20世紀最大のスパイ事件といわれたゾルゲ事件、その主人公のゾルゲの生い立ちをたどり、スパイとは一体何かについて書いてみます。
ゾルゲは、1895年にロシア帝国の領土アゼルバイジャンの油田の町バクーで生まれました。ドイツ人の父とロシア人の母をもち、3歳で家族と共にドイツに移住。18歳の時、第一次世界大戦でドイツの志願兵として戦場に赴き、3度の負傷。3度目の負傷で除隊となますが、この時の後遺症で生涯片足が不自由になってしまいます。1919年、ドイツ共産党に入党。国際共産世界の実現を夢見てコミュニストになる。その後、ロシア共産党に移り、共産党の国際組織であるコミンテルンの一員となる。1929年にソ連赤軍第四本部に移り、1930年1月、ドイツの新聞記者の肩書きをもって上海へ。その目的は、中国国民政府と中国をめぐる資本主義列強の動向を調査するためでした。ここ上海の地で、アメリカ人女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを介して尾崎秀実と出会うことになります。
1930年代当時、ロシア最高指導者スターリンはゾルゲを二重スパイではないかと疑い、ゾルゲが命がけで提供した情報も全面的に信用してはいなかったとの記録が残っています。ゾルゲは『日本における私の調査』と題した文章で次のように記しています。「行った先々でその土地のことを知るのは私の希望であり、楽しみであった。私はそうした視察を行うことを、単なるスパイの目的のためだけの手段とは考えなかった。もし私が平和な社会状態と、平和な政治的環境のもとに生きていたとしたら、多分私は学者になっていただろう。少なくとも諜報員になっていなかった」、と。
革命よる建国で、広大な地域や多民族を牽引する成果がまだ定まらないロシア。ゾルゲはその共産党の組織であるコミンテルンの一員となり、世界大戦に遭遇し、荒波の時代に翻弄されたことは確かです。平和な世の中だったら学者を夢見ていたゾルゲは、国を救うため(世界平和を願い)、スパイの道を選びます。
そのスパイとは一体何か。間諜とも間者ともいい、簡単に言えば、密かに敵の様子を探って味方に報告する者です。各国ともスパイ行為は重刑に処すのが普通です。交戦者がスパイとして処罰されないために、国際法上、交戦地帯における制服軍人の公然たる情報収集活動はスパイ行為とされません。しかし、私服で隠密または虚偽口実(一般市民を装う、ゾルゲは新聞記者を)による情報活動は、スパイ行為とされます。ゾルゲは正真正銘のスパイです。その行為・行動は、正に命を賭けることになります。
軍人将棋というゲームがあります。普通の将棋と同じで、戦う軍隊の役割の名称の駒がありますが、軍人将棋には、地雷、飛行機、タンク、スパイ、等が登場します。駒同士の勝ち負けは、スパイは大将だけに勝つだけで、その他には全て負けます。これがスパイの役割を明確に表していると私は思います。スパイは敵地で何一つ防備をもたず戦いますが、その情報次第で敵国を崩壊さす、相手のトップの命をも奪えるのです。軍隊を持たなくとも、身軽なスパイは逆に怖い存在なのです。
「インテリジェンス」という言葉があります。①知性・知能、②情報の収集・分析、という2つの意味で用いられます。特に②は、国際政治や戦争の攻略で使われることがあります。そのインテリジェンスの力は、スパイの行為・行動に通じます。日本は国としての、このインテリジェンス力が弱いとされています。「むら」という共同体で生きてきた日本人は、その眼がどうしても内に向いてしまい、なかなか外に向きませんでした。
歴史を見てみると、日本でもインテリジェンス力が必要な時代もありました。戦国時代はその代表であり、当時の戦国大名はインテリジェンス活動に熱心で積極的に取り組みました。京都・大阪の中央から見れば遥かみちのくの大名は、例えば秀吉が天下を押さえたことを知ると直ぐさまお祝いの使者を、はるばる派遣して自分の所領の安堵を図ったとされます。インテリジェンス力がなければ、吸収・破滅されてしまう弱肉強食の時代において、生き延びた戦国大名はこの能力に長けていたと言えます。
一方徳川260年の太平期(世界史上まれに見る安泰)では、平和に慣れインテリジェンス力は低下しました。逆に明治維新の時代は、このままでは欧米の植民地にされてしまう、と言う強烈な危機感がありました。再び戦国のインテリジェンスの伝統が復活した時代でもあります。しかし、日清・日露戦争に勝ったがために、太平洋戦争に突入した頃には、日本の支配層のインテリジェンス力は地を這うほどまでに下がったことは否めません。
しかしながらその中で、インテリジェンス教育を行う日本初の専門機関、陸軍中野学校が創設されます。つまりスパイを養成していた学校で、陸軍内でも極秘の組織でした。1940年に誕生し、敗戦とともに消滅。2300余名を数える卒業生は、中国大陸や南方アジアの戦地へ送られ、諜報活動、ゲリラ工作などに従事したとされ、命を落とす者も少なくなかったのです。
尾崎秀実は本来ジャーナリストであり、もとよりスパイではありませんが、スパイのゾルゲに協力・加担したことは確かです。尾崎自らの求めた理想に従ってではありますが、二重スパイ的な側面もあり、次回それについて書いてみたいと思います。 ~次回に続く~
ゾルゲの情報網(その2で紹介した劇中に出てくる名でいえば) スメドレーとは宋 クラウゼンとはフリッツ 川合とは林 宮城とはジョー
ゾルゲは、1895年にロシア帝国の領土アゼルバイジャンの油田の町バクーで生まれました。ドイツ人の父とロシア人の母をもち、3歳で家族と共にドイツに移住。18歳の時、第一次世界大戦でドイツの志願兵として戦場に赴き、3度の負傷。3度目の負傷で除隊となますが、この時の後遺症で生涯片足が不自由になってしまいます。1919年、ドイツ共産党に入党。国際共産世界の実現を夢見てコミュニストになる。その後、ロシア共産党に移り、共産党の国際組織であるコミンテルンの一員となる。1929年にソ連赤軍第四本部に移り、1930年1月、ドイツの新聞記者の肩書きをもって上海へ。その目的は、中国国民政府と中国をめぐる資本主義列強の動向を調査するためでした。ここ上海の地で、アメリカ人女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを介して尾崎秀実と出会うことになります。
1930年代当時、ロシア最高指導者スターリンはゾルゲを二重スパイではないかと疑い、ゾルゲが命がけで提供した情報も全面的に信用してはいなかったとの記録が残っています。ゾルゲは『日本における私の調査』と題した文章で次のように記しています。「行った先々でその土地のことを知るのは私の希望であり、楽しみであった。私はそうした視察を行うことを、単なるスパイの目的のためだけの手段とは考えなかった。もし私が平和な社会状態と、平和な政治的環境のもとに生きていたとしたら、多分私は学者になっていただろう。少なくとも諜報員になっていなかった」、と。
革命よる建国で、広大な地域や多民族を牽引する成果がまだ定まらないロシア。ゾルゲはその共産党の組織であるコミンテルンの一員となり、世界大戦に遭遇し、荒波の時代に翻弄されたことは確かです。平和な世の中だったら学者を夢見ていたゾルゲは、国を救うため(世界平和を願い)、スパイの道を選びます。
そのスパイとは一体何か。間諜とも間者ともいい、簡単に言えば、密かに敵の様子を探って味方に報告する者です。各国ともスパイ行為は重刑に処すのが普通です。交戦者がスパイとして処罰されないために、国際法上、交戦地帯における制服軍人の公然たる情報収集活動はスパイ行為とされません。しかし、私服で隠密または虚偽口実(一般市民を装う、ゾルゲは新聞記者を)による情報活動は、スパイ行為とされます。ゾルゲは正真正銘のスパイです。その行為・行動は、正に命を賭けることになります。
軍人将棋というゲームがあります。普通の将棋と同じで、戦う軍隊の役割の名称の駒がありますが、軍人将棋には、地雷、飛行機、タンク、スパイ、等が登場します。駒同士の勝ち負けは、スパイは大将だけに勝つだけで、その他には全て負けます。これがスパイの役割を明確に表していると私は思います。スパイは敵地で何一つ防備をもたず戦いますが、その情報次第で敵国を崩壊さす、相手のトップの命をも奪えるのです。軍隊を持たなくとも、身軽なスパイは逆に怖い存在なのです。
「インテリジェンス」という言葉があります。①知性・知能、②情報の収集・分析、という2つの意味で用いられます。特に②は、国際政治や戦争の攻略で使われることがあります。そのインテリジェンスの力は、スパイの行為・行動に通じます。日本は国としての、このインテリジェンス力が弱いとされています。「むら」という共同体で生きてきた日本人は、その眼がどうしても内に向いてしまい、なかなか外に向きませんでした。
歴史を見てみると、日本でもインテリジェンス力が必要な時代もありました。戦国時代はその代表であり、当時の戦国大名はインテリジェンス活動に熱心で積極的に取り組みました。京都・大阪の中央から見れば遥かみちのくの大名は、例えば秀吉が天下を押さえたことを知ると直ぐさまお祝いの使者を、はるばる派遣して自分の所領の安堵を図ったとされます。インテリジェンス力がなければ、吸収・破滅されてしまう弱肉強食の時代において、生き延びた戦国大名はこの能力に長けていたと言えます。
一方徳川260年の太平期(世界史上まれに見る安泰)では、平和に慣れインテリジェンス力は低下しました。逆に明治維新の時代は、このままでは欧米の植民地にされてしまう、と言う強烈な危機感がありました。再び戦国のインテリジェンスの伝統が復活した時代でもあります。しかし、日清・日露戦争に勝ったがために、太平洋戦争に突入した頃には、日本の支配層のインテリジェンス力は地を這うほどまでに下がったことは否めません。
しかしながらその中で、インテリジェンス教育を行う日本初の専門機関、陸軍中野学校が創設されます。つまりスパイを養成していた学校で、陸軍内でも極秘の組織でした。1940年に誕生し、敗戦とともに消滅。2300余名を数える卒業生は、中国大陸や南方アジアの戦地へ送られ、諜報活動、ゲリラ工作などに従事したとされ、命を落とす者も少なくなかったのです。
尾崎秀実は本来ジャーナリストであり、もとよりスパイではありませんが、スパイのゾルゲに協力・加担したことは確かです。尾崎自らの求めた理想に従ってではありますが、二重スパイ的な側面もあり、次回それについて書いてみたいと思います。 ~次回に続く~





