1970年というと、私が18歳で高校三年生の時であり、会社と自宅が同じ敷地にあり江戸川区東葛西に住んでいた頃です。その前年に、東陽町から西船橋までの地下鉄の工事が終わり、東西線が全線開通しました。
その頃の葛西は、未だ民家も少なく田んぼも多くあり、のどかな田舎の風景が残っていました。それが地下鉄東西線の開通と、その後の環状七号線の道路の完成で、葛西は一気に都市化へと進んでいきます。
WOWOW放送で黒澤明監督による『どですかでん』の映画を観ました。この映画の封切りが1970年、昭和45年なのです。色々調べてみるとこのロケ地が、江戸川区南葛西だったことが判明しました。
ゴミ捨て場の中にあるバラック小屋に住み着く人間味溢れる住人達。毎日決った時間に他人には見えない路面電車を運転している知的障害のある少年。貧しくも精一杯生きている、そんな小市民の日常を明るいタッチで描きながら、また時には幻想的な場面も出てくる、そんな内容の映画です。
撮影は南葛西の一万坪もある実際のゴミ捨て場で、廃材で建てた小屋を使って行われたそうです。黒澤明監督を始めとして出演した有名な俳優が、葛西に来ていた訳ですから、ちょっとした感動を覚えました。
当時を思い出してみると、南葛西の一部は人が寄り付かない、言わば無法地帯でした。家庭から出てくるゴミや産業廃棄物を許可無く投棄していた頃であり、ロケ地はそんな場所を利用したのでしょう。
一方わが社といえば、ミルスケール(粉状の鉄)の集荷業の最盛期でした。その十年前に江東区亀戸から葛西に引っ越して来たのも、亀戸が手狭な場所だったこともありますが、ミルスケールが飛び散る近隣への配慮もありました。
葛西に来てから、周りの人から見ればそのスケール業も訳が分からない廃品回収業と映ったのかもしれませんが、少なくとも昭和40年代までは近隣に民家もあまり無く、迷惑を掛けなくてすむ時代でした。
当時の、自分の心境やわが社の商売や葛西の土地柄などが重なる映画でした。
その頃の葛西は、未だ民家も少なく田んぼも多くあり、のどかな田舎の風景が残っていました。それが地下鉄東西線の開通と、その後の環状七号線の道路の完成で、葛西は一気に都市化へと進んでいきます。
WOWOW放送で黒澤明監督による『どですかでん』の映画を観ました。この映画の封切りが1970年、昭和45年なのです。色々調べてみるとこのロケ地が、江戸川区南葛西だったことが判明しました。
ゴミ捨て場の中にあるバラック小屋に住み着く人間味溢れる住人達。毎日決った時間に他人には見えない路面電車を運転している知的障害のある少年。貧しくも精一杯生きている、そんな小市民の日常を明るいタッチで描きながら、また時には幻想的な場面も出てくる、そんな内容の映画です。
撮影は南葛西の一万坪もある実際のゴミ捨て場で、廃材で建てた小屋を使って行われたそうです。黒澤明監督を始めとして出演した有名な俳優が、葛西に来ていた訳ですから、ちょっとした感動を覚えました。
当時を思い出してみると、南葛西の一部は人が寄り付かない、言わば無法地帯でした。家庭から出てくるゴミや産業廃棄物を許可無く投棄していた頃であり、ロケ地はそんな場所を利用したのでしょう。
一方わが社といえば、ミルスケール(粉状の鉄)の集荷業の最盛期でした。その十年前に江東区亀戸から葛西に引っ越して来たのも、亀戸が手狭な場所だったこともありますが、ミルスケールが飛び散る近隣への配慮もありました。
葛西に来てから、周りの人から見ればそのスケール業も訳が分からない廃品回収業と映ったのかもしれませんが、少なくとも昭和40年代までは近隣に民家もあまり無く、迷惑を掛けなくてすむ時代でした。
当時の、自分の心境やわが社の商売や葛西の土地柄などが重なる映画でした。
当時臨海学校の宿舎があった記憶があります。
現在の臨海町の辺りだったと思いますが、既に使われていない建屋が、周りには何もないところにぽつんと建っていました。