電炉で平鋼を生産しているメーカーの二社が、二月と三月に、それぞれ事業撤退を決めました。どちらも堅実経営で知られたメーカーではありますが、近年の平鋼需要の激減や価格競争の激化から赤字経営を強いられてきた結果と、業界紙は報じています。
どちらも昭和20年代に創業され、伸鉄からスタートして、単圧そして電炉メーカーに発展してきた経緯があります。平鋼の国内の年間需要規模は、昭和40年代には40万トンだったのが、平成バブルは200万トンを超えたと言われます。
しかしその需要は現状、90万トンまでに退潮しています。二社が撤退するまでは、国内では八社が月間8万トンの市場を分け合っていて、ここ数年でも平鋼メーカー各社の採算は一段と悪化して、限界を超えた状況だったと言われていました。
実は、わが社はこの二社とは昭和40年代から取引がありました。わが社の昭和27年創業がスケールの回収業であったことから、伸鉄・単圧・電炉メーカーにそのスケールを求めたのは当然のこと。二社と取引が開始されたのは自然の流れでした。
その後、わが社はスクラップ事業に進出しました。市中のスクラップを買い集め、伸鉄メーカーにそのスクラップを加工した材料を販売出来たのも、以前からスケールでお取引があったメーカーであればこその産物でした。
昭和50年代に入り、スケールの集荷や伸鉄材の加工から撤退したものの、電炉メーカー向けにスクラップを納入する業務は継続していました。平成10年頃までは、その内の一社とは、長くお取引をさせてもらってきました。
更に、わが社は昭和54年に別会社として運送会社を立ち上げました。この二社に働き掛けたところ、帰り便を利用したわが社の運賃が評価され、地方への発送で起用され、ある期間お仕事を頂きました。
振り返ってみて、わが社の業歴でこの二社の占める割合は少なくありません。わが社の今日の礎を作って下さったのも、この二社であることは間違いありません。
戦後創業し、日本の復興に鉄鋼製造で貢献されて60有余年の二社。わが社と業態は違えども、規模は及びもしませんが、先代はこの二社の事業撤退をどう受け止めるでしょう。昨日の28日は、先代の命日。伝えなくてはならない、とても残念な報告です。
どちらも昭和20年代に創業され、伸鉄からスタートして、単圧そして電炉メーカーに発展してきた経緯があります。平鋼の国内の年間需要規模は、昭和40年代には40万トンだったのが、平成バブルは200万トンを超えたと言われます。
しかしその需要は現状、90万トンまでに退潮しています。二社が撤退するまでは、国内では八社が月間8万トンの市場を分け合っていて、ここ数年でも平鋼メーカー各社の採算は一段と悪化して、限界を超えた状況だったと言われていました。
実は、わが社はこの二社とは昭和40年代から取引がありました。わが社の昭和27年創業がスケールの回収業であったことから、伸鉄・単圧・電炉メーカーにそのスケールを求めたのは当然のこと。二社と取引が開始されたのは自然の流れでした。
その後、わが社はスクラップ事業に進出しました。市中のスクラップを買い集め、伸鉄メーカーにそのスクラップを加工した材料を販売出来たのも、以前からスケールでお取引があったメーカーであればこその産物でした。
昭和50年代に入り、スケールの集荷や伸鉄材の加工から撤退したものの、電炉メーカー向けにスクラップを納入する業務は継続していました。平成10年頃までは、その内の一社とは、長くお取引をさせてもらってきました。
更に、わが社は昭和54年に別会社として運送会社を立ち上げました。この二社に働き掛けたところ、帰り便を利用したわが社の運賃が評価され、地方への発送で起用され、ある期間お仕事を頂きました。
振り返ってみて、わが社の業歴でこの二社の占める割合は少なくありません。わが社の今日の礎を作って下さったのも、この二社であることは間違いありません。
戦後創業し、日本の復興に鉄鋼製造で貢献されて60有余年の二社。わが社と業態は違えども、規模は及びもしませんが、先代はこの二社の事業撤退をどう受け止めるでしょう。昨日の28日は、先代の命日。伝えなくてはならない、とても残念な報告です。