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梶哲日記

鉄鋼流通業相談役の日々

オットーと呼ばれる男(その3)

2024年10月26日 06時20分24秒 | Weblog
20世紀最大のスパイ事件といわれたゾルゲ事件、その主人公のゾルゲの生い立ちをたどり、スパイとは一体何かについて書いてみます。

ゾルゲは、1895年にロシア帝国の領土アゼルバイジャンの油田の町バクーで生まれました。ドイツ人の父とロシア人の母をもち、3歳で家族と共にドイツに移住。18歳の時、第一次世界大戦でドイツの志願兵として戦場に赴き、3度の負傷。3度目の負傷で除隊となますが、この時の後遺症で生涯片足が不自由になってしまいます。1919年、ドイツ共産党に入党。国際共産世界の実現を夢見てコミュニストになる。その後、ロシア共産党に移り、共産党の国際組織であるコミンテルンの一員となる。1929年にソ連赤軍第四本部に移り、1930年1月、ドイツの新聞記者の肩書きをもって上海へ。その目的は、中国国民政府と中国をめぐる資本主義列強の動向を調査するためでした。ここ上海の地で、アメリカ人女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを介して尾崎秀実と出会うことになります。

1930年代当時、ロシア最高指導者スターリンはゾルゲを二重スパイではないかと疑い、ゾルゲが命がけで提供した情報も全面的に信用してはいなかったとの記録が残っています。ゾルゲは『日本における私の調査』と題した文章で次のように記しています。「行った先々でその土地のことを知るのは私の希望であり、楽しみであった。私はそうした視察を行うことを、単なるスパイの目的のためだけの手段とは考えなかった。もし私が平和な社会状態と、平和な政治的環境のもとに生きていたとしたら、多分私は学者になっていただろう。少なくとも諜報員になっていなかった」、と。

革命よる建国で、広大な地域や多民族を牽引する成果がまだ定まらないロシア。ゾルゲはその共産党の組織であるコミンテルンの一員となり、世界大戦に遭遇し、荒波の時代に翻弄されたことは確かです。平和な世の中だったら学者を夢見ていたゾルゲは、国を救うため(世界平和を願い)、スパイの道を選びます。

そのスパイとは一体何か。間諜とも間者ともいい、簡単に言えば、密かに敵の様子を探って味方に報告する者です。各国ともスパイ行為は重刑に処すのが普通です。交戦者がスパイとして処罰されないために、国際法上、交戦地帯における制服軍人の公然たる情報収集活動はスパイ行為とされません。しかし、私服で隠密または虚偽口実(一般市民を装う、ゾルゲは新聞記者を)による情報活動は、スパイ行為とされます。ゾルゲは正真正銘のスパイです。その行為・行動は、正に命を賭けることになります。

軍人将棋というゲームがあります。普通の将棋と同じで、戦う軍隊の役割の名称の駒がありますが、軍人将棋には、地雷、飛行機、タンク、スパイ、等が登場します。駒同士の勝ち負けは、スパイは大将だけに勝つだけで、その他には全て負けます。これがスパイの役割を明確に表していると私は思います。スパイは敵地で何一つ防備をもたず戦いますが、その情報次第で敵国を崩壊さす、相手のトップの命をも奪えるのです。軍隊を持たなくとも、身軽なスパイは逆に怖い存在なのです。

「インテリジェンス」という言葉があります。①知性・知能、②情報の収集・分析、という2つの意味で用いられます。特に②は、国際政治や戦争の攻略で使われることがあります。そのインテリジェンスの力は、スパイの行為・行動に通じます。日本は国としての、このインテリジェンス力が弱いとされています。「むら」という共同体で生きてきた日本人は、その眼がどうしても内に向いてしまい、なかなか外に向きませんでした。

歴史を見てみると、日本でもインテリジェンス力が必要な時代もありました。戦国時代はその代表であり、当時の戦国大名はインテリジェンス活動に熱心で積極的に取り組みました。京都・大阪の中央から見れば遥かみちのくの大名は、例えば秀吉が天下を押さえたことを知ると直ぐさまお祝いの使者を、はるばる派遣して自分の所領の安堵を図ったとされます。インテリジェンス力がなければ、吸収・破滅されてしまう弱肉強食の時代において、生き延びた戦国大名はこの能力に長けていたと言えます。

一方徳川260年の太平期(世界史上まれに見る安泰)では、平和に慣れインテリジェンス力は低下しました。逆に明治維新の時代は、このままでは欧米の植民地にされてしまう、と言う強烈な危機感がありました。再び戦国のインテリジェンスの伝統が復活した時代でもあります。しかし、日清・日露戦争に勝ったがために、太平洋戦争に突入した頃には、日本の支配層のインテリジェンス力は地を這うほどまでに下がったことは否めません。

しかしながらその中で、インテリジェンス教育を行う日本初の専門機関、陸軍中野学校が創設されます。つまりスパイを養成していた学校で、陸軍内でも極秘の組織でした。1940年に誕生し、敗戦とともに消滅。2300余名を数える卒業生は、中国大陸や南方アジアの戦地へ送られ、諜報活動、ゲリラ工作などに従事したとされ、命を落とす者も少なくなかったのです。

尾崎秀実は本来ジャーナリストであり、もとよりスパイではありませんが、スパイのゾルゲに協力・加担したことは確かです。尾崎自らの求めた理想に従ってではありますが、二重スパイ的な側面もあり、次回それについて書いてみたいと思います。   ~次回に続く~ 

 ゾルゲの情報網(その2で紹介した劇中に出てくる名でいえば) スメドレーとは宋 クラウゼンとはフリッツ 川合とは林 宮城とはジョー 
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オットーと呼ばれる男(その2)

2024年10月19日 07時53分54秒 | Weblog
20世紀最大のスパイ事件として国際社会を震撼させたゾルゲ事件。戦前の日本で至難ともいえる戦争阻止の行為を貫こうとした尾崎秀実。「オットーと呼ばれる日本人」は、ゾルゲと共に活動した尾崎の思想と行動を素材として劇化した、劇作家の木下順二さんの代表作です。

今年5月新宿紀伊國屋サザンシアターで、劇団民藝によって上演されました。上演時間は約3時間40分、途中二回の休憩を挟み三幕で構成。民藝の役者のお一人と縁があって、その方が出る演劇は7~8年前から、私は妻と一緒に観さてもらってきました。今回も見ごたえのある内容でした。「オットーと呼ばれる男」以下、あらすじです。

 1930年代初頭、資本主義諸国の植民地争奪戦争に参加した日本に対して、排日感情が高まりつつある上海。諜報活動を行うジョンスンと呼ばれるドイツ人(ゾルゲ)、宋夫人と呼ばれるアメリカ女性、ドイツ人無線技師フリッツらが日本に対するジョンスン機関の中国における役割を検討しています。
 その中で、日本軍の動向を正確に調査する適任者として、新聞社特派員であるオットーと呼ばれる日本人(尾崎)を、機関に入れることがジョンスンにより提案されます。日本では北進政策をとる陸軍と南進政策をとる海軍とが対立しており、日本帝国主義はどちらを目指すのか、それを見極めることが機関の大きな任務だったのです。
 上海を離れることの出来ないオットーは協力者の林とともにジョンスンと会い、林は満洲へ行くことを命ぜられます。満洲から戻った林は、日本は満洲を支配下に置き傀儡政権樹立を目論んでいるとジョンスンに報告し、その場でオットーは日本へ帰国する意思を告げます。「あの社会主義の国」を「理想の中にある祖国」としてもちながらも、祖国をもたないジョンスンと、あまりにも日本人であり過ぎるオットー。ふたりは行動を別にするのでした。
 東京で数年間、妻や娘と一見平穏な日々を送っていたオットーですが、自宅で友人の瀬川と家族揃って話しているところへ、林が現れます。日本に活動の拠点を移したジョンスン機関にはフリッツの他、日本人画家ジョーらが加わりますが、ジョンスンはふたたびオットーに連絡を取ることにします。
 日本の差し迫った現状を語り、日本を捲きこませないためにも世界戦争をくい止めなきゃいけないと強く語るオットーは、ついにジョンスンの要求に応じる決断をするのでした…。そして日米開戦が一触即発という1941年、今や中国問題の評論家として総理の信望と内閣への発言権を強めていたオットーが、ついに検挙逮捕されます。検事に対して彼が語る「正真正銘の日本人」とは。
 上海で、記者として世界の鼓動を感じながら活動している尾崎がゾルゲと交流を深める一幕。帰国して疑われながらも、先見の明で近衛内閣の内閣参与となるが次第に追われるようになる二幕。捉えられ転向(欄外に注釈)を促されるが自己の主張を貫く拘置所拘留中の三幕。幕ごととしての要約はこうなります。

木下順二さんが「日本が日本であるためには」と題して、毎日新聞に1962年6月に投稿した記事が、民藝のパンフレットに掲載されていましたので、それを引用させてもらいます[私の主観で割愛・加筆しています]。 
 
 日本の戦争中の選択は、簡単だったかのか? 難しかったのか? 簡単だったといえばいえる。戦争協力か、反対か。そして反対という選択を簡単に行なって、そして非常な勇気をもってその選択を一直線に守り通した極めて少数の、十分な尊敬に値する人々が確かにいたことはいた。だがそれと同時に、反対という選択を簡単にとりはしたが、そのように一直線にではなく、もっと複雑に、あるいは柔軟に、時として自他ともにその立場があいまいに見えさえする態度でその選択を守ろうとしたところの、人々がいた[尾崎を暗示]。
 今日の日本の問題として、この複雑徴妙な状況の中で、日本人としての主体を造出してゆくという課題を真剣に考えようという場合、あの一直線の崇高とさえいえるコースよりは、これらの人々がそれぞれにたどった苦渋と苦難の道を考えることのほうが、私たちに多くのことを教えてくれるのではないか。そしてこれらの人々の中で、私が最も関心を持たずにいられないのが、ゾルゲとともに国際スパイ団の首魁として処刑された尾崎秀実という人である。
 あの第二次世界大戦の前夜、ゾルゲにとっては、特定の一つの国をではなく、直接世界全体を救うことが絶対の関心事であったと考えられる。しかし尾崎には、世界を救うという構想とともに、同時に祖国であるこの日本を、なんとしてでも救おうとしないではいられぬという切迫した気持があった。ゾルゲの任務は広大であるだけ、それだけ困難であった。一方尾崎の任務は、その二重性からくる複雑さを、いやおうなしに内容としていた。

二人は一緒に処刑されますが、二人の相違が明白です。木下順二さんの最も書きたかった視点ではないでしょうか。  ~次回に続く~ 

転向:広義には、ある思想・信条から他の思想・信条へと変化すること。狭義には、昭和10年前後の戦前日本において、共産主義者たちが、権力側から加えられた強制・暴力によってその思想・信条を放棄した行為をさす。


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オットーと呼ばれる男(その1)

2024年10月12日 04時01分12秒 | Weblog
今回のテーマとなる、同名のタイトルの演劇を今年5月に観ました。「祖国を愛したその〝男〟はなぜスパイ活動に身を投じたのか。緊迫する世界情勢のなかで自らの思想に生きた一人の日本人を描く木下順二の代表作」と、主催した劇団民藝のパンフレットにあります。この劇のあらすじ等を紹介する前に、以下『ゾルゲ事件とは』と『尾崎秀実の人とその生涯』をお読み下さい。少し長くなりますが、実際の事件と人物についての解説です。

『ゾルゲ事件とは』
 1941年10月、国際的な情報諜報団検挙事件として、リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実(ほつみ)らが逮捕されたのが、ゾルゲ事件である。ソ連共産党中央委員会および赤軍第四本部に直属して諜報活動に従事していたゾルゲは、ナチス党員の肩書きとともにドイツの新聞記者を装って来日、東京の駐日ドイツ大使館などで情報を収集していた。
 当時、近衛文麿内閣のブレーンの一人であり満鉄の嘱託だった尾崎秀実からも情報を得たゾルゲは、対ソ戦での日本の方針や、ナチスドイツのソ連攻撃情報を収集・分析してソ連共産党最高指導部に報告していた。ゾルゲ諜報団は、各国からのコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現をめざす日本人活動家たちによって組織されていた。
 その中でもゾルゲが最も厚い信頼を寄せていたのが尾崎秀実である。近衛内閣嘱託の立場を利用して、決死の覚悟で尾崎は国家機密をゾルゲに提供した。報告された主な内容は、日独防共協定、大本営設置事情、ノモンハン事件、日独伊軍事同盟をめぐる問題、さらには最高国家機密である御前会議の内容にまでおよぶ。
 1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が勃発する。ゾルゲはモスクワからの緊急指令として独ソ戦に関する日本軍の動向を探る任を受ける。ゾルゲと尾崎は、さまざまな情報ルートを用いて日本の対ソ戦回避を画策した。1941年9月、御前会議で日本軍の南進政策(北進を選択せず)が決定。その知らせを受けたソ連軍は、スターリングラードの戦いに兵力を集中させることができ、ドイツ軍に圧勝する。
 任務を完遂して安堵していたゾルゲと尾崎だったが、翌月の10月にこれらの活動が発覚し、ゾルゲのグループは「国際諜報団事件」として日本人の検挙者は35名、うち18名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法などの違反容疑で起訴された。ゾルゲ事件は日本政府ばかりか、内外に大きな衝撃的を与えたが、日本警察当局はその事実に驚愕し、発表を半年以上遅らせた。
 検挙者は獄死したり、取り調べ中の拷問で死んだりしたが、3年間の取調べと獄中生活の後1944年11月7日、奇しくもロシア革命記念日にゾルゲと尾崎秀実は処刑された。1964年、ゾルゲはソ連から「最高ソ連英雄勲章」を贈られた。英雄の称号を得るまで、ゾルゲ没後20年の時が必要とされた。

『尾崎秀実の人とその生涯』
 尾崎秀実は、1901(明治34)年に新聞記者尾崎秀真の次男として東京に生まれた。父秀真が台湾日日新報社に勤めを変えたことにより、単身赴任していた父のもとに、乳飲み子だった秀実は母とともに渡り、18歳まで植民地時代の台湾で過ごしている。帰国後、1925年東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。
 尾崎の学生時代は、第一次大戦後の大正デモクラシーの時期にあたり、社会主義思想が広がり普通選挙運動が盛んな時期だった。尾崎は、大学卒業後大学院に在学していた時期に、マルクス主義や社会科学の書物を熱心に読み、次第にマルクス主義に自らの思想が近づいていった。同時に中国に深い関心をもち、中国に関する知識も増やしていく。
 1926年に東京朝日新聞社へ入社、1928年に特派員として中国上海支局 に赴任する。時あたかも革命運動渦巻く上海。当時の中国は資本主義列強の半植民地状態にあり、警察権も行政権も外国人が握り、中国人民衆の生活は悲惨で、矛先は日本に向けられ、“排日・排日貸”をスローガンに反帝・ 反戦の運動が繰り広げられていた。
 尾崎は、日本の中国に対する軍事的な政策を非難し、中国を解放しよう とする革命運動家たちに共鳴するようになっていく。そして、ある人物に「非常に変わった女の新聞記者がいる」と紹介されて、中国革命に深い共感を寄せる米国人であるアグネス・スメドレーと出会い、意気投合するようになる。
 1930年秋上海で、スメドレーが「ドイツ人の新聞記者ジョンソン」として紹介したのが、リヒャルト・ゾルゲだった。そして、尾崎、スメドレー、ゾルゲ、この三者が一堂に会した席で、尾崎はゾルゲの魅力に魅きつけられてしまう。ゾルゲは尾崎に対し、中国の国内問題と日本の中国政策に関する情報の提供を依頼、尾崎は請け負うことになる。
 その後、日本軍が満州事変を引き起こしたころにゾルゲが尾崎に求めたのは、日本軍のシベリア侵入準備工作についての情報だった。尾崎は考え抜いた末に協力を決意、満州に派遣した川合貞吉の情報をもとにゾルゲに伝える。彼らの協力関係は、1932年2月の朝日新聞社の命による帰国まで続いた。
 帰国後、尾崎は大阪朝日新聞社に勤務、この2年ほどの期間は彼の生涯のなかでは人並みの家庭生活を送った平静な状態だったといえる。が、国内外のファシズムという嵐が吹くようになると、時代が尾崎の心をゆさぶる。第二次世界大戦は不可避であると推測しつつも、何とか日本を救いたいと切望する。   
 1934年アメリカ帰りの沖縄人画家で、コミンテルンの指令を受けた宮城与徳が出現し、彼を介し来日したゾルゲとも再会。今度は日本において日本の情報を提供するという使命を請ける。幸いにも尾崎は東京の朝日新聞社に転勤になり、ゾルゲとの会合も密になる。1936年、太平洋問題調査会ヨセミテ会議に列席したが、ここで終生の親友となる西園寺公一(尾崎と共に近衛内閣のブレーン)と知り合う。
 1937年4月には昭和研究会に参加する。この昭和研究会は、国策研究団体で近衛文麿らが積極的な援助をしていた。やがて総合雑誌に中国関連の論文を発表するようになり、尾崎は一躍中国問題評論家として世間の注目を集めるようになるが、朝日新聞社を辞め1938年には近衛内閣、1940年には第二次近衛内閣の嘱託として政府の中枢で国策立案に関与した。
 近衛内閣側近たちは、中国での戦争の速やかな終結、東アジアを統率するための日本の新体制構築(昭和研究会が中心となり構想した東亜協同体論がもと)が必要と考え、尾崎にその立案を委ねた。しかし尾崎には、「愛国者」「売国奴」双方の評価がある。その言動をたどれば、彼が「東亜協同体」の構築を構想し、中国共産党、コミンテルンとある面で連携し、一面では利用しつつ、日本の革新勢力を結集しようとしていたことがわかる。  
 近衛内閣とつながりをもち、日本の政治中枢にも入り込んで日中戦争の行方を「東亜協同体」実現に向け言動する尾崎は、体制内批判を行なう危険な人物として映った。コミンテルンのスパイであるゾルゲを通じた、ソ連への利敵行為による治安維持法違反で1941年10月尾崎は検挙され、1944年11月死刑に処せられた。44歳であった。[劇中のオットーと呼ばれる男とは、尾崎秀実のことである]    ~次回に続く~

 尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲ
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近況/職場の変化(その12)

2024年10月05日 07時40分08秒 | Weblog
介護福祉士実務者研修ですが、21日に新宿校で経管栄養、24日に町田校で喀痰吸引、それぞれ受講し実技検定も無事終わりました。この二つの医療的ケアは、本来医療行為であったものが、一定の教育や環境条件(医師の指示)のもとに介護職が行えるようになったケアのことです。21日は併せて救命救急処置(AED含む)演習も行いました。

改めて二つを説明します。喀痰吸引とは、気道内に溜まった痰を自分で除去できない人に対し、口・鼻から、または気管カニューレ(欄外に注釈)から、吸引器で除去する行為です。経管栄養とは、自分の口から食事を取れなくなった人に対し、鼻•口から、または胃まで挿入されたチューブや胃ろう・腸ろうを通じて、栄養剤(流動食)を胃まで送る方法です。

この医療的ケアは事前にテキストで学んでいて、直前にWeb動画で視聴も義務付けられました。しかし、当日初めて機器や用具の扱いを習得し、利用者を想定した上半身の立体模型を使って演習をして、その日のうちに検定を受けなくてはなりません。事前準備→実施→医師へ報告→片付け→記録、と手順がありチェック項目は33にも及びます。

講師が一回手本を見せ、後は生徒の実践です。生徒同士2~3人組になって4回ほど行います。メモやチェック項目表を見ながら行っても構わないのですが、最後の検定時それらは見れませんので、本番を想定して行うことにしました。当然のことながら、何かが抜けます。焦りも出て、頭が真っ白になりパニック状態に陥りかけます。

大宮校から、新宿校も町田校もそうですが、本来の西船校から振替研修となっていますので、そこの講師も生徒も一面識もありません。校舎を転々としたお陰で、実習で生徒同士組む際、初対面でも気にならなくなりました。逆に、色々な年齢層(経験実績)や多種の職場の皆さんが、受講されていることに興味が持てます。対人の恐怖は無くなったので、後は何回も行って、身体に覚えさせることに専念するだけです。 

最後の講師の検定は、33項目全てに〇が付かないと合格になりません。△は手順を抜かしたり間違ったりした場合、×は再学習の必要あり、です。当日終了時間内に5回目の評価検定でクリアしないと居残ですが、合格まで再トライは許されます。実際に居残ってやり直しをされた方がいました。終わるとこのチェック項目表は回収され、保管するとのこと。実務者研修は国家試験を受ける前段、その厳格さを再認識しました。

経管栄養と喀痰吸引の二日間の研修で、違う手法のケアを、5回行いました。つまり、内容が違う5枚のチェック項目表に評価を記入されました。結果は何とか、それぞれ5回目の講師の検定で〇がもらえて、合格となりました。4回目まで△も2~3個あったのが、ギリギリ5回目でセーフ。頭を通さず身体が覚えた結果だと思いました。講師も共に喜んでくれ、所定時間内で帰ることが出来ました。

研修二日間共に、学校の会場の直ぐ近くのホテルに前泊をしました。校舎自体が駅に近いこともあり、近くにはビジネスホテルがあります。ネットで調べホテルを予約しましたが、どちらも会場まで徒歩2~3分の場所でした。自宅から通ったとして、万一交通機関の事故があったり、初めての所で道に迷ったり、そんなアクシデントも起こり得ます。

当日遅刻して研修がスタートし点呼を取る段階で不在だと、欠席扱いになります。私は前日ホテルに着いてから、念のため翌日の校舎の場所を確認しました。建物ビルにある看板だけでなく、その階に上がって教室を確認します。そこまでするのは、私の性分かもしれません。翌朝まで安心していられるのであれば、必要な行動と思っています。

初心者研修から実務者研修まで、やろうと決めて、いずれにしても、全てが終了しました。実務者研修の終了資格証明証は、後日送られてくると思います。現在のGHでは、経管栄養や喀痰吸引の介助は必要とされませんので、資格取得だけで終わっていますが、このような医療的ケアも介護の現場では、介護職が貢献しているとの認識が持てました。

「現在の心境は」と問われれば、「達成感や解放感に満たされている」です。一週間の内一日は研修で拘束されていた状態から、元の生活に戻ったらもどったで、折角学んで覚えた記憶も薄らいでいくのだろうなとの、強迫感や焦燥感も出てきそうです。「上級資格に挑戦するのか」と問われれば、「決めかねている」です。実務経験の必要条件も、まだ一年半不足です。しかし、恐らく、「10月中にテキストの読み直しを始めている」のだろうなと思っています。

注釈:気管カニューレとは、外科的気道確保として、気管切開術あるいは経皮的気管切開術を行った患者の気管に、気管切開孔を介して留置する管(カニューレ)のことを指します。 


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