梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

10年を振り返り(その2)

2021年03月27日 06時12分43秒 | Weblog
友人のいる福島県南相馬市を訪れたのは、3・11の年の夏でした。お盆の時期は、家内の実家山形県酒田に、義理の両親の墓参りに毎年家内と一緒に行っていました。今回はその帰り道に遠回りでも彼と直接会うべく、東日本大震災で大きな被害を受けた南相馬市に立ち寄ることにしました。

その彼とは震災直後は連絡も取れませんでしたが、ようやく一週間後に携帯電話が通じました。身内も全員無事で、同じ福島県の会津若松に住んでいる一年先輩の処に、家族共々非難していることが判明しました。その後早い時期に、彼は一人で南相馬に戻り、家業の酒屋を復興させようと奔走していたのです。

彼が住んでいる南相馬市原町地区は、東電福島原発の事故で緊急時非難準備区域となっており、万一避難命令が出た時は退去しなくてはならない状況でした。その関係で殆どの就学の子供や老人は、他地区に非難したままです。実際彼の家族はその時、原町に本人とお母さん、隣の相馬市に高三の長女、会津若松市に奥さんと高一の長男、と三重の生活を強いられていました。

震災直後は、南相馬市で七万居た人口が一万まで減ったそうです。五カ月後やっと三万近くまで戻ったものの、大手の企業が放射線の問題で県外に流出してしまい、元の人口には到底戻らない現況でした。街の経済も極度に停滞した中、彼の商売は本業の酒屋と、奥さん名義のコンビニを営んでいます。酒屋の方は苦戦とのこと、しかしコンビニは地元でやっているところも少なく繁盛していました。

街中に向かう途中南相馬の海岸線を見てきました。海岸にある松は、津波が引いて行く際に瓦礫でもぎ取られ、ある一定の高さ以下の枝が全くありません。そんな松と無残な瓦礫が、静寂の中で津波の恐ろしさを物語っていました。原町の街は、海岸線から3キロほど内陸にあり津波の被害も無く、地盤も強く殆ど地震による家屋の被害はありません。幸いにも彼の近い身内では亡くなった方もいませんでした。

三年ぶりに再会となった友人は元気に、私を迎え入れてくれました。家族も無事で、自宅やお店も残り何とか生活はしていける。ただし原発の不安が払拭せず家族もバラバラで将来の不安は消えず、「この歳で何が起こるか分からない。人生って何だろう?」とは彼の言葉です。ポケット線量計を彼は常に持ち歩いていました。街から車で南下して東電福島原発に近付くと、その先は立入り禁止区域となりますが、計測器は正確に高い放射線量の値を示しました。

帰り内陸の東北自動車道を使うのであれば最短の道があると、分かりやすい分岐点まで彼は車で先導してくれました。いつか必ず東京に出て来てもらい、仲間と再会することを約束し別れました。帰り道の県道12号線は、当時の報道でよく出てくる飯舘村を東西に横切る道路です。通行止めではないのですが、この地域は計画的非難区域で、基本的には住民は住めない所でした。

大きく報道されていた現地に行って自分の目で見て、友人を通して、この大災害の凄さを胸に刻みました。友人は家族とも離れ生活そのものが脅かされている状況で、浦安で液状化の被害を受けた私の比ではありませんでした。目先の事しか考えず被害者意識を持ってしまった自分が、恥ずかしいと思いました。

「被害者」と「当事者」は似たような言葉ですが、違うと考えるようになりました。地震が起きたその地で災害に遭えば明らかに被害者です。しかしその地にいても実害を受けなければ被害者ではありません。一方で、その地で災害に遭えば勿論当事者となりますが、他の地で全く被害を受けてなくとも当事者になろうとする人もいます。例えば、ボランティア活動することであえて当事者になることです。

被害者意識を持ってしまうのは、自分が一番苦しいのではないかと感じてしまうことです。そのような被害妄想を捨てて、私は今回の大震災の当事者になろうと思いました。友人の苦にどれくらい寄り添えるか、そして自分の環境を考え直す機会にしました。少なくとも浦安の地で、その後何の不自由なく仕事を続けられることに感謝しなくてはなりません。  ~次回に続く~

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10年を振り返り(その1)

2021年03月20日 09時08分14秒 | Weblog
その日は外部の講師の先生を招き、役職社員の社内研修会でした。私が先生を車で羽田空港までお迎えにいって、会社に戻ったのは午後二時半ごろです。応接室で先生とコーヒーを飲んでいた時です。建物が崩壊するのではないかと感じるほど、今までの人生で体験したことがない揺れを感じました。

その先生は兵庫県の西宮の方で、阪神大震災を経験されていました。私が慌てふためく姿をよそ目に、先生は椅子に座ったまま冷静沈着、コーヒーを飲み続けていました。幸い社員は全員無事、建屋の被害も特にありませんでしたが、倉庫・工場前面の舗装は液状化現象で波打ち、無残な状態になっていました。

結局4時からの研修会(先生による講義)は行われませんでした。というより行うことが不可能でした。参加する社員の家族への安否(確認)に気がとられ、帰宅するにもどう帰ったらよいのかなどの不安が募り、研修会どころではなくなりました。全社員の安全な帰宅を促し、会社を後に私たちは食事をするため車で移動しました。

研修会が終わった後は毎回、先生とわが社幹部1~2名により、夕食会兼反省会をすることになっていましたので、予約していた江戸川区のお店に向かいます。食事が終わり店の駐車場から幹線道路に出ようとしましたが、無数の人の波にさえぎられ、中々車道に出ることがかないませんでした。都内から郊外(千葉方面)へ向かう、帰宅難民の群れであることを後で知ります。

これがわが社の3・11の始まりでした。あれから10年が経ちました。令和3年3月11日朝刊一面の見出しは『東日本大震災10年』、小見出しは「死者・行方不明者、関連死を含め2万2192人が犠牲となった東日本大震災から11日で10年を迎える。避難生活を送る人はなお4万人を超え、福島県では帰宅困難地域の大半で解除の見通しが立たない」と、記されています。未曾有の甚大な被害となったのです。

国としても、被災地はインフラ整備が終わった後、持続する地域社会をどう造っていくのかの課題と向き合っています。また東京電力福島第一原発の事故のその後は、廃炉作業も難航し汚染水処理も実現のめどはたっていません。この10年「日本は変われたか」と題し、新聞では特集が組まれています。一方で見識者は、「大きく時代が更新された」とも語っています。

わが社に話は戻ります。倉庫・工場内の鋼材や機械には異常や損傷はなく、翌週の13日からは何とか通常操業が出来ました。しかし、地下の水道管が破裂して何日も上・下水が止まったり、その後暫くは電気の使用制限を受けたりしました。それ以上に痛手だったのは、千葉工場から浦安にレーザー切断機を移設すべく、新たな基礎工事をしていた最中のダメージでした。

10年前のこの時期、わが社は千葉工場を閉鎖して、浦安本社に集約する準備をしていた時でした。浦安の基礎工事がほぼ完成した直後に地震が発生しました。この基礎工事の手直しが必要となり、倉庫・工場前面の舗装のやり直しとなり、被害総額は大きな金額になってしまいました。

浦安市は多くが埋め立て地であり、震災当時は市域全体の66%が液状化しました。浦安鉄鋼団地は1968年に完成しますが、浦安沖の埋め立てが開始されたのはその前の64年に遡ります。液状化という言葉が広く知られるようになったのは、同年の新潟地震が契機とされ、埋め立て当時は認識されていなかったといわれます(鉄鋼新聞より)。

わが社は東北地方で被災したのではなく、千葉県浦安でです。しかし液状化によって、同じ関東地域でも浦安地区の様相は、全く異なってしまいました。何故このような被害に遭ってしまったのか。いつしか私の中では、被害者意識が芽生えていました。

「被害者」と似たような言葉に「当事者」があります。今回の東日本大震災で大きな被害に遭った方々は、当事者であることは確かです。被災地には居なくても、身内を震災で亡くしてしまった人にとっても当事者となります。そこには「普通」の人間から、ある日突然当時者となってしまう恐ろしさがあります。

私はこの3・11から5カ月後に、帰宅困難地域の福島県は南相馬市へ、大学の山のクラブで同期だった友人を訪ねることにしました。そのような事を通して、被害者と当事者の違いや当事者そのものを改めて認識します。   ~次回に続く~

 舗装修復工事

 わが社近くの液状化
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シルクロード(その3)

2021年03月13日 04時48分20秒 | Weblog
今から一億年前、中国内陸部は海だったといいます。それが地殻変動によってインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突して、中国内部に相当な力が掛かり、断層が隆起しヒマラヤなどが造山されます。その結果、祁連(きれん)山脈や天山山脈や崑崙山脈などが出現します。

崑崙山脈は、標高6000m以上の高山が200峰以上連なり、東西約3000㎞にも及びます。これら東西の壁の山肌を縫うように、また広大な砂漠を避けるように生まれたのがシルクロードです。中国西安から敦煌までを河西回廊、敦煌から更に西域は北から、天山北路、天山南路、西域南路とシルクロードは三つに分かれます。 



隆起した高い山は万年雪や氷河を抱いています。それらが解けて水となり、低地に流れていき河や地下水となります。その水を利用すれば作物が実ります。シルクロードには塩湖が点在します(海底が隆起し海水が閉じ込めれた塩湖も)。水、食料、塩があれば人は生きていけてオアシス都市も形成され、激しい大自然の中でも旅人は行き交うことが可能なのだと、今回のテレビの番組などを通し理解出来ました。

シルクロードの起源は紀元前2世紀、前漢・武帝が西域(中央アジア以西)の調査を始めたことに由来します。それまで、反対側のヨーロッパからアジアへの道は中国との国境で止まっていましたが、いわば当時は、天山、崑崙、ヒマラヤなどの大山脈が古代中国文明を世界から守っていたことになります。中国と同盟を組んでいた遊牧民の一部が、敵対する部族に追い出され西方へ去って行った。後を追って、武帝が派遣した張騫率いる外交使節団が中央アジアを訪れたことで、偶然にも西方への道が開かれました。

6~14世紀交易を軸に、この絹の道は隆盛期を迎えます。15~16世紀海洋での大規模な地理的発見があった後、大陸間の陸運ルートは衰退し始めました。海運のスピード、運搬量、安い輸送コストは、15世紀の終わりごろシルクロードの衰退をもたらしました。しかし、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド、中国を結ぶ、特に高山地帯のルートは20世紀初頭まで存在していました。

しかしそのシルクロードが復活しています。中国が推進する「一帯一路」は、同国とヨーロッパにかけての巨大経済圏構想です。習近平中国共産党中央委員会総書記が、2013年カザフスタンでの演説でこの構築を提案したことに始まり、翌2014年中国で開催されたアジア太平洋経済協力首脳会議で、習総書記が提唱しました。中国からユーラシア大陸を経由してヨーロッパにつながる陸路の「シルクロード経済ベルト(一帯)」と、中国沿岸部から東南アジア、アラビア半島、アフリカ東岸を結ぶ海路の「21世紀海上シルクロード(一路)」の二つの地域で、インフラストラクチャー整備、貿易促進、資金の往来を促進する計画です。

この一帯一路をネットで少し調べてみると、確かに世界各地への中国の進出は地域の経済発展の可能性が高まる一方で、さまざまな懸念やトラブルも起こりそうです。この構想をヨーロッパ側に拡大したのは、一つはアメリカを刺激したくなかったからです。また、一帯一路の沿線国がそれを受け入れたのは経済的に貧しく、中国からの投資やインフラ整備に対する期待が大きかったことも事実のようです。

しかし借りた金が返せなくなれば、そこには債務のワナがあります。これは単なる経済支援ではなくて、中国が安全保障上の権益のために行ったものともとれ、インド洋で中国軍のプレゼンスが高まる危機感が生まれます。中国は経済的な合理性よりも政治的な戦略を優先しているのではないか。このようなことが浮かび上がります。少なくとも昔のシルクロードに見られた、国や地域同士の交易だけではないようです。

新聞に載ってた、『シルクロード全史/ピーター・フランコパン著』の書評を見つけました。「シルクロード地域は、西洋の過去と密接に繋がっていた。しかも多くの時期に、この地域の動向こそが世界全体の動きを律していた。常にヨーロッパを中心に回っていたわけではなく、この地域に注目すれば、世界史を異なる視点から解釈できる」。これが本の主張であるとのことです。著者は、「この地域は西洋に住む私たちから再発見されるのを待っている世界」なのだといいます。

世界が更にグローバル化に進んでいく中で、これからこの道はどう変わっていくのか。今回この地域の歴史などを知ることで、シルクロードを再発見しました。
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シルクロード(その2)

2021年03月06日 04時55分29秒 | Weblog
『NHK特集 シルクロード』全12集を観終わって、過酷なロケを慣行したスタッフの人間力を感じました。シルクロードの幹線から外れ果てしない砂漠を、駱駝に乗って昔の城下の廃墟を数日かけて取材しますが、道に迷ったタイムロスもあり、水が枯渇し隊員の命が危ぶまれる場面がありました。

今から40年以上前の撮影なので画面が古臭く見えましたが、引き込まれる魅力でした。空撮の映像がかなりあり、ドローンもなかった時代ですので、当時はヘリコプターからの撮影です。この企画は日中共同取材、NHKと組んだ中国中央電視台は国営放送局であり、中国人民解放軍の取材への協力の様子も映し出されていました。

NHKはその三年後、『シルクロード第2部 ローマへの道』と題し、昭和58年4月から毎月1回全18回を放映します。初回の『NHK特集 シルクロード』は、中国長安を出発しパキスタンとの国境パミール高原までで終わりました。第2部は、そこから更に西域の、インド・中央アジア・アナトリア半島(トルコ:小アジア)・地中海・ローマへ至る道を紹介しました。

シルクロードは、一体どこからどこまでを(東西の起点)言うのでしょうか。因みにユーラシア大陸を挟んで、東洋と西洋を繋ぐ歴史的な交易路は三つあると言われています。北方の草原地帯のルートの草原の道、中央の乾燥地帯のルートであるオアシスの道、インド南端を回るルートの海の道、この三つです。最も古くから利用されていた、オアシスの道を指してシルクロードと言います。 



そのシルクロードの起点は、東は中国長安で西はアンティオキア(シリア)とする説もあり、中国側は洛陽で西側はローマとみる説もあり、日本が東端だったとするような説もあります。特定な国家や組織が統括していたわけではないので、そもそもどこが起点など明確に定められる性質ではないとの考えもあります。ローマから日本(奈良)までがシルクロードなら、全長1万5千キロです。

交易の他に宗教伝来に重要な役割を果たしたシルクロードです。玄奘三蔵(中国唐代の僧)は、シルクロードを行き来してインドから多くの経典や仏像を持ち帰ります。日本で最も流布しているのは「般若心境」で、これは玄奘の漢訳本です。当本に対応するサンスクリット本はインドや中国にも残っておらず、法隆寺に残るのが唯一です。そんな由縁もあり、その意味で私はシルクロードの東端は日本だと思います。『NHK特集 シルクロード』には、玄奘が辿った足跡が浮かび上がっていました。

ユーラシア大陸の真っただ中の乾燥地帯のルートを、どうして旅人(隊商)は行き交うことができたのでしょうか。そこはオアシスの道と言われる通り、オアシスが在ったからです。オアシスとは、砂漠の中で水が湧き樹木の生えている所で、疲れを癒し心の安らぎを与えてくれる場です。

更に言えば、この地帯は河川や雪解け水を水源とする大規模なオアシスがあり、農業が営まれ集落が形成され、隊商は水と食料を補給することが可能となったのです。史実上、シルクロードには多くのオアシス都市国家が存在し、覇権を競い合ったと言われます。そこで、このオアシスが出来る、「特殊な地形はどうして形成されたのか」の疑問が生じます。

㋁にNHKBSで『体感!グレートネイチャー SP「シルクロード絶景地帯をゆく」』と題する番組を観ました。この番組自体は、迫力ある大スケールで世界各地の大自然を、シリーズで紹介するものです。今回は東西に延びる山脈を縫うように繋がるシルクロードの絶景を訪ね、多色彩の奇岩の台地や泥の火山、空を映し出す白い湖、多彩な風景がどうして出現したのかが解明されています。この番組で、先ほどのオアシスが出来る、特殊な地形が形成される謎が解けました。

かつて旅人が行き交った東西の回廊もオアシスも、ヒマラヤの造山運動などによりできたというのです。東西に延びる幾つもの山脈が誕生して、その山肌を縫うように生まれたシルクロード。その造山は5000万年前にさかのぼります。 ~次回の続く~
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