友人のいる福島県南相馬市を訪れたのは、3・11の年の夏でした。お盆の時期は、家内の実家山形県酒田に、義理の両親の墓参りに毎年家内と一緒に行っていました。今回はその帰り道に遠回りでも彼と直接会うべく、東日本大震災で大きな被害を受けた南相馬市に立ち寄ることにしました。
その彼とは震災直後は連絡も取れませんでしたが、ようやく一週間後に携帯電話が通じました。身内も全員無事で、同じ福島県の会津若松に住んでいる一年先輩の処に、家族共々非難していることが判明しました。その後早い時期に、彼は一人で南相馬に戻り、家業の酒屋を復興させようと奔走していたのです。
彼が住んでいる南相馬市原町地区は、東電福島原発の事故で緊急時非難準備区域となっており、万一避難命令が出た時は退去しなくてはならない状況でした。その関係で殆どの就学の子供や老人は、他地区に非難したままです。実際彼の家族はその時、原町に本人とお母さん、隣の相馬市に高三の長女、会津若松市に奥さんと高一の長男、と三重の生活を強いられていました。
震災直後は、南相馬市で七万居た人口が一万まで減ったそうです。五カ月後やっと三万近くまで戻ったものの、大手の企業が放射線の問題で県外に流出してしまい、元の人口には到底戻らない現況でした。街の経済も極度に停滞した中、彼の商売は本業の酒屋と、奥さん名義のコンビニを営んでいます。酒屋の方は苦戦とのこと、しかしコンビニは地元でやっているところも少なく繁盛していました。
街中に向かう途中南相馬の海岸線を見てきました。海岸にある松は、津波が引いて行く際に瓦礫でもぎ取られ、ある一定の高さ以下の枝が全くありません。そんな松と無残な瓦礫が、静寂の中で津波の恐ろしさを物語っていました。原町の街は、海岸線から3キロほど内陸にあり津波の被害も無く、地盤も強く殆ど地震による家屋の被害はありません。幸いにも彼の近い身内では亡くなった方もいませんでした。
三年ぶりに再会となった友人は元気に、私を迎え入れてくれました。家族も無事で、自宅やお店も残り何とか生活はしていける。ただし原発の不安が払拭せず家族もバラバラで将来の不安は消えず、「この歳で何が起こるか分からない。人生って何だろう?」とは彼の言葉です。ポケット線量計を彼は常に持ち歩いていました。街から車で南下して東電福島原発に近付くと、その先は立入り禁止区域となりますが、計測器は正確に高い放射線量の値を示しました。
帰り内陸の東北自動車道を使うのであれば最短の道があると、分かりやすい分岐点まで彼は車で先導してくれました。いつか必ず東京に出て来てもらい、仲間と再会することを約束し別れました。帰り道の県道12号線は、当時の報道でよく出てくる飯舘村を東西に横切る道路です。通行止めではないのですが、この地域は計画的非難区域で、基本的には住民は住めない所でした。
大きく報道されていた現地に行って自分の目で見て、友人を通して、この大災害の凄さを胸に刻みました。友人は家族とも離れ生活そのものが脅かされている状況で、浦安で液状化の被害を受けた私の比ではありませんでした。目先の事しか考えず被害者意識を持ってしまった自分が、恥ずかしいと思いました。
「被害者」と「当事者」は似たような言葉ですが、違うと考えるようになりました。地震が起きたその地で災害に遭えば明らかに被害者です。しかしその地にいても実害を受けなければ被害者ではありません。一方で、その地で災害に遭えば勿論当事者となりますが、他の地で全く被害を受けてなくとも当事者になろうとする人もいます。例えば、ボランティア活動することであえて当事者になることです。
被害者意識を持ってしまうのは、自分が一番苦しいのではないかと感じてしまうことです。そのような被害妄想を捨てて、私は今回の大震災の当事者になろうと思いました。友人の苦にどれくらい寄り添えるか、そして自分の環境を考え直す機会にしました。少なくとも浦安の地で、その後何の不自由なく仕事を続けられることに感謝しなくてはなりません。 ~次回に続く~
その彼とは震災直後は連絡も取れませんでしたが、ようやく一週間後に携帯電話が通じました。身内も全員無事で、同じ福島県の会津若松に住んでいる一年先輩の処に、家族共々非難していることが判明しました。その後早い時期に、彼は一人で南相馬に戻り、家業の酒屋を復興させようと奔走していたのです。
彼が住んでいる南相馬市原町地区は、東電福島原発の事故で緊急時非難準備区域となっており、万一避難命令が出た時は退去しなくてはならない状況でした。その関係で殆どの就学の子供や老人は、他地区に非難したままです。実際彼の家族はその時、原町に本人とお母さん、隣の相馬市に高三の長女、会津若松市に奥さんと高一の長男、と三重の生活を強いられていました。
震災直後は、南相馬市で七万居た人口が一万まで減ったそうです。五カ月後やっと三万近くまで戻ったものの、大手の企業が放射線の問題で県外に流出してしまい、元の人口には到底戻らない現況でした。街の経済も極度に停滞した中、彼の商売は本業の酒屋と、奥さん名義のコンビニを営んでいます。酒屋の方は苦戦とのこと、しかしコンビニは地元でやっているところも少なく繁盛していました。
街中に向かう途中南相馬の海岸線を見てきました。海岸にある松は、津波が引いて行く際に瓦礫でもぎ取られ、ある一定の高さ以下の枝が全くありません。そんな松と無残な瓦礫が、静寂の中で津波の恐ろしさを物語っていました。原町の街は、海岸線から3キロほど内陸にあり津波の被害も無く、地盤も強く殆ど地震による家屋の被害はありません。幸いにも彼の近い身内では亡くなった方もいませんでした。
三年ぶりに再会となった友人は元気に、私を迎え入れてくれました。家族も無事で、自宅やお店も残り何とか生活はしていける。ただし原発の不安が払拭せず家族もバラバラで将来の不安は消えず、「この歳で何が起こるか分からない。人生って何だろう?」とは彼の言葉です。ポケット線量計を彼は常に持ち歩いていました。街から車で南下して東電福島原発に近付くと、その先は立入り禁止区域となりますが、計測器は正確に高い放射線量の値を示しました。
帰り内陸の東北自動車道を使うのであれば最短の道があると、分かりやすい分岐点まで彼は車で先導してくれました。いつか必ず東京に出て来てもらい、仲間と再会することを約束し別れました。帰り道の県道12号線は、当時の報道でよく出てくる飯舘村を東西に横切る道路です。通行止めではないのですが、この地域は計画的非難区域で、基本的には住民は住めない所でした。
大きく報道されていた現地に行って自分の目で見て、友人を通して、この大災害の凄さを胸に刻みました。友人は家族とも離れ生活そのものが脅かされている状況で、浦安で液状化の被害を受けた私の比ではありませんでした。目先の事しか考えず被害者意識を持ってしまった自分が、恥ずかしいと思いました。
「被害者」と「当事者」は似たような言葉ですが、違うと考えるようになりました。地震が起きたその地で災害に遭えば明らかに被害者です。しかしその地にいても実害を受けなければ被害者ではありません。一方で、その地で災害に遭えば勿論当事者となりますが、他の地で全く被害を受けてなくとも当事者になろうとする人もいます。例えば、ボランティア活動することであえて当事者になることです。
被害者意識を持ってしまうのは、自分が一番苦しいのではないかと感じてしまうことです。そのような被害妄想を捨てて、私は今回の大震災の当事者になろうと思いました。友人の苦にどれくらい寄り添えるか、そして自分の環境を考え直す機会にしました。少なくとも浦安の地で、その後何の不自由なく仕事を続けられることに感謝しなくてはなりません。 ~次回に続く~