梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

ナチハンター(その5)

2024年06月29日 06時15分24秒 | Weblog
ホロコーストの抑制がもはやきかなくなり、第二次世界大戦に負けたドイツは、裁かれることになります。それがニュルンベルク裁判です。軍部の統制が図れず混迷し、太平洋戦争に負けた日本も、裁かれることになります。それは極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)です。

ドイツと日本のこの裁判で特徴的なのは、主に勝戦国が敗戦国を裁いたところにあります。一体、国や戦犯などを裁くとはどのようなことなのか。二つの裁判は、勝戦国の論理や正義を持ち出して、裁くことにならないのか。それを理解しなければ、これらの裁判の本質は解りません。

もし日本が米国に勝っていたら、東京裁判で裁かれた同じ行為をしていた日本は、裁かれることはなかったでしょう。つまり、戦勝国の行為が人道にもとったものでも、問われないことになります。色々と疑問がわいてきます。今回このような問題を考えてみたいと思いました。

今回二つの裁判を学び直し、調べてみて分かったことは、ニュルンベルク裁判が先に行われ、その後に東京裁判か行われ、しかも東京裁判はニュルンベルク裁判を手本としていたということです。それが、日本にとって理不尽な結果に終わったことは、あまり知られていません。

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ平和条約によって設立された国際連盟の規約には、国家が国策上戦争に訴える余地を残していました。しかし、1928年に署名され翌年に発行した「パリ条約」において、当事国は「国策の手段としての戦争を放棄する」ことを宣言しました。

つまり国策の手段として、国は戦争してはならないとのことです。この条約には後に多数の国が参加しました。そのため国策の手段としての戦争を侵略戦争と呼び、パリ条約以降、侵略戦争は国際法に違反する行為となったのです。一国の侵略的な戦争行為は、人道上では悪行とされたのです。

これに対して異論もあり、国策の手段としての戦争はパリ条約の当事国相互間では違約行為であっても、条約の非当事国を含む国際社会全体において違法行為となったわけではなく、侵略戦争とパリ条約で宣言したものの、何が侵略戦争であるか何が自衛戦争であるかをハッキリ定義せず、結果この判断は「各国家に委ねられる」とのことになりました。

皮肉にもそこを明確にしないまま、第二次世界大戦がドイツによって引き起こされます。また、それまでは「戦争犯罪人」という言葉は、「通例の戦争犯罪(捕虜の虐待や一般住民の殺傷のような戦時法規の違反者の犯罪)」を犯した者の意味であって、国として戦争を行なうことは犯罪とはみなされていなかったのです。

従って、第二次世界大戦の後でも、通例の戦争犯罪人を処罰するにとどめ、ドイツや日本の戦争責任については、国際世論や国内世論の道義的判断に委ねることも可能だったのです。ではどうして、ドイツや日本がその裁判で裁かれるようになったのか、それも戦勝国によって。

米ソ英仏4ヶ国はドイツを無条件降伏させた3ヶ月後の1945年8月ロンドンにおいて「ヨーロッパ枢軸国主要戦争犯罪人の追及および処罰に関する協定」を締結し、同日定めた国際軍事裁判憲章に基づき、同年11月からのニュルンベルク国際軍事裁判もこの4ヶ国で構成されました。

ロンドン会議で、国際法の内容の中で一番議論を呼んだものの一つは「国家の行為に対して、個人の責任を問うことの是非」でした。その結論は、戦勝国たる連合国側は、裁判により戦敗国の指導者の戦争責任を追及する道を選ぶことになります。

東京裁判のモデルとなったニュルンベルク裁判とは、1945年11月から1946年10月までニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判をいいます。ニュルンベルク裁判で起訴されたのは、第三帝国期のドイツ国家官庁・ナチ党・軍・経済界の指導的地位にあって戦争遂行に重大な役割だったとされる24名の被告でした。

裁判における訴因は「(侵略戦争遂行のための)共同の計画もしくは共同謀議への関与」「平和に対する罪」「(狭義の)戦争犯罪」「人道に対する罪」の四でした。この視点も、過去からの統一性への努力が生かされていないように思われます。ここで注目すべきは、ナチス・ドイツの強い復讐心から、このニュルンベルク裁判が戦勝国によって企画されたとの指摘があることです

その流れを汲んだ東京裁判は、正義の追及を考えていたのでしょうか。あるいは、連合国にとって好都合な戦争秩序を作りだすための政治的行為であったのでしょうか。両方あったにしろ、やはり優位だったのは後者の政治的側面のほうだと思われます。

事実、東京裁判は真珠湾奇襲に対するアメリカの復讐、日本に対する核兵器の使用というアメリカの国家的犯罪を緩和するための手段かとの声が上がっていたとのことです。私は、東京裁判というものは組織を裁くことができないので、人間を裁いてしまったという気がしてなりません。

ナチ体制の犯罪、わけてもホロコーストが、日本の「通常の」戦争犯罪と比較し、類をみぬ犯罪であったにもかかわらず、ニュルンベルク裁判よりも厳しい判決が東京裁判では下されました。東京裁判はニュルンベルク裁判をモデルとしながらも、それとは重大な相違を帰結することになったのです。日本がドイツの余波を被った、といっても過言ではありません。

その東京裁判に異義を称えた人物がいました。判決に際して判事団の中から、幾つかの少数意見が出されましたが、その内で最も注目されたのがインド代表判事のパル判事の判決書です。次回それを紹介します。 ~次回に続く~ 

 ニュルンベルク裁判の被告

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ナチハンター(その4)

2024年06月22日 07時06分39秒 | Weblog
ある映画を最近シネコンで観ました。少し難解な場面もあったので観終わった後、ネット上で映画のあらすじや解説を確認しました。それらを引用し紹介します。この映画を何故観ようと思ったのか、今回のテーマのナチハンターとどう関連しているのか、読んで下されば理解できるように書いていきます。映画の出だしからです(以下文章は、引用したもの)。

 映画が始まるとすぐに画面はブラックアウトする。奇妙で不気味とも言える音楽に、ささやき声やうめき声のような音が重なって行く。その間、約3分。目の前の黒い画面を前に、何とも落ち着かぬ気分にさせられる。やがて、小鳥のさえずりが聞こえ始め、ようやくスクリーンに水辺でピクニックを楽しむドイツ人家族の映像が現れる。
 彼らは夜遅く車で帰宅し、カメラはまばらに明かりを灯した屋敷の外観をとらえている。問題は、その家がアウシュビッツ強制収容所に隣接していることだ。塀の上にはよく見ると有刺鉄線が張り巡らされ、煙突からはひっきりなしに煙が上っている。
 翌日誕生日を迎えて家族や部下たちから祝福されていたのは、収容所の司令官ルドルフ・ヘスだ。歴史上実在した人物であり、その家族が強制収容所の隣に暮らしていたことも史実に基づいたものだ。アウシュビッツ強制収容所で行われていた悪魔のような所業が直接的に描かれることはない。だが、悲鳴や銃の音、焼却炉の轟音や正体のわからない機械音といった尋常でない音が常に響いている。映画は収容所の恐怖の実態を「聴覚的」に表現しているのだ。オープニングのブラックアウトの3分間はそれを端的に表したものだったのだ。
 しかし、ヘス家がそれを気にするそぶりはない。ルドルフは家庭では良き父、良き夫として描かれ、妻のヘートヴィヒはこの暮らしにすっかり満足している様子だ。音が聞こえていないはずはないのだが。一家はすっかりその音に慣れてしまい気にならないようだ。慣れてしまえるのは、収容所に収監されている人々の苦しみに対して驚くほど無関心だからである。

このような出だしの映画でした。題名は『関心領域 The Zone of interest。アウシュビッツ収容所を「聴覚的」に描き、人間の冷徹な「無関心」さを暴く問題作といわれます。英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督がマーチン・エイミスの小説を原案に2年のリサーチを経て製作した注目作品とのことでした。

なぜこの映画を観たかといいますと、ある新聞の記事によって興味を持ったからです。以下、その記事の要約です。表題は“ホロコーストは上位下達か問い直す~映画「関心領域」に見るナチ幹部の実像~”

 アウシュビッツ強制収容所で、ホロコーストに関わりながら意識を背ける醜悪さとともに、ナチ幹部らの「主体性」や、有名な「悪の凡庸さ」を考え直す視点も浮かび上がる。タイトルと相まって、一家は隣の虐殺に「無関心」なように映る。だがナチズム研究者の田野大輔・甲南大教授は「無関心なのではない。むしろ確信的に虐殺に加担している」と語る。映画で、ヘスは「効率的」な焼却炉の新造を綿密に打ち合わせる。
 田野氏によると、描かれるヘスら親衛隊員の姿は、近年の研究で明らかになってきた実像に近いという。例えば、親衛隊は単なる上意下達の組織ではなく、各自がナチのイデオロギーを内面化し、それを具体化させようと「主体的」に実践を競い合っていた、という点だ。ユダヤ人らを排除したドイツ人の『東方生存圏』を築くという全体構想は共有されていた。その共通認識のもと、各部局が競い合って虐殺がエスカレートしていった状況を映画も踏まえているという。【東方生存圏:ドイツが東部に領土を獲得するべきであるという思想で、ドイツ帝国以前からすでに現れていた】
 ヘスと同じ親衛隊の幹部に、ユダヤ人移送を指揮したアドルフ・アイヒマンがいる。戦後、イスラエルで彼の裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレント(女性)が唱えたのが有名な「悪の凡庸さ」だ。この概念を再考する機会にもなる映画だと田野氏は指摘する。「ホロコーストを行ったナチも普通の人間たちだった」と考えると、免罪するような意味合いになってしまう。映画のように、彼らは虐殺に積極的に手を染めていた。
 一方、香月恵里・岡山商科大教授(現代ドイツ文学専攻)は、アーレント自身も「悪の凡庸さ」を「ありふれた」という意味合いでは用いていなかったと指摘している。アーレントの意図を離れて「悪の凡庸さ」は一人歩きした。日本でも、同調圧力を批判する文脈などで使われやすい。ただそれはアーレントの言いたかった意味とは異なるものだと、香月氏は言及。
 田野氏もホロコーストを語る際の決まり文句として「悪の凡庸さ」が用いられることに警鐘を鳴らす。想像を絶する悪を、自らの理解に収まる言葉だけで説明しようとするのは、事実を矮小化することだ。それは映画で描かれたような、進行中の加罪から意識を背ける行為になってはいないか。

ここまでが記事の内容です。「悪の凡庸さを許さない」。ナチハンターの精神と、ここで繋がります。今に至るまで映画もドラマも「忘れさせてはいけない」、そのような意図で描かれているのです。   ~次回に続く~

 映画「関心領域」


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ナチハンター(その3) ~2年前に投稿したブログの要約~

2024年06月15日 05時42分01秒 | Weblog
1963年ドイツのフランクフルト。通訳の仕事をしているエーファはレストランを営む両親と看護師の姉との4人で暮らしている。恋人ユルゲンを家族に紹介する大切な日に、急に彼女に仕事が舞い込んだ。裁判での証言を控えたポーランド人の通訳だった。他のドイツ人同様、戦争のことなど知らずにいたエーファだが、この仕事をきっかけに裁判に没頭していく。周囲の無理解、そして恋人との反目。くじけそうになるエーファの遠い記憶の中から、思いもしなかった家族の過去が呼び覚まされていく……。

芝居のパンフレットに、そう紹介されています。“レストラン「ドイツ亭」”と題した、劇団民藝の芝居を観ました。この芝居はドイツ人が描いた原作がベース。作者はアネッテ・ヘス(1967年生まれの女性)、テレビや映画の脚本家として活躍。原本は22か国で翻訳され、「ドイツ亭」の芝居は本邦初演のみならず世界初の舞台化となります。

1945年5月、ヒトラー率いたナチス帝国が崩壊します。アウシュヴィッツ強制収容所で行われたホロコーストは今では知らない人はいませんが、戦後しばらくその実態をドイツ人は知りませんでした。「たとえ新聞にアウシュヴィッツの記事が載ったとしても、100万というガス殺の死者数を印刷ミスと思い込んでいた」と、劇中の主人公エーファは言います。1963年から行われ、ホロコーストに関わった人々をドイツ人自ら裁こうとしたのが劇中のテーマ、実際に行われたアウシュヴィッツ裁判です。

一方有名なのがニュルンベルク裁判で、1945年から1946年にかけて行われました。連合国(英国、フランス、ソ連、米国)の裁判官の下で、22人の主要戦犯の審理が行われ、12人のナチス高官に死刑判決が下りました。判明した範囲で殺戮などに直接関与した者が重い刑罰は受けましたが、ホロコーストで主要な役割を担った他の人々は、短い禁固刑または処罰なして釈放されました。他多くの犯罪者は裁判に掛けられることはなく、ニュルンベルク裁判は、戦勝国の正当化を押し付けた国際軍事裁判でした。

さて芝居の流れは‥‥。歴史にほとんど関心のなかったエーファ(24歳の女性)は、ポーランド語の通訳者として裁判に参加するうちに、かつて多くのドイツ人が殺害に加わっていた事実を知って衝撃を受けます。恋人のユルゲンは婚約者でもあり、将来の妻は夫に従うべきだという考えで通訳の仕事を辞めさせようとする。彼女は歴史をもっと知りたいと意志を貫く。何回か裁判に立ち会うエーファ。収容所到着後の非情な生死の選別と拷問の実態。怒りを込めて証言する人びとを前に、自分は知らなかったと言い放つ被告人の元親衛隊の男たち。エーファはいらだちます。裁判を通して、実は父が昔アウシュヴィッツで調理人として働いていたことを彼女は知ります。次第に優しい父母の過去までも裁判は明らかにしていく。‥‥おおよその芝居の展開です。

レストラン「ドイツ亭」の舞台で扱われた、アウシュヴィッツ裁判は実在しました。その芝居ではヒロインを通し、ドイツ人自らが行ったホロコーストを見つめ直すことがテーマです。このアウシュヴィッツ裁判では、自国の史実や法律を考え直す切っ掛けともなりました。彼女の他に舞台だけでなく、実在裁判には主人公がいました。

その主役は、裁判で原告団を率いたフリッツ・バウアー検事長です。ドイツとユダヤ人夫婦の間に生まれ、ナチス政権下でユダヤ人の排斥政策のあおりを受けデンマークやスウェーデンへと亡命。戦後西ドイツへ戻り1956年からフランクフルトの検事を務めます。この裁判起訴への発端は59年彼のもとに届いた1通の封書で、差出人は新聞記者であり、生還者が持ち帰ったアウシュヴィッツ強制収容所の殺人記録でした。バウアーはこの証拠書類を連邦最高裁判所に提出し、裁判を開く許可を得ます。

裁判でバウアーは、強制収容所における大量殺人は、一握りの狂人によって実行されたのではないと主張。推計で150万人を超える人間の殺害は、収容所における高度に組織化された能率的で効率的な分業と協業なしにはありえなかった。関係者の個々の関与行為がなければホロコースト全体は成立しえなかった。その行為のいずれもが、ユダヤ人迫害の最終的解決の実現に向かって協働したホロコーストの一部であり、かつ全体であった。バウアーはこのような根拠で、その全員が謀殺罪(故意による殺人)を共同して実行したと弾劾しました。

歴史家はこの裁判をドイツ社会のターニング・ポイントだったと評価しています。ドイツ人の歴史認識を変えたのは、勇気あるバウアー検事の多大な貢献だったと。バウアーは、肉体的・精神的な疲労が重なり、タバコとアルコールによって健康が害され、1968年7月自宅の浴槽で溺死しました。彼は決して特別な存在ではなく、普通のドイツ人であり、その普通のドイツ人が過去の歴史と向き合い、その暗闇と闘っている姿が浮かび上がってきます。

どこの国にも多くの史実があります。それを物語として私達に伝える橋渡しをしているのが、小説や映画や演劇です。作家や演出家の脚色もあるでしょうけれど、歴史書よりも物語に仕立てたほうが鮮明に伝わります。アウシュヴィッツ裁判は、忘れ去られようとしたドイツの闇にスポットを当てたもです。レストラン「ドイツ亭」の芝居は、その闇へ私にもスポットを当ててくれました。

以上が過去のブログ(二回分)の要約です。演劇を介して、フリッツ・バウアーという人物に関心を持ちました。アウシュヴィッツ裁判は、ニュルンベルク裁判と違って、ドイツ自らがホロコーストに向き合うきっかけとなった裁判でした。その流れは今日のドイツに、ナチハンターとして引き継がれていることになります。   ~次回に続く~

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ナチハンター(その2) ~朝日新聞GLOBE要約の続き~

2024年06月08日 05時58分12秒 | Weblog
【ナチスの犯罪を追い続けるドイツ当局の執念】
 ドイツ南西部のルートビヒスブルクは人口9万人の小さな街だ。多くの観光客が足を運ぶバロック様式の宮殿があり、そこから歩いて5分ほどのところに、塀に囲まれた建物がひっそりと立つ。ナチスの犯罪を追う司令塔、「ナチ犯罪追及センター」だ。
 国内外の捜査機関などと協力し、訴追のための事前捜査をしている。証拠が集まれば、資料を各地の検察に送る仕組みで、起訴につなげてきた。西ドイツ成立後、ナチスの犯罪追及が下火になりつつあった1958年に設立された。60年以上かけて作成した個人の名前、所属部隊などの検索カード178万枚が、地味で地道な作業を物語る。カードは膨大な所蔵資料とひもづいている。容疑者になり得る人物がいれば、各地の収容所の名簿、役所の年金記録などと照合。「容疑者が名前を変えている場合も多いから、追跡は簡単ではない」と所長のトーマス・ウィル(63)。
 センターによれば、戦後ドイツで有罪認定に至ったのは約6500人にのぼるが、「多いとは言えない。10万人の犯罪者がいたと指摘する歴史家もいる」。訴追の可能性があるケースは残りわずか。そしてその可能性は日に日に低くなる。近年は死亡による捜査打ち切りや、裁判に健康状態が耐えられないと判断される例もある。センターのスタッフは最盛期の60年代には100人を超えていたが、今は20人。ただ、可能性がゼロにならない限り、捜査は続く。所長のウィルは希望して2003年にセンターに来た。「私は直接、ナチスの犯罪に関わった世代ではないが、過去への責任は感じる。訴追を続ける理由には、人々に忘れさせないということもある。私たちはこの犯罪の歴史に向き合わないといけない」。
 ナチスの犯罪追及は、ドイツの「過去の克服」の柱の一つ。センターは今、地域の誇りとなっている。だが、かつてはそうでなかった。設立当時、世論はナチスの犯罪追及に目を向けなかった。自国の暗い過去を暴くセンターや職員は白眼視され、買い物や家探しにも困るほどだったという。その流れを変えた裁判を知る人に会うため、フランクフルトに向かった。

【歴史を刻んだアウシュヴィッツ裁判 追及する検察の苦悩】
 「あの頃のドイツは『杖に泥がついた』状態だった」。ドイツ・フランクフルトの自宅で、ゲアハルト・ウィーゼ(95)は静かに振り返った。舗装されていない、ぬかるんだ道を歩くと、靴に泥がつく。汚れを杖でこすり取れば、靴はきれいになるが、杖には泥がついたままだ。悪事を隠していたり、罪悪感を抱いていたりする様子を表現する。
 敗戦後、米国や英国など連合国による「ニュルンベルク裁判」で主要戦狙ら24人が起訴され、「人道に対する罪」などで裁かれた。占領下で裁判は続き、ナチ党員だった人物の公職追放など、社会の「非ナチ化」も進められた。しかし、機運は長くは続かなかった。冷戦の進展と東西ドイツの分割で、米国をはじめとする西側陣営は、西ドイツに再軍備を求めた。初代首相のアデナウアーは社会の安定と統合を優先し、恩赦と軍の名誉回復に踏み出した。経済復興にわく市民も過去に目を向けようとしなかった。ミュンヘン現代史研究所によれば、1950年に700件を超えたナチスの犯罪の有罪認定は、58年には20件にとどまったという。
 ドイツが「泥」と格闘するきっかけになったのが1963年。100万人を超える人々が犠牲になり、ホロコーストの中心的役割を担ったドイツ占領下のポーランドにあった、アウシュヴィッツ強制収容所を巡る裁判が始まった。収容所の生存者からもたらされた情報を基に、外交関係が無かったポーランドの協力を得るなどし、州検事長のフリッツ・バウアーが実現にこぎつけた。若手検事の一人として加わったのが冒頭のウィーゼだ。「私が選ばれたのは、45年以前に検察官として仕事をしていなかったからだ」。元ナチス党員やシンパは、司法界にも多かった。
 アウシュヴィッツ所長の副官らに対する起訴状は計700ページに及んだ。1年半にわたる裁判では、ホロコーストの生存者を含め、約350人が証言。工場の流れ作業のようなプロセスで、いかに効率よく大量殺人が行われていたかを明らかにした。証言でつまびらかにされた収容所の「日常」は、法廷に詰めかけ記者らの報道で全土に知れ渡った。ウィーゼは「あの裁判の一番の意義は、ホロコーストは本当にあった、ガス室もあった、と認定されたことだ」。今は自明とされる「事実」の証明にも、それほどの時間と労力が必要だった。
 ただ、判決には満足できなかった。20人の被告のうち6人には終身刑が言い渡されたが、数年~十数年の有期刑や無罪判決の者もいた。個々の直接的な残虐行為は裁かれたものの、大量殺人マシンと化した収容所の一員だったというだけでは、被告を有罪にすることはできなかったという。さらに、法廷でほとんどの被告は「命令に従っただけ」などと答え、謝罪や反省を口にすることもなかった。
ユダヤ人だったバウアーのもとには、「豚野郎」といった脅迫状や嫌がらせの電話がひっきりなしに届いたという。ウィーゼは「彼は広報の役割も引き受けていたから。夜中の電話は体にこたえただろう」。バウアーは68年に浴槽で死亡。検視で鎮痛剤とアルコールが検出され、自殺も他殺も退けられたが、死因を巡って様々な臆測が飛び交ったという。
 ウィーゼは、ホロコーストのような悲劇を繰り返さないために必要なのは、「若い人たちに全てを話すことだ」と強調する。歩くのに杖が必要となり、目はかすみ、耳は遠くなった。それでも定期的に学校を訪れ、自身の体験を伝えている。歴史を刻んだ裁判の立役者バウアーが亡くなった68年は、世界各地で若者たちが反戦運動などに立ち上がった年でもあった。ドイツでも、若者による「一撃」が新たなページを開いた。

前回と今回でGLOBEの要約は終わります。戦後ホロコートは封印されたまま、元ナチ党員が厳然と存在していた時代を経て、帰属した個の罪を裁くことから、自国の犯した過ちを見直そうとの機運が生まれます。しかし、膿が出し切れていないドイツが浮かび上がります。

今回このGLOBEを取り上げた理由は、過去私のブログで書いた人物がこの特集にも載っていたからです。次回、2年前のブログを載せようと思いました。最後のGLOBEの記事の登場人物フリッツ・バウアー、歴史を刻んだ裁判の立役者バウアーについての内容です。  ~次回に続く~





 
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ナチハンター(その1)

2024年06月01日 06時11分55秒 | Weblog
朝日新聞のグローブ(通称GLOBE)は、当紙で2008年10月より挿入されている特別紙面のタイトルです。2016年4月より月2回から月1回日曜版としての挿入となりました。"ブレイクスルー・ジャパン!" をキャッチコピーに挙げています。毎回特定のテーマに沿った特集記事を提供し、世界における日本の在り方を提起し、海外識者のインタビュー記事も多く、通常の新聞紙面とは異なる雰囲気を醸しています。[ネット上での解説引用]

3月24日発刊の、そのGLOBEのテーマは“終章ナチハンター”でした。『第二次2次世界大戦の終結から78年が過ぎ、戦時を直接知る世代が亡くなるなか、ホロコーストを引き起こしたナチスドイツの犯罪を追及する「ナチハンター」の仕事が終わろうとしている。「史上最悪の犯罪」と向き合い続けたドイツにとっても、一つの区切りを迎える。ナチハンターは何をもたらしたのか』。このような出だしで、記事は3面に及びます。

関連する記事の掲載は、ドイツに行った記者の取材や日本の専門家の見解など八つに及びますが、立体的に、ナチスドイツの過去の犯罪や終盤を迎えたナチハンターの実態が浮かび上がります。その中で、三つの記事(要約)を紹介します。それぞれ少し長くなりますが、お許しください。

【99歳の元看守 問われる80年前の罪 近ずく「最後の審判」】
 「働けば自由になる」という標語が掲げられた重い門が、ゆっくり開いた。ベルリンから北約30キロのオラニエンブルクにある、サクセンハウゼン強制収容所跡を訪れた。ヒトラー政権は1936年に同収容所を開設。約190ヘクタールの敷地には塀と高圧電流が流れる鉄条網があり、ユダヤ人やロマ、同性愛者や政治狙らが収答された。その数、敗戦の45年までに20万人以上にのぼる。そこは現在博物館となっている。各国の観光客らも足を運ぶ。[ロマ:中世期後半インド北西部からヨーロッパへ移住した民族でかつてジプシーと呼ばれていた]
 観光客が歩くその場所には、かつてしま模様の服の収容者が点呼のため並ばされていた。「彼もここから見ていたかも知れません」。博物館の副館長アストリット・レイが言った。彼とは、ドイツ中部に住む99歳の男性のことだ。1943~45年に収容所の看守を務め、収容者の大量殺害を手助けしたとして、昨秋起訴された。裁判でのやり取りに耐えられるかどうか、医師らの鑑定が慎重に進められている。
 殺人罪の時効を撤廃したドイツでは、今もナチスの犯罪追及が続く。2022年6月には同じザクセンハウゼン強制収容所で看守を務めていた男性(当時101)に禁錮5年の判決が、同年12月には別の強制収容所の速記係だった女性(同97)に執行猶予付き禁錮2年の判決が言い渡された。こうした裁判を可能にしたのは、2011年の司法判断だ。それまで、検察当局は当事者が殺害に直接関与したことを第三者らの証言などで立証しなければならなかった。
 しかし、時の流れとともに、直接的な証拠や証言を集めるのは極めて困難になる。ドイツ占領下のポーランドにあった強制収容所の元看守(同91)に禁錮5年の判決を言い渡した11年のミュンヘン地裁は、大量殺人を目的とした収容所に勤務した事実を証明できれば、殺人幇助(ほうじょ)罪が成立すると導いた。大量殺人マシンと化した組織の「歯車の一部」と認定されれば、罪は免れなくなった。判決を追い風に、当局は改めて訴追の可能性がある人物のリストアップを進めた。
 訴追を続ける理由はどこにあるのだろう。副館長レイは被害者の証言を集め、99歳の元看守の所属した隊がどんな任務に就いていたかなど、訴追に向けた情報収集に協力した。「彼は直接手を下していないかもしれない。しかし、収容所は多くの人間によって運営されていた。小さな任務でも、それがなければ動かない、とても複雑な組織だった」。ザクセンハウゼンでは、過酷な 強制労働や病気、飢え、処刑などにより、数万人が命を落とした。
 独ツァイト紙が20年に実施した世論調査によれば、「裁きを受けていない生存中のナチスの加害者は今日でも裁かれるべきか」との質問に、「全くその通り」「そう思う」が76%にのぼった。それでも、当時10代後半〜20代前半だった下級職員らも90代。現在、裁判の可能性があるのは4人。ザクセンハウゼンの生還者もわずかとなり、ドイツ、イスラエル、米国、ロシアなどに暮らしているという。

ここで、一つ目の記事の要約は終わります。現在裁判の可能性があるのは4人にもかかわらず、殺人罪の時効を撤廃し、証拠の簡素化を決断し、幇助罪の適用を可能にして、ナチスの犯罪を追及し続けるドイツです。歴史を遡り法の改正までして向かい合っているのは、ドイツの「過去の克服」です。

今回このGLOBEを採り上げたのは、次回登場する人物を、過去私のブログで書いたことがあるからです。   ~次回に続く~


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