梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

究極の選択1

2010年09月24日 16時39分40秒 | Weblog
私が社会人になった一年目ですから、今からもう35年も前の話です。私は大学の4年間は山登りのクラブ(ワンダーフォーゲル部)に所属していましたので、その同期の仲間を中心に、山梨県北部にある渓谷がとても綺麗な、その沢登りを企画しました。

「沢登り」とは普通の登山道を行く形態の登山では無く、基本的には沢の水が流れているところを渡渉しながら、あるいは滝がある岩場をよじ登りながら頂上を極めるものですから、それなりの経験と技術は必要となります。またその沢の難易度によっては、ザイルワークも要求されます。

当時会社は、土曜日出勤が当たり前の時代でした。山中で一泊する行程を組みましたので、参加者には土曜の休みを取ってもらうことで、或る週末の土日に決めました。大学のクラブ以外の参加者もあり、結局10名ほどが集まりました。山登りは殆ど初めてと言う男性や、山登りの経験者はあるが沢登りは初めてと言う女性もいました。

さて、その当日は、朝から肌寒い雨が降りしきっていました。早朝、中央本線の塩山駅で列車を降り、そこからバスで一時間以上掛かって麓のドライブインでもある御茶屋さんに到着しました。そこからしばらく林道を歩いて行ったところが、沢登り開始の場所でした。

その直前、心なしか雨足が強くなって来ました。その御茶屋さんに入り、しばし様子を見ることとなりました。折角休みを取ってここまで来たのだから行ってみたい気持ちと、この雨の中果たして無事に行けるのかの不安が、その時皆の胸中では交錯していたことは確かです。しかしこの二時間程の様子見が、この躊躇が、その後の出来事の敗因となるとは誰も予期は出来なかったのです。

一人で山に行く単独行以外は、多くなればなる程メンバー編成をして、リーダーやサブリーダー、そしてその他メンバーと、役割を明確にするのが常識です。当然経験や知識の豊富な者がリーダーやサブとなり、不慣れな人をリードし、万一の遭難に対処する為にもこの役割を決めることは重要です。

そのパーティーのリーダーは、現役時代に沢登りの経験も豊かで、私とも何回も一緒に山行を重ねたクラブの同期がなり、私はサブリーダーでした。 《次回続く》
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幇間の芸とは

2010年09月18日 06時27分16秒 | Weblog
幇間(ほうかん)と言われて、何のことか分かる人は少ないと思いますが、太鼓持ちとか、男芸者と言われて初めて分かる人が殆どではないでしょうか。ある勉強会のその後の懇親会で、その幇間の芸を見てみようとの話が持ち上がりました。

インターネット上で調べてみると、歴史は古く豊臣秀吉の側近(おとぎ衆)を務めたと言われるある人物を祖として、太閤(秀吉)を持ち上げるというところから転じて、太閤持ち→太鼓持ちとなった説。ズバリ、鳴り物である太鼓を叩いて踊ることから、そう呼ばれるようになったとする説など、諸説まちまちです。

現在幇間は、東京に3~4名、関西には1名しか居ないとか。時代の流れか座敷芸で優雅に遊ぶお客さんが減ったことや、男性の職業としては「らしくない仕事」の代名詞とされた時期もあり、そして後継者の減少により今や絶滅寸前の職業とまで言われています。

幇とは、幇助(ほうじょう)の言葉があるように、脇から助ける意味があり、例えば二人の間を取り持ち仲良くさせる役割は、誰もが出来るものではありません。時には旦那衆を取り巻き「よいしょ」する訳で、見え透すいたお世辞ですると相手に不快を与えてしまいます。利口でなければ務まらない、芸人の中でもとりわけ難しい職業であると言われます。

私自身は過去に一度、お座敷で幇間の芸を見たことがあります。折りたたみの屏風に半身を隠し、半身はお客さんに見せて、あたかも屏風の奥にもう一人の人物が居るかの如く一人芝居をするのです。体半分には男の着物を、もう半分は女の着物を付けて交互に使い分け、男女声色も変えながら演ずるのです。抱腹絶倒でした。

男芸者と言ってしまうと軽いイメージになってしまいますが、本来の女の芸者さんと違ってその色気も無く、お客さんを単純に喜ばせる訳ですから、究極の接客芸かもしれません。

その会は11月の初旬です。先日予約した浅草の料亭に下打ち合わせに行きました。終って外に出たとろ、東京スカイツリーがこんなに近くに見えました。
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素直になれば

2010年09月11日 11時29分51秒 | Weblog
私が参加させてもらっている或る会があります。その会員の大半は高齢の方で、殆どが私より年上と言うこともあり、私はその会の世話人を仰せつかっています。日本の歴史、芸術や文化など造詣が深い方達が、お互いに講話する目的で隔月集まっています。

私は会社経営しか知りません。では何故この会に入ったのか、その経緯は省略しますが、従ってそんな幹事の役割を荷なうこととなりました。三回前から会報を作ることになりました。次回開催案内を出すと同時に、前回の講話者の要約と会計報告も載せました。当然その会報の作成・発送は私の仕事です。

一回目の会報を郵送したその直後です。或る方から、「何で私は会費の未払いがあるか?!」と唐突に、けげんそうな電話が入りました。会費は参加した人から当日ちゃんと徴収しているので、会費の未払いはあり得ないのです。

毎回の会費は定額です。但し勉強会が終わり会食をしますので、その飲食内容により、会費で集めたものとお店に払うお金では過不足が発生するのです。会計報告の、会としての当日の“会費不足金○○円”が、参加者リストのご自分の名前の脇にそれがあったので、どうも勘違いされたのです。

ようやく理解してくれました。しかしご自身が勘違いされたのに、私への詫びの一言は遂にありませんでした。そしてその方は、ご自身の過去の職歴や関わった団体の話しをし出したのです。何かそれとこれは関連があるのでしょか。

先日その方からまた電話が入りました。「先週の会は出ると言って出られなかった。翌日副会長にはその理由を伝えたのだが、世話人の梶さんがとても困っていると言われた!」「何、梶さんは金銭的な負担をしているのですか?」と。

どうも副会長は、その方を戒める為に、あえて謀ってくれたのです。そんなドタキャンもあるので、お店の側には無理を言って当日食事の人数確定をしているのです。

電話の向こうでは、「この歳になっても私は忙しいので・・・」と更に。素直になれば全ては解決しますが、このお年になるともう難しいのでしょうか。
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返し尽くせぬ恩2

2010年09月04日 07時15分55秒 | Weblog
ご自宅にお邪魔して、ご霊前で焼香を済ませました。遺影は在りし日のその方の、穏やかな面影を残していました。聞けば、三年前にご夫婦でヨーロッパ地中海クルーズに行った時の写真とか。

その方と最後にお会いしたのは6年前、大阪の御堂筋に構えていた事務所でした。「日頃もっと梶哲さんの商売を報告して、指導を受けに来なくてはいけないな!」と叱られた記憶が甦りました。親分肌の、その方の愛情の表現であることは、十分に理解していました。

そんなところが私の父親と似ているところです。父親は腹に含みがありませんから、味方も多くいましたが、敵もいました。そんな二人でしたので、知り合った直後に意気投合して、時間も掛からず取引が開始したのかもしれません。不思議なことに、享年66歳で亡くなったところまで同じです。

「主人はお盆の休みの直前に、梅田の阪急デパートで大量の松茸を買い込んだんですよ」と、奥様は話してくれました。翌日から四日間次男家族が東京から遊びに来るとのことで、焼き松茸、松茸のすき焼き、松茸の土瓶蒸し、そんな大判振る舞いをお爺ちゃんは皆にしたそうです。

帰る前日は、三歳と一歳の孫娘さんとプールに出掛けとても楽しんだそうです。そして翌日、伊丹空港に見送りに行く直前に気分がすぐれなくなり、次男家族を自宅で見送ったとのこと。間もなく本人から救急車を呼んで欲しいとのことで、駆けつけた救急隊員が応急手当をしている最中に、意識が無くなって行ったとのことでした。

息子さんとは、飛行機の搭乗直前に連絡が付いたと言います。人の死に方には、それ迄の生き方が出るとはよく言われますが、これ程までの往生はあまり聞きません。奥様はご主人か亡くなった感覚が、全く無いと仰っていました。

私達がお邪魔した時は、亡くなって既に10日は経っていました。次男の息子さんは仕事で東京に帰られたものの、お嫁さんとお孫さんはそのままいらっしゃいました。「本当に自分の思い通りに生きた主人ですが、私が急に寂しくならない様に、こんな演出までしてくれた主人です」と、奥様は仰っていました。
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