梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

父と戦争(その2)

2013年10月26日 05時24分41秒 | Weblog
戦争が終わり無事に復員した父は、大学に戻り昭和22年には卒業します。父には海軍で特に仲が良かった戦友が二人いて、戦後も親交が続きます。そのお二人は個別に我が家に訪ねて来られ、私も小学生の頃お会いしたことがあります。

お一人のご職業は忘れましたが、とてもスキーがお上手な方でプロ並みの腕を持っていて、上信越のスキー場に行った帰りなど何回か自宅に来られました。もうお一人の方は大阪で実家が金融業をされている方でした。

大学を卒業してからのことです。実は、父はその金融業の方に誘われて、大阪に行って同じような仕事をしたことがあります。所謂質屋です。戦前、既に祖父の行っていた鉄の商売は休業を余儀なくされていたので、祖父の仕事を継ぐことも無かったのです。

結局その手掛けた仕事は失敗に終わります。若くして商売の経験も無く、大阪で東京の人間が金融業を営んだ訳ですから。当時はその友人と金庫の金を鷲掴みにして毎晩飲み歩いて遊んでいたのだから、無謀であったと、後に父自身が述懐しています。

そして大阪で縁があって私の母と出逢い結婚して、東京に舞い戻ります。しかしこの失敗の経験と戦争での体験が、昭和27年に、祖父の行っていた鉄の商売を、別の形で再開しようとした原動力になったことは間違いありません。

創業時に取り掛かった仕事はスケールの回収業でした。主に電炉メーカーや伸鉄メーカーなどの製鋼所の圧延工程から発生するミルスケールを人海戦術で集め、トラックに積み込んで自社に引き取ってストックして、それを高炉メーカーに納入する仕事でした。

現在弟の運送会社である、総合トラックやメタル便のトラック車体のカラーはグレーです。これは軍艦の色と全く一緒です。創業当時の梶哲商店が所有していたトラックもこの色で、以来これを踏襲しています。

昭和40年代、早くから運転手に制服を支給して、作業時には当たり前ですがトラックを運転している間中もヘルメットを被らせることを徹底して、一年365日年中無休で会社を回して来たのも、正に軍隊方式と言えます。 ~次回に続く~
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父と戦争

2013年10月19日 10時08分28秒 | Weblog

私の父は大正13年1月生まれです。真珠湾攻撃をアメリカに仕掛けて、日本が太平洋戦争に突入した昭和16年の時点では、父は17歳だったことになります。まだ大学には進んでいない年齢です。

しかし戦争が長期化して戦局が悪化していく中で、昭和18年には、大学生であった父は自ら志願して海軍に入隊します。その後同年の10月、所謂“学徒出陣”によって、20歳以上の主に文系の学生が徴兵されこととなります。

太平洋戦争開始とともに既に兵力の不足は深刻化していたようで、しだいに兵力の動員は学生にも迫っていました。従来の20歳以上の大学や高専の学生の徴兵延期制度を撤廃して、多くの学生を軍に入隊させたのが学徒出陣です。

父が志願した先は、正式には“第13期海軍飛行専修予備学生”です。これは、昭和6年の満州事変の勃発後、昭和9年から始まったもので、飛行機搭乗士官の不足に備え、本来は大学や高専の卒業生を対象に志願によって採用する制度でした。

昭和9年1期生は僅か6名、年を追って増加し昭和17年の9~12期は計300名を超え、いよいよ航空決戦が熾烈となった昭和18年の13期は5000名を超えました。13期5千人は7万人の志願者から選抜されたとのことですが、この志願者の多さは、国の危機存亡に若者が自らの命を賭け行動を起こした証です。そして同年12月には学徒出陣によって、約3000名が14期生として加わりました。

父がまだ40歳代、私が中学生か高校生の頃です。夕食になってお酒が回ってくると、私や弟に戦争体験の話しを父はよくしてくれました。

土浦の航空隊に配属されスパルタ教育を受けていた時、棒倒し競技では足に大傷を負ったこと。中国上海に軍艦で遠征に行って、甲板士官だった時には随分兵卒を殴って手が痛くなったこと。偵察機に乗っていて、偵察はに冷静な判断と綿密な計算が必要だったこと。

それなりに私にとっては面白い話でした。しかしある時期を境に、父は戦争の体験談を全くしなくなりました。私もその話しをそれ以上に受け止める能力もなかったのでしょうが、父の戦争に対する心境もある時から変化したのかもしれません。   ~次回に続く~
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オモテナシの心

2013年10月10日 17時40分39秒 | Weblog

9月の最終日曜日に江戸川鉄栄会の日帰りバス旅行を開催しました。これは毎年この時期に行われてきた会員の社員や家族の慰安の集いであり、ある年は現地集合・現地解散、ある年はバス旅行と繰り返されてきた当会のメインの行事です。

今年は、中央高速を通って富士吉田に行き、ICの近くのふじやまビール館で昼食をして富士急ハイランドで遊ぶコースでした。朝8時に浦安駅と船堀駅とに分かれて集合しそれぞれバス2台に分乗して、バス計4台にもなる総勢140名、一日バス旅行としては過去最高の参加者となりました。

参加者が多かったのは、今年富士山の世界遺産登録の効果もあったのだと思います。しかし会員の社員の家族にはお子様も多く、数々の絶叫マシンがある人気の遊園地で、4時間家族でゆっくり過ごせる企画が当たったのかもしれません。

行きは順調で、ふじやまビール館には午前11時前には到着しました。さすが富士山の天然水の地ビールは美味しかったです。でも一時間だけの昼食会とビンゴゲームは、食べるだけが精いっぱいで少し余裕が無かった感じでした。

それでも皆さんの気持ちはメインの富士急ハイランドです。朝東京は曇っていましたが、日中は少し暑かったものの絶好の行楽日和となり、それぞれ家族や会社単位で、園内では存分に楽しんだようです。帰路高速道路はさすがに渋滞しましたが、それでも予定の一時間遅れで朝の集合場所に戻りました。

実は昼食時、会長として冒頭で皆さんに挨拶をしようと思ったのですが、会場が広すぎて着席までに時間が掛かり、挨拶を割愛し乾杯だけにしました。しようとした幻の挨拶を以下紹介して今回は終わります。

『皆さんこんにちは。簡単に挨拶をして乾杯をしたいと思います。富士山の標高は3776m日本で一番高い山ですが、それでは次に高い山は何という山か知っている人はいますか。誰も分からないでしょうか。南アルプスにある北岳で、標高は3193mあります。それでは何で、この北岳が存在するのでしょうか。北岳が富士山より高ければ、あのような綺麗な山の富士山でも目立たないからです。世の中には必ず裏と表とあって、裏があるから表が目立つのです。裏が無ければ表無し。そう「裏が無ければ、オ・モ・テ・ナ・シ」。その様な心を、裏の役割や存在を大切にしましょう!』
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会社寿命30年説(その2)

2013年10月05日 09時49分12秒 | Weblog
一時期「会社の寿命は30年である」と、ショッキングな説が持てはやされました。約30年前に新聞社か経済雑誌社で、企業の調査事例で企業寿命30年を実証的に研究して掲載した記事のようで、少し調べた範囲でしか私も詳しくは知りません。

経営者が目先の繁栄に目を奪われ努力を怠ったり、無謀な経営に走り過ぎて命を短縮したり、あるいは企業が成長段階から成熟しそして衰退期を迎え何もせずに放っておく限り、寿命は30年程度にしか過ぎないとの内容です。

わが社の過去を振り返って見ることにします。創業時から扱い商品別に見て、スケールが30年、スクラップが33年、端板が24年、と撤退した事業の寿命を見ていくと、この説がうなずけてしまいます。単体に頼っていたら、むしろ恐ろしい事実でもあります。

しかしわが社が存続をして来れたのは、スケールから始まって伏線的に次の扱いを開始して、相乗効果を出しながら、何とか次の扱い商品に繋げて来たからに他なりません。その流れは今日の、素材(一級品)鋼板、溶断切板へと更に繋がって来ました。

前回お話をしました、私の友人の会社の変遷を見ても同じことが言えそうです。一つの事業に行き詰まって、必死に打開しようとした結果、今日の居酒屋経営があります。息子さんがしっかり責任者として、今後も居酒屋を運営していくとのことで、彼は今までの経験を活かし新たなビジネスを考えています。

人間は、現在安定していると将来も安定するであろうとつい信じ込みがちです。また「自社は〇〇業」と、業界や業種・業態を特定してしまいがちですが、変化に対応するには「環境適応業」と捉えた方が道は開けるかもしれません。

例えばどこかの企業に勤めていて30歳で独立し開業する、そして60歳を迎え商売は順調に行っていても、結局は後継者が居なくて廃業するケースもあり得ます。これでちょうど30年です。

企業は、一番に存続・継続することにあると私は思います。寿命30年説を打ち破るには、後継者を作ることも大切です。
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