梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

才能の正体(その3)

2021年08月28日 04時45分18秒 | Weblog
前回までのおさらいです。『才能の正体』の本に添って、才能のあらたな認識でした。才能は誰もが持っているもので、秀でている人の結果だけみて特別だと決めつけず、その才能を引き出す確かな方法もある。多くの人はその才能を潰している。その人の才能を育もうとしている、傍にいる人のフィードバック(以下略:FB)を考察してみる必要がある。そのような流れでした。そのFBについて著者の見解を、また次に引用します。

世の中で最もFBしてくるものは、鏡である。自分が今どういう状況か的確に映し出し、より綺麗になりたいとかカッコ良くなりたため、人は鏡を見ている。また鏡は、良くなった結果も確認できる。これは何を意味しているのかというと、人間はFBを受けより良くなろうとする生き物である。しかしその鏡が意志を持っていて、「今日の髪形は決まってないね」「年取ったね」とマイナスな点ばかりいわれたら、素直に聞けるでしょうか。でもほとんどの人が、人に対してこの間違ったFBしている。

実際に鏡が行っているのは、人為的な良い悪いの判断ではなく、単なる客観的なFBである。ところが、子供が勉強する姿勢が悪い場合、親御さんはどう声をかけているか。「姿勢が悪い直しなさい!目も悪くなるわよ!」みたいに、命令するとか余計なことを言ってしまうが、一番いいFBは「背中が曲がっているね」と事実だけ言う。すると、こちらの話しを聞こうとする姿勢をみせてくれるようになるのです。

本来、人はFBされることに弱い生き物。人は自分が正しい思とっている価値観に支配されている。何かしらのFBを受けると、後悔した過去を振り返って、もっと良くならないといけないと、直そうとしているのです。それでは、上司が部下の才能を伸ばすための、一番簡単な方法とは何でしょうか。それは「中立的なFBを、ただひたすらすること」です。中立的とは、FBにあたって上司の価値観を挟まないこと。すると部下が持っている価値観の通りになっていく。すなわち部下自身が持っている理想の姿です。
 
上司の主観的な意見や価値観を押し付けると、それに従わなくてはならないと思わせたり、あるいは反発させてしまったり、合わないと感じた部下は離れていきます。頼んでいた書類を元に打ち合わせをすることにしていたが、約束の時間になっても部下から書類が上がってこない。そんなケースです。上司は頭から注意するのでなく、「予定していた打合せのスタート時間は?」と尋ねる。事実だけを聞いて、相手に答えさせる。これが中立的FBなのです。威圧的FBは何一つメリットがありません。

著者坪田信貴さんの、FBについての持論はこのようなものです。多くの教え子の才能の正体を見極め、開花させた実績があるかこその説得力でした。

さて、わが社において社長(上司)と社員(部下)の間で、この中立的なFBがなされているかどうかです。上に立つ人は先ずは、才能は誰もが持っているのだと強い信念を持つことです。そして、その才能を潰してしまう危険性を持っているのも、上に立つ人だと認識しなくてはなりません。

「社長の資質とは一体何なのか?」と問われれば、判断・決断力、先見性、洞察力、実行力、統率力、人間力などなどがあげられます。その一つ判断・決断力ですが、永遠絶対なものではないと私は考えます。AとBの選択を迫られ、Aを選んで10年経過し、相応の結果が出たとします。しかし10年前に遡りBを選択して、その結果を比べ検証できない限り、その判断・決断力が絶対正しかったのかどうか分かりませんし、時代の変化でその評価も違ってきます。

ではあらためて、社長の資質で何が必要かと問われれば、社員とどれほど寄り添えるか、自分とは異質な社員を生かし切れるかだと思います。つまり、社員の自主性をどれだけ引き出せるかです。これは誰でもが持っている能力かもしれません。そんな考え方があったので、プラスの意図もマイナスの意図も加えないで、ただ事実のみを根気強く言う、坪田さんのFB論は共感しました。

「教育・指導・改善は、実は悪感情を生んでいる」とは、坪田さんの言です。伝える側とのしっかりとした信頼関係が無いと、受けた側の心に必ず生じるのが、この悪感情だと断言しています。受けた側は、自分はこうしようと思っていたのに「違う」「こうしろ」と言われているのですから、と。この大きなズレも再認識したいものです。
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才能の正体(その2)

2021年08月21日 03時50分30秒 | Weblog
その本の著者は坪田信貴さんと言う方です。タイトルは『才能の正体』。「才能は、誰にでもある。多くの人たちは、その才能を潰してしまうことばかりしている」、そういっています。本の紹介に入る前に、私がどのようにして坪田さんを知ったのか、そして本を読んでみようと思ったかの話しをします。  

車の中のラジオで、坪田さんの話を途中から聴きました。学習塾を経営されているようで、企業の人材育成の研修の講師のようでもありました。「気が進まない勉強(仕事)を始めるにはどうしたらいいのですか?」とのパーソナリティの質問に、「例え5分でも、身構えないで始めてしまう。すると案外20分や30分はできてしまう。仮にそこで止めても、やらないよりもやっただけ伸びるので、無駄ではありません」と答えていました。

これなら誰にでもできる、と物凄く共感しました。坪田さんは、映画化もされ大ベストセラーとなった、『学生ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話』(長いタイトルはそれ自体でストーリーを伝える意味があるとのこと)の作者だったのです。いわゆるビリギャルを指導した、学習塾の先生が坪田さんでした。その話に引き込まれ、氏の書いた『才能の正体』の本を読んでみました。以下、しばらく本の内容です。

そのビリギャルの名は、さやかちゃんです。「さやかちゃんには、もともと才能があったのでしょ?」と多く人から言われましたが、対する私の答えは「ノー」です。才能は誰でもある。この言葉を素直に信じてくれる人は少ない。その才能とは結果でしかなく、「才能がある」と言われている人たちに共通点がある。それは、みんな努力をしている。努力をしなくてもできちゃう人を、「才能がある」と言いがちである。

本質的なことを言うと、自分に合っていない、ふさわしくない場所でいくら頑張っても物事身に付きません。「才能がある」と言われている人たちは、“その人に合った動機付け”がまずあって、そこから“正しいやり方”を選んで、“コツコツと努力”を積み重ねている。そしてきっちりと結果を出して、その時に初めて「才能がある」という状態になる。正確に言えば、「才能がある」と言われるようになる。

動機付けとはやる気のこと。子供がもつ「遊びたい」も動機付け、「勉強したい」という動機付けがないだけです。親御さんのやり方次第で、やる気も引き出せる。動機付けは、認知、情動、欲求の三つの行動から成り立つ。さやかちゃんの例です。彼女は僕のところにやってきて、出された課題をこなし、自分はどれができて・できないかを認知していきました。勉強は自分ができるようになっていくと、どんどん面白くなり成績が上がる。すると情動が刺激され、更にテンションが上がる。そして慶応に合格したい、バカにしていた身内や学校の先生を見返してやりたいという強烈な欲求がでてくる。これらが継続して、才能と呼ぶべきものになっていった。

このようなことが本の最初の章、「才能とは何か?」で書かれていました。オリンピックの選手には、ずば抜けた才能が元来あったのではないのです。生まれつき誰もが持っている能力を、潰さず、努力して、効果的に磨いてきた結果であることが分かります。オリンピックの選手には、必ず師が存在して、お手本があります。この本には、その習得の方法も書かれていました。

「フィードバック」という言葉があります。言葉は知っていますが、あらためて調べてみると、もともと制御工学で使われていた用語のようです。出力結果を入力側に戻し、出力値が目標値に一致するように調整するとの意味です。転じて、求める結果とのずれを生んでる原因を行動側に戻すことを表現するようになり、企業の人材育成においては、上司から部下に対し、行動の改善点や評価を伝え、軌道修正することを促すことが常となったと思われます。

『才能の正体』の本では、このフィードバックについても紙面を割いています。フィードバックは客観的な“事実のみ”をいうだけでいいのであり、ほとんどの人が間違ったフィードバックをやってしまっている、と警告します。そこで、“中立的なフィードバックをただひたすらすること”と強調します。

家庭においては子供を、会社においては部下を、親や上司(社長)は指導教育の観点から、一瞬たりともその行動が気にならないわけがありません。改善点を伝えようとするあまり、そのフィードバックが逆効果になることが書かれていました。    ~次回に続く~  


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才能の正体(その1)

2021年08月14日 03時43分24秒 | Weblog
東京オリンピックが閉幕しました。コロナウイルスの影響で一年延期され、さらに大半の競技が無観客の大会となりました。一年延期されてもなお直前まで、感染が収まらず開催が危ぶまれ、まさに非常事態のオリンピックとなりました。最後まで開幕の賛否はあったものの、選手の立場を考えたならば、私は開催されてよかったと思っています。

前回のリオデジャネイロのオリンピックは、28競技・306種目、今回の東京のオリンピックは、33競技・339種目が行われました。ジェンダー平等の観点から、水泳、陸上、卓球、柔道などで男女混合リレーや団体戦が今回加わり、また新たに採用されたスケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなどもあり、なによりも若い日本選手の活躍が目立ちました。

テレビ観戦で惹きつけられたのは、フェンシングの男子エペ団体の決勝戦です。他の競技も見比べながらチャンネルを回していたら、ちょうどその場面が始まりました。初戦アメリカ戦では8点差をつけられるも逆転し、続く準々決勝では強敵フランスに接戦のすえ勝利して、準決勝で韓国を制し迎えた決勝でした(解説で知りました)。選手たちは一丸となり強豪ROCを圧倒し優勝して、日本フェンシング史上初の金を獲得しました。

その一人、山田優選手について書かれた記事を読みました。「小さい頃両親が離婚。姉と二人、母親は女手一つで育てる。幼稚園の頃小児喘息で、一ヵ月に一回は具合が悪くなり、まともに運動することもかないませんでした。それでも母親は、スイミング、柔道とできそうな競技を探したが、全て断られた。辿り着いたのが小学二年、近くのフェンシング道場。初めは特にずば抜けたものがあったわけではないが、高校になって頭角を現し、その後日大へ入学、世界ジュニアのエペ個人で日本人初の優勝を果たした」。そのようなことが書かれていました。

観戦はできませんでしたが、レスリング男子グレコローマンスタイル77㌔級で銅メダルをとった、屋比久翔平選手のこのような記事もありました。「父は同じくグレコで全日本選手権を2度制覇し、バルセロナ五輪を目指していたが、最終選考会で靭帯を痛める大怪我をして、再起を断念。そして男の子が生まれたら夢を託そうと決めた。翔平は3歳から父が監督を務める高校のレスリング部のマットで遊んだ。小4から本格的に競技を始めたが、緊張したり悔しかったりすると、いつも泣きべそをかいていた。高校からようやく力量を発揮し、グレコの名門日体大へ。今年4月五輪アジア予選で五輪切符をつかんだ」。このような内容でした。 

同じく五輪でメダルをとった二人ですが、屋比久選手は生まれた瞬間にレスリングの道が敷かれていましたが、山田選手は初めからフェンシングの道が開かれていたのではありません。人は簡単に、屋比久選手は親のDNAが影響してるからだとか、山田選手には才能がもともとあったのだとか、言ってしまいます。そして多くの人は、自分にはそんな才能はないから、無理だと決めつけてしまいます。

才能を発揮できる選手で、注目すべくは、必ず身近に伴走者(協力者)が存在していることです。それは、親でもありコーチでもあります。選手の歩みだけではなく、親子にしても師弟関係にしても、その「想いは」少なくとも二代に亘っています。更に大事なのは継続したことです。山田選手は、お姉さんもフェンシングをやっていて、大会の遠征とかお金が掛かるので、仕事の掛け持ちをしていたお母さんのために、自分はやめ働こうと思った時があったと自ら語っています。「私の生きがいを奪わないで」と、お母さんに言われて留まったそうです。そこでやめていたら、今の山田選手はありません。

「人間の才能とはいったい、何なのか?」「才能とは、どう見つけて、どう伸ばしていけばいいのか?」。今回のオリンピックを観戦していて、メダルをとった選手の生い立ちをみてみると、やはりと思いあたることがあります。少し前に読んだ本が、どうしても重なりました。

「才能は、誰にでもある。みんな、その才能をどう見つけたらいいのか、どう伸ばせばいいのか、わからないだけなのです。自分の才能も、我が子や、教え子や、部下や、後輩の才能も。そればかりか、多くの人たちは、その才能を潰してしまうことばかりしている・・・。そのことに気づくべきなのです」。そういっている方の、本です。   ~次回に続く~
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一年後この世に…(その3)

2021年08月07日 03時47分03秒 | Weblog
最近私の身近でがんに罹り手術をした人がいたり、私自身食道のポリープが見つかったり、そのような事が続き、医者が書いたがんに関する本を読んだ話しをしました。国立がん研究センターで、がんに罹患した人とその家族の診療を行ってきた医師が著した、『もしも一年後、この世にいないとしたら』とのタイトルの本を紹介させてもらいました。

著者の清水研氏は、がんとこころに関する専門医でこの仕事に就いて20年、今まで3500人以上のがん患者と向き合ってきました。その体験を通し、人が「死」を恐れるのは何故か? その三つの理由を挙げ、それらは対処の仕方があり、死を意識して初めて生きることの深さに気づき、期限がある命を自分らしく生きる手掛かりもあると、氏は明言します。先ずは、以下人が死を恐れる理由に関してです。    

1.死に至るまでの過程に対する恐怖(最後はどんなふうに苦しむのだろう・がんによる痛みはつらいのだろうか)。2.自分がいなくなることによって生じる現実的な問題(子供が小さいので将来のことが心配・高齢の両親が悲しみその世話はどうするのか・今取り組んでいるライフワークが未完)。3.自分が消滅するという恐怖(死後の世界は?自分が消滅するってどういうこと?)。この三つがその理由だと言います。

1.についていえば、多くの患者がこの肉体的苦痛への懸念だが、鎮痛剤を適切に使う緩和医療が進み、がんとの闘病は昔ほど壮絶なものではなくなっている。近年は緩和ケアの正しい知識も広がり、介護医療サービス(自宅で過ごすなど)も充実してきた。病棟でも患者と家族が和やかに談話する姿が多く見られ、重苦しくなくなってきている。死に至るまでの苦しみの対策はあると、氏は説明します。

2.については、ずっと気になっていたことなど人生の課題に向き合うことになるが、心に刺さっていた棘を抜くように、先送りしていた問題を解決するチャンスにもなる。3.については、死後の世界の在る無しは別に、その人の生きた証は確かであり、誰かに命をつなぐ役割を果たしたと思えば、死後のことを心配しなくてもいい。氏の主張は、「人生には期限があり、自分もいつ病気になるかわからない。その考えは等身大の人間の認識であり、死を意識しない世界はどこかで破綻する(死が間近になった時役立たない)」です。

次に、期限がある命を自分らしく生きる手掛かりです。死を意識するだけでは、その生き方はわからない。その手掛かりは、「must(すべき)」から「want(したい)」である。「must」に縛られ息が詰まっている自分自ら、主従関係を逆転させ「want」の声を聴くこと。がんを体験した人が、自らの「want」について考え抜いた後の言葉や生き方には、大いなるヒントがあったと氏は強調します。このようなことが、読んだ本の内容でした。

私に置き換えてみても、「want」を押し込めて、「must」に従ってしまう自分があります。それは小さい頃からの親や学校の教育や、社会に出てから一般に容認されている規範や価値観によるものなのかもしれません。しかし『もしも一年後、この世にいないとしたら』と想定したら、「must」に抗い「want」に切り替えるでしょう。些細な事ですが食事をちょっと贅沢にしたり、義理で出かける会合を休んで観たい映画に行ったり、その気があれば生き方は変えられます。

私が一年後に、この世に存在しないとまでいかなくとも、もし自分が病床に伏していると仮定したら。伏している自分が今の自分を振り返る際に、これからの一年の生き方によっては、今の自分をうらやみ、あれもしておけばよかった、これもしておけばよかったと後悔する可能性があります。だからこそ、今日一日をこのように過ごせることは当たり前ではなく、ここにある自分を縛ることなく、大切に生きようとなる。そう考えるようになりました。

今回がんで余命を告げられたわけではありませんが、かなり踏み入ったことを書いてしまったと思います。親しい人から、「手術をしなくて大丈夫ですか」との声が聞こえそうです。医療に対する不信とか手術の意義を疑うとか、そのような事を主張したわけではなく、誰しもに訪れる死に対して、先で後悔しないための、今を大事に生きる私の覚悟と解釈して下されば幸いです。
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