梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

分かれ道は(その3)

2021年04月24日 04時50分15秒 | Weblog
日本での仏教として定着した浄土真宗ですが、宗祖は親鸞(鎌倉時代の僧)です。親鸞の師である法然によって明らかにされた浄土教。その真実の教えを継承し発展させたのが浄土真宗です。浄土経とは、一言でいえば「阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土へと往生する」ことを説く教えのことです。日本の仏教は、中国から大乗仏教として伝来しました。  

大乗仏教とは、在家のままでブッタへの道を歩むことができる教えです。同じく大乗仏教として成立年代順としては、「般若経」更に「法華経」そして「浄土経」となります。「般若経」や「法華経」は、お経を読むことで悟りを説きました。「浄土経」は、修行など一切不要で「南無阿弥陀仏」と称えれば誰もが極楽に往生し成仏できると説きました。「浄土経」が「浄土真宗」となり多くの信者を得たのは、その時代の背景がありました。

平安時代の末期の日本は、律令国家が崩れて貴族の権力が弱まったことで、乱世の様相を呈します。仏教界も堕落して、寺院が僧兵を抱え争うようになります。加えて毎年のように各地で天災が起こり、大凶作や飢餓が頻発し、大量の病死者や飢餓者が続出するようになっていました。そんなどん底にある人でも、救われる道を示したからこそ、浄土経は民衆の間に爆発的に広がっていったのです。

「自力ではなく、阿弥陀様が私たちを浄土に連れていってくれる」という「他力本願」の考えこそが、浄土経と他のお経との大きな違いです。つまり目的が「悟りを開いてブッタに近づく」から、「救われること」へと変わったのです。世の苦しみから逃れたいという願う信者が増え、大衆に迎合するかたちで教えが変化していく。時代や社会とリンクしながら、次第に解釈が変化していくことが容認されたのです。【以上は、佐々木閑著『100分で名著/大乗仏教』を引用・参考にしています】

「時代と環境によって、大衆が救いを求めて、大衆に合わせ夢を叶えようとした人物が現れる」。そこでもう一度、思い起こさなくてはならないのはヒトラーです。ヒトラーのナチ党は、救いを求めた国民に対し「公平」「団結」「格安旅行」で、夢を与えようとしました。しかし結果は、ナチスによるドイツの第三帝国は20年足らずで終末を迎え、信じたものは救われなかったのです。かたや浄土真宗は今日まで七百年以上も続き、信者の数は日本の仏教宗派の中では一番多いといわれています。

その分かれ道とはなんなのでしょうか。ヒトラーは救いを求める国民に、主に物欲を満たそうとしました。親鸞は救いを求める民衆に、心のよりどころを与えようとしました。ヒトラーの才能はいまだに謎ですが、恐ろしいのはむしろ、そのような人物をつくってしまったのはドイツ国民だったともいえます。

「歴史は繰り返される」といわれます。その反省からか、ドイツ人はその歴史を現在も保存しています。ドイツの街を歩いていると、石畳の中に何かが書いてある四角い金属のプレートを目にするといわれます。これは「つまずきの石」と呼ばれます。個人の名前や生年月日など、ナチス時代に強制送還され、収容所で殺された人の情報が刻まれているのです。

ユダヤ人をはじめ罪がない多くの人々はナチスの犠牲となり、連れていかれた人が住んでいた家の前に埋め込まれています。一人の芸術家によって1993年に始まった、ケルン発祥のアート・プロジェクトで、今ではプレートは6万を超えヨーロッパ中に見られるそうです。

ドイツでは、ナチズムの負の歴史を風化させないために、大きな記念碑や記念館は建てられています。一人の芸術家は、それだけでは日常生活の中で常に記憶を維持していくことは難しいのではと考えました。公有地にある一般的なメモリアルは、日常生活にはあまり関係ないのです。日常的につまずかせる(気付かせる)この石は、印象が強く残る記憶碑だと思います。

一方で、日本人は「水に流す」ことが好きで、それによって記憶をなくすのは非常に上手いと揶揄されます。「記憶をなくしたものは歴史をもなくす」と、ある歴史家は指摘します。ヒトラー・ナチスの体質をもう少し追ってみて、現代にも通じる組織や集団の恐ろしさを考え、今回のテーマを終わりとします。  ~次回に続く~

ドイツケルンの「つまずきの石」

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分かれ道は(その2)

2021年04月17日 04時49分42秒 | Weblog
「フォルクスワーゲン(以下:VW)」は、現在自動車メーカーとしての名前となっていますが、ドイツ語のVWとは「国民車」の意味です。ヒトラーが1934年のベルリンモーターショウで提唱した国民車計画に従い、著名なF・ポルシェによって、進歩的なメカニズムを備えた流線型のリアエンジン小型車が開発されました。この国民車を供給すべく1937年に、旧VW製造会社はナチス政権の国有企業として設立されました。

しかし1939年に第二次世界大戦が始まるとまると、VW製造会社は軍需生産に移行し、この車をベースに転用した軍用車両を生産します。民需であり大衆を喜ばそうとした国民車は生産されず、積立金を支払っていた購入希望者への納車はされなかったのです。そのような情勢で、当初のVW計画は立ち消えた形になりました。

「アウトバーン」を直訳すると「自動車の走る道」、つまり高速道路のことです。1929年に起こった世界恐慌はドイツにも深刻な不況をもたらし、国民10人に1人の失業者を抱えます。1932年から1933年の選挙キャンペーンで、ナチ党は国民に職とパンを与えることを公約します。高速道路着工や病院建設など公共事業は財政政策の柱でした。アウトバーン工事の特徴として、あえて機械化比率を抑制し、失業者を雇用しての人力施工部分を多くしました。

一方ヴェルサイユ条約を実質破棄し、再軍備をすることで雇用を創出する狙いもあり、18から25歳までのドイツ男子は兵役義務が課されました。また国家労働奉仕団と称し、同じ年齢層に6か月の労働研修が行われました。その結果、600~700万人いた失業者は35万人まで減少したといわれます。開戦までにアウトバーンは3,860㎞が完成しますが、そこに個人が所有しようとしたVWが走ることは一度もなかったのです。

「歓喜力行団(かんきりっこうだん)」とは、ナチ党政権下、国民に多様な余暇活動を提供した組織です。国家管理のもと、旅行・スポーツ・コンサート・祝典などを企画しました。この活動の目的は、「歓び」を通じて労働の「力」を回復させ、併せナチ党の理想を行き渡らせ、ドイツへの忠誠心を高めることでした。それまで労働者階級には手が届かなかった中産階級的レジャー活動を、広く国民全体に浸透させようとしました。

党幹部は既に戦争が回避できないと察知しており、労働者に休暇を与えることで、低賃金でも不満をつのらせないガス抜きの意味もありました。歓喜力行団は提供する活動を増やしながら、民族共同体を目指し、大衆の人気を博してドイツ最大級の組織となりました。しかし戦況が悪化すると、クルーズ船は病院船に転用され、積立制度が反故にされるなど、提供されるサービスが削減されることになります。

「フォルクスワーゲン」「アウトバーン」「歓喜力行団」これら三つの政策が、結果的にドイツ国民を狂わすことになります。本来は「公平」を目指し、「団結」を固め、「格安旅行」楽しんでもらうためのものでした。私の観たテレビ番組では、これらは「快感をくすぐられ簡単にコントロールされる人々への施策だった」、と真相を言い当てています。

『人々はなぜヒトラーに笑顔で従ったのか?』 番組では大学生に、ナチス体験授業(ユニホームを着せ同じ行動を繰り返す)をさせ、そこに社会の敵を与えられると、恐ろしい集団行動へと暴走していく実験も行われていました。また、戦後何十年も経た高齢の人(当時は青年)が、現在もヒトラーを深く信奉している姿も映し出されていました。その老人は、いまだに何か夢を追いかけているようでもありました。

「信じる者は救われる」との世界があります。困難や不安や恐怖におそわれた時、人は何かに救いを求めます。しかし人々が救いを求めた、全権を掌握していた総統ヒトラーは自殺し、戦争に負け、国は東西に分断され、ドイツはホロコーストを行った非人道的で卑劣な国として世界中から非難を浴びます。優秀な民族といわれたドイツをそこまで追い詰めた、その分かれ道はどこだったのでしょうか。  ~次回に続く~
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分かれ道は(その1)

2021年04月10日 04時50分27秒 | Weblog
ちょうど一年前、『新型コロナとドイツ』と題してこのブログ上でドイツの話題を書きました。欧州においては感染者数の上位より、イタリア、スペイン、ドイツ、フランスの順となっていましたが、一方死者数ではドイツが極端に少ないことに関心を持ちました。それは早期検査を徹底したことに因りました。感染者を早期発見し、国民に外出自粛を促し、重症化しやすい高齢者への接触を避けることが出来たのです。

また医療体制にも差があり、人工呼吸器はドイツで2万5千台あるのに対し、フランスが5千台、イタリアが3~5千台に留まっていました。その結果(当時)、コロナ感染者の死亡率は、イタリアが12.1%、スペインが9.2%、ドイツは1.3%と突出していて、因みに日本は2.8%でした。コロナに関して、初期の段階での対応力や医療体制の整備はドイツの国民性を感じました。

そのドイツの国民性は日本と似ていると言われます。相似点として挙げられるのが、几帳面さ、真面目さ、勤勉さです。第二次世界大戦では日本と同盟国の関係にあり、両国の事象面での共通点は、その大戦で同じく敗戦国となりましたが、その後共に重工業が国を支え、世界でもトップクラスの自動車産業が栄え、他国に誇れる経済力を発揮してきました。

今回のコロナ対策だけでなく、あらゆる面で欧州をリードしようとしていて、これからも欧州におけるドイツの存在感は続くと思いました。この国民性はどこからくるかといえば、国の風土や歴史や文化などです。歴史においては、良くも悪くもドイツは際立つものがあります。一年前そんなドイツへの関心から、色々調べ、この紙面で書かせてもらいました。

一週間ほど前NHKBSプレミアム「ダークサイドミスティリー」で、『人々はなぜヒトラーに笑顔で従ったのか?』との番組を観ました。サブタイトルは、『最近研究から恐怖の人心操作に迫る』でした。優れているドイツか、世界でも類を見ない過ちを何故犯したのか。おおよそ知っていましたが、番組を見終わって、その背景や要因がより明確になりました。条件が揃えば、我々社会でもまた起こり得ると感じました。

1938年、ドイツでユダヤ人街襲撃事件「水晶の夜」発生。ヒトラーのナチ・ドイツが大量虐殺“ホロコースト”に向かう端緒のこの事件は、庶民が“笑顔”でヒトラーを支持した先に生まれていた。「公平」「団結」「格安旅行」などの施策で快感をくすぐられ、簡単にコントロールされる人々。そこに社会の敵を与えられると、恐ろしい集団行動へと暴走していく…。近年新たな研究をもとに“笑顔”社会の闇の落とし穴を探る。 以上は、ネット上でアップされている番組解説でした。

それに至るナチスの動向を、私なりに調べてみました。ナチスのヒトラー政権は既に1935年に、ドイツ人の人種的優位とユダヤ人を劣等民族と規定し人種差別を合法化して、その具体的行使のチャンスを狙っていました。水晶の夜の二日前に、ポーランド系ユダヤ人青年によってパリのドイツ大使館員が銃撃され死亡します。青年の両親がナチスにより、ドイツから母国へ強制輸送で追放されたことを知ったからです。

これがナチスの襲撃の口実となりました。ドイツの各地で迫害が起こり、ユダヤ人の居住する住宅、商店、シナゴーグ(会堂)などが次々と襲撃・放火されます。暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーですが、警察は暴動を取り締まらなかったので、笑顔を浮かべている庶民による略奪も多数発生しました。襲撃されたユダヤ人商店のガラスが散乱した様子から、水晶の夜と言われました。

ナチスが台頭した時代、ドイツは第一次世界大戦に負け、巨額の賠償金を課せられ、その後世界は大恐慌に見舞われ、その余波で国内は超インフレが蔓延し、経済は危機に直面していました。当時のドイツの人口は6,500万人でしたが、その規模で失業者が600万人から700万人いたと言われ、要は10人に1人は失業している状態でした。

そうした中でヒトラーは、失業者を減らし、農業や工業の生産性を高めて、巨利を得ている資本家から富を吐き出させ、国民の生活安定を図ろうとします。ドイツと言えば、今でも有名な「フォルクスワーゲン」や「アウトバーン」があります。この二つは、私が観た番組で取り上げていたナチスの「公平」「団結」「格安旅行」の、快感をくすぐられ簡単にコントロールされる人々への施策と、大いに関係がありました。   ~次回に続く~
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10年を振り返り(その3)

2021年04月03日 04時12分53秒 | Weblog
2年前の初夏の時期に一泊の社員旅行を実施しました。毎年一泊の旅行はできませんでしたが、毎月社員が積み立てている親睦用の貯金も溜まっていました。ここ数年で若手社員も入社して、従来の社員と二日間ゆっくり親交を深める目的もあり、行き先は皆に人気が高かった仙台に決めました。

初日は、東京駅から新幹線で仙台へ、昼食(牛タン)後は半日各自自由行動、夜は宴会。二日目は、笹かま工場の見学とかまぼこ作り体験、東日本大震災で津波の被害に遭った小学校視察、日本三景の松島で昼食(海鮮丼)と観光、その後新幹線で帰路。このような行程となりました。

訪れた“荒浜小学校”が特に印象的でした。その小学校は仙台市中心部から東に10km離れた太平洋沿岸部に建っていました。3・11の津波は2階床上にまで達し校舎が大きく損傷したものの、児童や教職員、付近の住民ら計320人が屋上に避難し、津波の難を逃れたのです。1~2階部分には、圧倒的な津波の威力を物語る痕跡が残っていました。

仙台市若林区の荒浜には、740世帯2000人以上が暮らしていました。そこに押し寄せた9mの津波は、荒浜小学校以外の街並みを全て覆いました。そして186人もの犠牲者が出ます。その後この地区は「災害危険区域」に指定され、小学校も閉校。しかしこの悲しい惨事を風化させないため震災遺構として保存されることになり、4年前から一般公開されていました。

「災害危険区域」とは、つまり「この場所には住んではいけない」と、元住民に宣告したことになります。市がシミュレーションした結果、海岸に防潮堤を建てるなど対策を施しても、東日本大震災級の津波が押し寄せたら住民の命は守れない。そう結論づけたのです。被災した沿岸部の元住民全員は、内陸へ集団移転をすることになりました。

『縮む沿岸部 膨らむ仙台』との見出しで 今年の3月11日の新聞に東日本大震災特集が載っていました。被災地では、人口減少が「再加速」する沿岸部と、人・モノ・カネが集中し続ける仙台圏との不均衡な姿が浮かび上がる。震災直後沿岸部(岩手・宮城県)は急激な人口減少に見舞われるが、復興事業が本格化するといったん減り方は穏やかに、しかし17・18年ごろから減少率は再び上がり始めた。この間膨張を続けたのは生活基盤が整っていた仙台市、人口はこの10年で4万人近く増えた。このような内容の記事でした。

この記事を見て、2年前に訪れた仙台の荒浜がどうなったか気になり、ネットで調べてみました。ここは知る人ぞ知るサーフスポットだったようで、震災から数年は足が遠のいていたサーファーたちが、近年ちらほらと戻ってくるようです。宮城県内では有数の白砂青松の海岸で、震災前は賑わった荒浜の海水浴場は依然閉鎖されたままだが、2019年までに3回「海水浴イベント」が開かれたとのことです。

荒浜の住民は土地を自治体に買い取ってもらい、他の地へ集団移転をしました。その跡地は仙台市の所有ですが、元住民の有志がその土地を借りて、2021年4月のオープンに向け共同農園を造る計画が進んでいます。毎週末荒浜に通って開墾や井戸掘り、柵の設置など準備を進め、「人々の憩いの場にしたい」との思いです。そんな動きもあったのか、共同農園から700mほど内陸に入った場所には、今年3月にJR東日本グループの企業が手がけた観光農園がオープンしたとのことです。

復興しても元通りにはならない。震災から10年が経過しても、住む人はいないけれど、荒浜にも新たな日常が築かれようとされていました。先祖代々住んでいた人々にとって、その地に愛着があるのは当たり前です。私は一度訪れただけですけれど、その後を追ってみると当事者になった気持ちになりました。
  
10年前友人を訪ね、福島南相馬市の海岸の近くで見た特徴的な松。津波が引いて行く際に瓦礫でもぎ取られ、一定の高さ以下の枝が全くない松。2年前社員旅行で訪れた、荒浜小学校の屋上からも同じような松が見えました。10年経っても、大震災を忘れ去ってはいけないとあらためて思います。


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