梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

文章如何に書くか(その2)

2011年11月26日 06時24分52秒 | Weblog
「文章如何に書くか」そんなことを著した本を二冊読んで、前々回、特に気になったことを書きました。それぞれの本には、『「思う」「考える」「感じる」を減らそう』や、『「~たいと思う」を使わない』という、項目が出てきました。

私はこれを無意識に使ってきました。正確に言えば、常に気にはなっていたものの、しっかりした尺度やはっきりした意志も持たずに使ってきました。

「勉強したいと思う。すると、先ず学校へ行くことを考える」という文章を例に挙げています。「思う」は「考える」という思考の前段階にある。勉強したいのは直感的な欲求であり、学校へ行くはその欲求をより具体化したものだと言います。しかしもっと「勉強します」、「学校に行きます」と言い切った方がすっきりするのではなかろうか、とも示唆しています。

特に「~たいと思う」です。謝罪の、「申し訳ありません。心よりお詫びしたいと思います」。予告の、「これから食べてみたいと思います」。要望の、「方針を決めて頂きたいと思います」。これら「~たいと思う」は、全て不要のようです。

実は前々回の私の文章には、この「思います」が四箇所入っていました。以下
それら、書き換えてみると全て不要となりました。

文章を書くことは本当に難しいと思います。
→文章を書くとは本当に難しいことです。

しかし完璧な文章などあり得ないと私は思います。
→しかし完璧な文章などはあり得ません。

書き手の個性もあってよいのだと思います。
→書き手の個性はあってもよいはずです。

自分の文章を書くことを私は努力したいと思います。
→自分の文章を書くことを私は努力します。

このように書き直してみると、自分なりにスッキリしたと思います。いえ、スッキリした文章になりました。
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二度目の収穫祭

2011年11月19日 11時13分59秒 | Weblog

千葉県八街にある、農業生産法人『旦千花(たちばな)』という農園内で行なわれた、“収穫祭”に参加させていただきました。一昨年初めてお誘いいただき、去年は参加できず、今回は二度目でした。

秋晴れの先週の日曜日、二百名を超える人達が集まり、この農園で収穫された農産物を調理したものを味わいながら、和太鼓の余興もあり、一日楽しく過ごしました。今年は9回目とのこと、会社設立時からの恒例の行事です。

農業生産法人とは、企業が新たに農業に進出する際、農地の取得をするにしても、一定の条件が課せられる制度のことです。過去3年間は農業者と同じ仕事をし、売上高の50%以上が農業関係という制約をクリアする、ことなどが条件です。

つまりここの社長は10年前までは、農業従事者ではなかったのです。若い時から様々な仕事してきて、化粧品のセールスを頼まれたら予想外に好成績を記録。それを機に健康食品などの訪問販売にかかわった。そんな苦労人の社長です。

異業種の交流会での会話の中から、小松菜で漬物をつくるビジネスを思いつき、専業農家に委託してやろうとしたのですが、いろいろな壁にぶつかりました。そして自分で畑をもつ必要性を強く感じ、今日に至っています。

現在販売されている主力商品がこの「江戸菜」で、旦千花のオリジナル・ブランド商品です。ホテルやレストラン約2,000社に、泥や雑菌を完全に洗浄して、新鮮なまま業務用食材として、自社便で毎日配送しています。

販路開拓では、訪問販売で培った営業セールスの経験をもとに、サンプルの江戸菜を持って、一軒ずつ飛び込みで外食企業を廻ったそうです。この他にも、農業に企業経営手法を随所に取り入れて、会社を成長させてきました。

10年前57歳でゼロからスタートさせた会社は、今社員数75名と聞きます。私と同じ様な歳で、畑違いの企業を起こし、今では息子さん二人も会社に入れてしまいました。私の知人から、5年前に大槻社長を紹介されました。

農産物直売店『北総大地』を昨年同じ八街にオープンしました。実はこの建屋の建築に際し、わが社から鋼材を買っていただいた、そんな関係でもあります。
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文章如何に書くか

2011年11月12日 11時15分01秒 | Weblog
私は、このブログにしてもこれ以外でもそうですが、最近文章を書くことが多くなってきています。文章を書くことは本当に難しいと思います。そして如何に文章は書けばいいのか、そんなことを著した本を二冊読みました。以下特に気になったことです。

「~だが、」あるいは「~なのですが、」とか、接続助詞の「が」を使って次に繋げいくことがよくあります。しかしこの「が」は、本来逆説のときにしか使われないものだといいます。 

「が」は逆説のイメージが強いため、前半の文のお尻に「が」が出てくると、読み手は何か困ったことが起きたのかと想像し、後半の文に順接の内容が出てくると裏切られた気分になるというのです。

何気なく便利に使ってしまうこの接続の言葉は、日常会話ではいいとしても、文章表現ではもっと厳密な働きを意識しましょう、との指摘でした。使い方として正しいのは、「一見するとAだが、よく見てみるとBであった」とかの例です。

主語と述語を近づける。具体的・客観的に伝える。これ等は初歩的なことであり、これまでのことで改善して冒頭の文を書き直してみると、『このブログにしてもそうであり、他の会報に投稿することも度々となり、私は文章を書くことが最近多くなってきています』となるのでしょうか。

他にも、語法を意識するだとか、内容を豊かにするだとか、描写力をどうつけるかだとか、組み立てのノウハウを知るだとか、多岐に亘る項目があります。しかし完璧な文章などあり得ないと私は思います。

それは読み手側の感受性でそれぞれが判断することであり、書き手の個性もあってよいのだと思います。読み手に分かりやすく、読み手に伝わる、自分の文章を書くことを私は努力したいと思います。

如何に文章を書くかについての内容の文章はとても筆が重かったのですが、書いてしまったら気が楽になりました。この「が」の使い方はOKですね。
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経営理念について(その3)

2011年11月05日 09時44分21秒 | Weblog
『泥の中にも蓮の花』にしても『良樹細根』にしても、お話ししてきたように、そもそも借り物です。初めは借りてきたものでもいいと私は思っています。問われるのは、それをどれ位自分のものとするかです。

自分に起こる事象の捉え方やこれから進もうとする生き方を、これ等の解釈として色々置き換えて、そのなかで納得の度合いを深めて、更に本質を追及して進化させていくかどうかです。

葛西に本社が在った頃、私は毎朝公道を掃除していました。ある時期まで真剣にやっていました。そこに費やす時間の合理性や、それさえしていれば全てが解決するのか、人に出来ないことをしているおごりがないのか、ある人から問われて、よこしまな自分に気付き掃除続けることを止めてしまいました。

かといって公道で自らゴミなど捨てることは、今もって私は一切していません。自分の心の中ではこれも善であり、タバコにしても空き缶にしても無造作に捨てる人よりましである自負があります。

しかし果たしてこれは本当に善であるかと言ったら、悪いことはしないが善いこともしていない訳で、究極は善ではありません。ゴミを捨てないことは当たり前であるなら、プラスでもマイナスでもないのです。

「四分六の人生を送れ」と言う人がいます。この世に生まれて、善いことも悪いことも五分五分でしかしないと、帳消しになり残るものが無い。人間なので、遊び(車のハンドルの遊びと一緒で)として、悪いことをする(許す)余裕が欲しい。それが人間味なのだと。善いことを少しでも残しなさいとの諭しです。

公道を掃除をして、何がしかの成果や評価を期待する、これは偽善です。しかし本当に何か感謝の気持ちでするとか、自分の使命だと思ってやるのであれば、偽善ではありません。以前の私は、これが欠けていたのだと思います。

ぶれない精神を作ることは難しいことですが、『泥の中にも蓮の花』と『良樹細根』は、その行為行動に我欲や私心はありませんか、こんなことを今の私に投げ掛けているようにも思います。
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