今から23年も前のこと、平成2年3月の時の話しとなりますが、私は37歳でした。先代である父が前の月から腰の痛みを訴え、3月に入りとうとうその痛みに耐えられず、いつもの習慣で温泉に行って治してくると言い出しました。
母を連れて向かった先は、山梨県の下部温泉でした。この下部温泉は、古くは武田信玄の隠し湯として、またスポーツ選手の体の故障療養などでは有名な処です。昔学生相撲を取っていた父が、何度か持病の腰痛を治した温泉でした。
温泉に行ってから3日目位に母から悲壮な電話が入りました。「お父さんの痛みが更に悪化して殆ど自分でも歩けない状態になって、食事も喉を通らないのよ」。明らかに異常です。相談の末、東京に戻り医者に診てもらうことにしました。
東京から社員が電車で下部に迎えに行き、父が運転して行った車を回収しながら、自宅には戻らずその足で病院に直行しました。私の学校の同期で、父親も何回かは診てもらっていたお医者さんが居る、総合病院に向かいました。
緊急の血液検査などの結果から、箇所は特定出来ないが癌であることが判明しました。ベッドに空きもあり、即刻入院となりました。当時は本人への告知も慎重な時代。父親には検査入院とのことで、お茶を濁した形としました。
一週間単位で体力の低下が著しく、それによって精密検査も全部は受けられず、治療や手術などに決定打を欠いたことも事実です。入院二週間後、意を決し、父親にはありのままの事実を告げました。父親は、既に覚悟はしていました。
ちょうど入院三週間後、温泉に行ってからまた自宅を見ることもなく、病院のベッドで息を引き取りました。3月の頭まで、第一線で現役社長として仕事をしていましたので、凄いオヤジであったとしか言いようがありません。
3月28日の夜、病院の地下の遺体安置所に家族が集まって来ました。底冷えする一夜を明かした記憶が、今でも鮮明です。その時、桜が咲いていたかははっきり覚えていませんが、毎年桜と共にこの時の3月を思い出します。
梶哲商店がその後、何が変わって何が変わっていないか、自分では全てを明確には出来ませんが、先代の死と共に私の社長業がスタートしたことは言うまでもありません。先代の早過ぎた死も、今考えると全てに意味があったと思います。
母を連れて向かった先は、山梨県の下部温泉でした。この下部温泉は、古くは武田信玄の隠し湯として、またスポーツ選手の体の故障療養などでは有名な処です。昔学生相撲を取っていた父が、何度か持病の腰痛を治した温泉でした。
温泉に行ってから3日目位に母から悲壮な電話が入りました。「お父さんの痛みが更に悪化して殆ど自分でも歩けない状態になって、食事も喉を通らないのよ」。明らかに異常です。相談の末、東京に戻り医者に診てもらうことにしました。
東京から社員が電車で下部に迎えに行き、父が運転して行った車を回収しながら、自宅には戻らずその足で病院に直行しました。私の学校の同期で、父親も何回かは診てもらっていたお医者さんが居る、総合病院に向かいました。
緊急の血液検査などの結果から、箇所は特定出来ないが癌であることが判明しました。ベッドに空きもあり、即刻入院となりました。当時は本人への告知も慎重な時代。父親には検査入院とのことで、お茶を濁した形としました。
一週間単位で体力の低下が著しく、それによって精密検査も全部は受けられず、治療や手術などに決定打を欠いたことも事実です。入院二週間後、意を決し、父親にはありのままの事実を告げました。父親は、既に覚悟はしていました。
ちょうど入院三週間後、温泉に行ってからまた自宅を見ることもなく、病院のベッドで息を引き取りました。3月の頭まで、第一線で現役社長として仕事をしていましたので、凄いオヤジであったとしか言いようがありません。
3月28日の夜、病院の地下の遺体安置所に家族が集まって来ました。底冷えする一夜を明かした記憶が、今でも鮮明です。その時、桜が咲いていたかははっきり覚えていませんが、毎年桜と共にこの時の3月を思い出します。
梶哲商店がその後、何が変わって何が変わっていないか、自分では全てを明確には出来ませんが、先代の死と共に私の社長業がスタートしたことは言うまでもありません。先代の早過ぎた死も、今考えると全てに意味があったと思います。