前から近くの神社の階段でトレーニングしていたことが、奏功したことに間違いありません。

しかし私は年末のその登山の為に、それらを始めた訳ではありません。忘年会で天城山に登る話も、1ヶ月前に俄かに持ち上がりました。事前に足腰を鍛えていたから、参加できそうだと思ったのも事実です。

実は天城山に行く一週間前に、その同期の仲間の一人からトレーニング登山に誘われました。行ったのは弘法山で標高235m、丹沢山塊の南端に位置します。登山と言ってもハイキングレベルの山でしたが、ザックには色々荷物を詰め重さを増して臨みました。翌日から2~3日筋肉痛は残りましたが、天城の山に登れたのもこの予行練習が決めてとなりました。

話は変わりますが、今年家内の実家の山形県酒田の土地が売れたことを、やはりブログ上でお伝えしました。更地にして売ることが条件でしたので、最終的には売買を仲介してもらった地元の不動産会社に、家屋の解体も依頼しました。

しかし当初は、ある勉強会で知り合った知人が酒田にいましたので、その方の紹介で解体業者を探してもらいました。するとその知人の会社の役員をしている弟さんが、解体工事も請け負える業者だと分かり、その役員を通し見積を出してもらいました。

その業者の見積額と不動産会社からの見積額は、ほぼ同額となりました。ところがその業者から、「見積が同額であれば、解体の工期調整もあり不動産会社に一括依頼した方が無難ですよ」との良心的な提案を受けました。

二社見積で費用の裏付けも取れて、見積金額も納得できたのも、その知人と役員のお陰で、仕事も発注せず大変世話になってしまいました。家内との話で、何か御礼をしなくてはと思っていました。知人は東京で毎月一回行なわれている、勉強会には参加しています。

そんな矢先、知人から酒田の会社で行なわれるクリスマス・パティーに招待を受けました。社員だけのアットホームなパーティーです。社員全員が幾つかのパートに分かれて、自分達で企画して練習したパフォーマンスを披露します。勉強会の他の仲間で、仕事などで関係する人達は以前から招待されていましたが、私が招かれたのは、何故か今回が初めてでした。

知人の酒田の会社をタイムリーに訪れることが出来て、お世話になった御礼の品を持って行くことが出来ました。知人とその会社の役員に、改めて直にお礼が言える、思いも掛けないチャンスに恵まれました。

俳人で放浪の旅を続けた種田山頭火に、“人生は奇跡ではない、軌跡である”との言葉があります。人生奇跡が起きればと思うことがあるが、そう簡単には奇跡は起こらない。日頃の努力の積み重ねこそが、偉大なことを成し遂げられる。その軌跡が大事だとの意味のようです。

絶妙のタイミングは滅多にありませんが、今回の二つのことはそれを感じます。私の人生の受け止め方ですが、「軌跡だけではなく、奇跡もある」です。それは人の道を外さずに、自分が空っぽになっている時に起きるものなのかもしれません。

皆様、良い年をお迎え下さい!
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登れた事への感謝

2018年12月22日 04時59分35秒 | Weblog
一ヶ月程前のブログで、12月に入ってから大学時代のワンダーフォーゲルの同期と、忘年会を兼ねた登山をすることを書きました。登山組みと温泉旅館直行組みに別れましたが、私は登山組みでした。登る山は天城山で、それに挑戦した結果はどうだったのか。そのような内容をお伝えします。

8日土曜日の朝、東京駅6時33分発のこだまに乗り、席は別でしたが3人を確認して熱海駅で降りました。熱海から伊東線に乗り換えて、車内でもう1人と合流して電車で行くグループ5人が揃いました。7時49分に伊東駅に着き、それぞれ別の車で来ていた2人と駅前で落ち合い、登山組7人は二台の車に分乗して登山口に向います。

登山口は山奥のゴルフ場の脇からで、登山者用の広い駐車場もあり便利です。雲はうっすらとありますが雨は大丈夫の様子、既に標高1000m近く、気温は恐らく0度前後です。最初に目指すのは万二郎岳、標高1299mです。涸れ沢筋に沿った平坦な道が終わると、本格的な登りです。広葉樹林の中、所々木の階段になっていて息が切れます。

スタートしてから約1時間、万二郎岳の頂上。しかしピークは樹林に囲まれて展望は殆どありませんが、落ち着いた雰囲気の場所で、一息入れます。その万二郎岳からは天城連峰の主脈を辿って行き、下り始め岩場もあり暫くして、左手には富士山や駿河湾、右手には相模湾、が展望できコース中一番のビューポイントです。稜線の風はさすが肌を刺します。

鞍部まで降り切って、少し上り下りを繰り返すと、「アセビのトンネル」が出てきます。溝状にえぐられた道の両側からアセビの木々が覆いかぶさるように生えている様は、正にトンネルです。そこを抜けると、このあたりから万三郎岳山頂にかけて天城の特産種として知られるアマギシャクナゲの群生地となります。

緩やかな尾根を更に辿った後、最後に急坂をひと登りすると、伊豆半島の最高峰万三郎岳、標高1405mです。万二郎岳から1時間少しです。ここで大休止、皆で昼食を取ります。山頂には大きな地図案内板やベンチなどが設置されています。天城山は日本百名山の一つに数えられますが、天城山という名の山頂は在りません。

さて下山、下って直ぐに天城峠や八丁池などに繋がる天城縦走路から分かれ、私達は朝の登山口の方へ向います。思った以上の急な下り、丸太の階段があるのですが、股関節が曲がらない私は苦戦しました。幸い怪我はしませんでしたが、何回か滑り転倒しました。その先も山腹を巻く岩がごろごろしているアップダウンの道が続き、グッとペースが落ちました。万三郎岳から約2時間を費やして登山口に到着。踏破が叶いました。

網代温泉の旅館に直行した3人を待たせないために、伊豆スカイライン有料道路を通って私達が宿に着いたのは、午後4時半です。温泉の風呂に入って、汗を流し筋肉の疲労を出来る限りとって、6時から10人での宴会となりました。広間での宴会が終わって部屋に戻り、疲れて直ぐ寝てしまう人もいましたが、夜遅くまで二次会は続きました。

私は翌日午後一番に東京で用事があり、一人網代で別れました。他の皆さんは、推定樹齢2000年と言われている立派な大楠が境内にある熱海の来宮(きのみや)神社に寄って、東海道線快速でまた乾杯をして帰ったそうです。

登山が現役の同期は、全員が普段から足腰を鍛えているそうです。半年前からウォーキングを始めた、二ヶ月前から神社の階段でトレーニングしている、私は登山を侮っていました。旅館に直行している2人は、身体の故障で現在山には登れない仲間です。惻隠の情(相手に対する思いやり)も含め、私は今回何とか登れた訳で、感謝の気持ちを忘れてはなりません。

万三郎岳の頂上

 頂上からの富士山
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利便性と怖さ

2018年12月15日 06時17分08秒 | Weblog
ガラケーの携帯からスマホに替えて3年半経ちました。私の年齢以上の人でも、この間スマホを持つ人が急速に増えました。知らないことを検索したり、予約や代金決済に利用したり、ラインでグループ通信する時など、大学のクラブの同期でも持ってないこと自体が恥ずかしくなるような時代となりました。

先日スマホの画面が開かなくなりました。充電をしようとコンセントにコネクターを差し込むのですが、全く反応しなくなりました。遂にスマホが壊れたと思いました。翌日の土曜日は友人と登山に行く予定でしたので、緊急の連絡が出来なくなるとあせりました。

仕方なく会社を抜け出し、最寄りの携帯ショップに急ぎました。結局、コネクターが壊れていただけで本体は異常なく、コネクターを新たに買い求め事なきを得ました。スマホを使えなかったのはほぼ半日でしたが、その間落ち着きませんでした。普段便利に使えば使うほど、スマホは今や私達の生活になくてならない物となりつつあります。

“スマホを落としただけなのに”との映画が上映されています。映画通の方に勧められていますが、未だ観ていません。様々な検索の履歴も交友関係も趣味やお金の出入りも小さな端末に収まっているので、紛失して犯罪に使われたら厄介です。『私のすべてが壊される』。映画のサブタイトルにはそのような言葉が並びます。

6日、ソフトバンクで全国規模の通信障害が起こりました。スマホが電話に限らず、コンサートや航空券のチケットなど幅広い用途に使われるようになり混乱拡大に繋がりました。宅配のドライバーの専用端末と携帯電話が使えなくなり、集荷や再配達を受けられないトラブルもありました。今やスマホの通信障害は、生活や企業の経済活動に広く影響が及ぶことを物語っています。

総務省によるとスマホの世帯保有率は2017年に75.1%に達し、パソコンを超え日本でも最も身近な情報端末になったとのことです。新聞の記事によりますと、6~7年前他の携帯電話会社でも通信障害はあったが、当時スマホの世帯保有率も低く(3割程度)スマホを利用したサービスも少なく、今回ほどの混乱は起きなかったとあります。

米国で生まれたグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの4社を略して「GAFA」というそうです。スマホやパソコンの膨大なデータは、それらのプラットホーマーと呼ばれるIT大手が吸い寄せ、それをまた新たなビジネスへと肥大化させます。つまりスマホの向こうに、私達すべてをしる者が存在します。

スマホが壊れた、紛失した、通信障害が起こる。いずれスマホが手元に戻り、通信が復活すれば、何不自由なくまたスマホを使い出します。喉もと過ぎれば、そのスマホの陰にある恐ろしさすらも忘れてしまいます。極論すれば、命は奪われないからかもしれません。

大量のデータを高速でやり取り出来る5Gが本格運用されれば、自動運転車や遠隔手術などの普及に弾みがつく。産業や生活が一段と通信インフラに依存するが、通信が途絶えれば、人命にかかわる事態に繋がるリスクも高まる。と、やはり新聞の記事にありました。

あり得ない話でしょうが、宇宙人が地球を狙って攻撃してきたら、このような人類の脆弱さもあります。利便性を求め進化してきたものはもとには戻りませんが、物事には必ず二面性があります。これまで以上に、安定して運用できる仕組みが必要になることは確かです。
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事業の継承(その2)

2018年12月08日 04時55分43秒 | Weblog
政府が行なった事業継承税制の今回の改正では、納税が猶予される割合が8割から全額になり、対象となる株式も発行総数の3分の2から全てに拡大されました。継承時点での税負担をゼロにすることができます。更に孫の代まで経営を引き継げば、猶予されていた税負担は免除されます。まさしく、日本の産業を支える中業企業の事業継承を円滑に進める為の優遇措置です。

そのセミナーで、東京税理士会の先生と東京都事業引継ぎ支援センターの担当者からの話しを受けて、実態が2~3浮かび上がってきました。2015年のデータでは中小企業の経営は誰へ継承されたか、その内訳は親族33%、従業員26%、第三者41%だそうです。しかし今から50年前は、親族継承が93%を占めていたとのことでした。

経営者のボリュームゾーンは20年前が47歳であったのに対し、現在は66歳前後と、当時のボリュームがそのままスライドした状態となっているそうです。それらの多くが70歳前後でリタイアを希望するとすれば、後継問題は正に正念場を迎えます。引き継ぎ手が現れず更に続投を余儀なくされるのか、後継者不在で廃業するのか、あるいはM&Aの道を模索するのか。

東京商工会議所は東京都事業引継ぎセンターを設けて、中小企業の、主にM&Aを無料で支援しています。具体的な仕事は、譲渡希望企業と買収希望企業からの相談や、実際のM&A成約です。

譲渡希望企業が多いかと思いきや、買収希望企業も多く、件数は拮抗しているとのことでした。買収希望企業の目的は、新たな技術取得もさることながら、人材確保が挙げられるそうです。会社ごと人材を確保する。現在の求人難の世相を反映してるともいえます。このような説明を受けると、正に中小企業のおかれている厳しい実態が見えてきます。

わが社は先代が昭和27年に創業して、今年66年目になります。大正時代中期、私の祖父が鉄の仕事に携わって、戦中・戦後10年ほどのブランクはありましたが、鉄の主体から外れることなく、お陰様で長きに亘り事業を継承させてもらっています。

5年前の11月22日、創業60周年記念式典を新浦安のホテルで、多くのお客様を招いて挙行させてもらいました。その11月22日は、以来わが社の創業記念日と制定しました。

今年は私の都合が悪く、前の日の11月21日に行事をおこないました。行事といっても、全社員がお昼時間に少し豪華なお弁当を買ってきて食堂で食べ、その後会社前面に設置してあるモニュメントを皆で綺麗に磨き上げ、その前で集合写真を撮ります。そのオブジェとは、祖父の時代に工場で使っていたシャーリング機のフライホイールです。

前回紹介しました伸鉄メーカーは、最盛期100社以上存在した同業者がほぼ撤退する中で、それでも生き残った会社です。親族四代に引き継がれ、更に現社長の息子も会社におられます。伸鉄メーカーは一時期、斜陽産業と言われました。斜陽かどうかは問題ではなく、長年の技術力を活かしニッチの市場に対応して存続したのです。

事業の継承問題は、後継者が存在するのか・会社の中身はどうなのか、この両輪です。わが社のオブジェは一つだけの輪ですが、事業継承の両輪を見据えていきます。


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事業の継承(その1)

2018年12月01日 05時28分26秒 | Weblog
鉄鋼業界紙に、創業100周年を迎えた企業が紹介されていました。上場している大企業などではなく、中小規模の鉄鋼業界においては100年を越えて存続している会社は多くはないものの、私が知っている範囲でも何社か存在します。記事で私の目に止まったのは、その企業が“伸鉄メーカー”であることです。

伸鉄とは、再生圧延鋼材とも言われます。精選された鉄屑、船や建物の解体材、製鋼の分塊・圧延工程で生じる発生品、これらを材料として加熱し圧延して造られる小型棒鋼や平鋼などのことです。技術的にも資金的にも比較的操業が簡単なので、主として中小規模の業者がメーカーとなります。

一方大規模な設備で、同じ鉄屑を主原料として、電気炉で溶解・鋳造し圧延して、鋼材を量産するのが電炉メーカーとなります。伸鉄メーカーは1970年代まで棒鋼を中心に高いシェアを維持していましたが、80年代電炉メーカーとの競合などで数を減らしました。最盛期は全国で100社は優に超えていましたが、現在は4社を残すのみとなってしまいました。記事に載っていた伸鉄メーカーは広島福山市に在る、その1社です。

伸鉄メーカーと聞いて懐かしく思ったのは、嘗てわが社は取引をしていたからに他なりません。昭和30~40年代関東でも、30社ほどの伸鉄メーカーが存在しました。東京の江戸川区だけでも4~5社あったと思います。わが社の先代が、扱うことを始めたスケール(鉄の粉)は、その伸鉄メーカーが圧延する過程で発生するので、そこは主要な回収先でした。

昭和40年中ごろ、「梶哲さん、スケールはおたくに出してもいいけどさ、材料を供給してよ」とは、或る伸鉄メーカーの社長からの要請だったそうです。市中から鉄屑を集め、上質の物を一定の重さとサイズにわが社で加工して伸鉄メーカーに供給することが、わが社のスクラップ事業に進出する切っ掛けとなり、そのスクラップの仕入先が溶断業者であり、そこに鉄板を売ることが後々のメイン事業になったのです。

「全国でうちの他3社を残すのみだが、最後の1社となっても伸鉄の名を守り続けていきたい」。福山にあるその伸鉄メーカーの社長の言葉です。少量でも収益性の高いニッチな需要を捉え、伝統の圧延技術をもって、市場の変化に対応し、様々なニーズに応えてきた100年企業です。

単に情業継承と言っても、企業の独自性や先見性、健全性などがなければ存続しません。しかしそのような力が備わっていても、後継者がいるのかいないのか、そして従来の相続や贈与の税制上の問題で、日本の中小企業の事業継承は大きな転換期を迎えています。

「70歳以上経営者の半数が後継者未定であり、日本の企業数の99%を占める中小企業の多くが廃業の危機に立たされ、このままでは約22兆円の国内総生産が失われる恐れがある」と、今世間では騒がれています。

そのような中で、日本政策金融公庫が主催した『事業継承税制説明会』のセミナーに先日参加しました。千代田区大手町にある会場で開かれましたが、出席者は定員をオーバーして300人近くになったようで、この課題での経営者の関心の高さを強く感じました。

今回改正になった事業継承税制の説明では、京橋税務署から資産課税事務担当者。施策・取り組みの紹介では、東京税理士会の先生と東京都事業引継ぎ支援センターの担当者。それぞれから、特例措置のポイントや事業継承支援の概要の説明を受けました。 ~次回に続く~

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