梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

夢と魔法の町

2017年01月27日 20時29分05秒 | Weblog

1月7日にNHKで放映されていたブラタモリを録画しました。何故この日のブラタモリを録画したかと言いますと、浦安が取材地だったからです。浦安鉄鋼団地が出て来るのではとの期待もありました。そして最近やっと、録画したものを観ました。

冒頭に出て来るテーマは、“浦安は夢と魔法の町だった”でした。テーマからして100%東京ディズニーランドを連想しますが、「町だった」との言葉に少し引っ掛かります。ディズニーも登場しましたが僅か、夢と魔法の町はディズニーだけではなかったのです。

浦安郷土博物館の学芸員の方が終始同行して、タモリさんが何時ものようにブラブラ歩きながら、浦安の知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫ります。今回は浦安、わが社はその浦安に在りますので、見慣れた風景が至る所に出て来るのは当たり前のことです。

浦安が夢と魔法の町だったのは、江戸時代からだと言うのです。古くから浦安が漁師町として栄えたことを番組は紹介して行きます。昭和中頃30年代には、漁師が二千人を数え、境川という川の船溜まりには二千超の漁船がひしめき合っていたとのことです。 

その境川から旧江戸川に出て、新川から小名木川、そして旧魚河岸へ。旧魚河岸は日本橋に在りました。江戸時代に浦安の海産物を船で運ぶ、このような運河が開通して、海を通らずして魚河岸に直結する、魔法のルートが出来たと言うのです。

漁師町を更に繁栄させた魔法は貝です。浦安沖は広大な浅瀬が存在します。明治以降貝の収穫が盛んになり、大正から昭和中頃東京湾で最も貝が獲れたのが当地です。裸一貫で家族を養える、働くと財をなす、と浦安の漁師の男達はそう言われたそうです。

しかし昭和33年、旧江戸川上流の製紙工場から黒い廃液が流れ出す事件が起こります。怒った漁師1600人がその工場に乱入し警察と乱闘騒ぎになります。廃液で貝が死滅し深刻な被害が出ますが、高度成長工業化もあり海の状況も段々悪化して、遂に浦安の漁業は消滅してしまいます。

そんな浦安を救ったのが、その浅瀬の海を埋め立てた事業です。埋め立ては昭和40年から15年続きます。地価が未だ安いし都心からも近い、マイホームブームに乗って、埋め立てた土地は主に宅地となります。新たに出来た浦安は旧市街地の4倍になります。
 
そんな映像を観ていて思い出すことがあります。わが社が浦安のお隣江戸川の葛西に、亀戸から近隣からの騒音問題で追われ、移ったのが昭和35年の事です。製紙工場の黒い廃液事件の2年後になります。海を奪われた浦安の漁師の方に、新たな働き手として、わが社が大いに救われたのも社歴の一コマです。

残念ながら浦安の鉄鋼団地は、映像に最後まで登場しませんでした。昔から本所や京橋に在った鉄鋼流加工通業が、都市化やトラック交通規制に頭を悩まし、そして広大な浦安の埋め立て地に鉄鋼団地を組織して、夢を託し新天地を求めたのは周知の事実です。
 
わが社も葛西からその浦安に、会社を移転して12年になります。わが業界・わが社を支えてくれたのは浦安。変遷を続ける浦安は、我々にとっても夢と魔法の町です。
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逍遥に過ごす(その2)

2017年01月21日 09時47分33秒 | Weblog

その映画館のホームページで上映時間を事前にチェックしたのですが、私が見間違いをしたのか、10時20分からは『健さん』を上映、肝心の『浅草・筑波の喜久次郎』は午後2時からが初回であると説明を受けました。

正月の7日まで、二つの上映場でそれぞれの映画を流していたのを、翌8日からは同じ上映場で、午前中は『健さん』を午後からは『浅草・筑波の喜久次郎』を上映し出したようです。その係りの人には、遥々遠いところから来た私達の心境を伝えました。

10時の時点では、私達二人の他に誰もお客さんは入って来ません。すると係りの人から、何と「10時20分に、健さんを観に来るお客さんがなければ、喜久次郎を上映してもいいですけど」。ローカルの映画館でなければ出て来ない言葉でしょう。

仕方なく1階の駐車場の車の中で待っていますと、わざわざ2階からその係員は降りて来てくれて、「残念ながら、健さんを観に来たお客さんが数名いました」。一人の係員のホットな対応に、とても感動しました。

午後2時まで、どこかで時間を潰してその映画を観る選択肢もありました。しかし当日は、夕方から北関東は雪が降るかもしれないとの天気予報でした。この日この映画とは縁が無かったと、私達は帰ることに決めました。

往路は常磐高速道で来ました。帰りは未だ時間もあるし一般道で帰ってみよう思い、土浦の市街を抜けて間もなくすると国道6号線に入りました。荒川沖、牛久、渋滞も無く進み、FM放送からはオーケストラ演奏のワルツの特集が聴こえて来ます。

時間の制約もない、こんなドライブも悪くありません。牛久と言えばうなぎ。国道沿いには何軒かうなぎの専門レストランもありましたが、時間は未だ11時前。そこで待ってうなぎを食べる選択肢もありましたが、淡々と車を進めてみました。

取手から利根川を渡ると我孫子、もう千葉県です。遠くの目的地に行くとか時間が無い時とか、ついつい高速を使ってしまいますが、混んでなければ一般道は、街並みも見られて結構楽しいものです。家内とは普段話せない話題にもなります。

我孫子で国道6線からそれて手賀沼に出れば、普段自宅市川から車で来ている風景です。前々から気になっていたうなぎ屋さんに、初めて入ってみました。老夫婦だけでやっている店でしたが、うなぎはとても美味しく、奥さんの接待も気持ちの良いものでした。慣れた道を通り、午後の早い時間帯に自宅に戻ることが出来ました。

ここまで来たのだから、もったいないと無理に物事を進める。自分の我を通す為に、強引に帳尻を合わせる。自分を捨てることは難しいことではあります。でもそれは心のゆとりを失う事でもあり、本質が見えないかもしれません。

無理を通さない、こだわらない、自然に委ねてみる。逍遥と過ごす。今回を通して感じたことです。
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逍遥に過ごす

2017年01月14日 06時16分43秒 | Weblog
正月三連休の中日、8日の日曜日に土浦に向かいました。目的は? 映画を観に行くためです。どうして土浦まで? その映画がそこでしか上映されていなかったからです。観たい映画は『浅草・筑波の喜久次郎』と言う題名で、百年以上前に実在した山田喜久次郎の物語です。

東京海洋大学(旧:商船大学)の名誉教授を囲んで、以前勉強会を行なっていました。その先生が筑波出身、更に遠戚筋に当る同郷の喜久次郎の事を、詳しく調べて15年前に本を書き上げました。念願はその本の映画化でしたが、その夢は叶わず先生はこの世を去りました。残念ながらその先生の本が基ではありませんが、この度映画となりました。

その先生が亡くなられてからも、意志を継いで、その時の仲間で勉強会は続けています。その会のメンバーがやはり筑波に住んでいて、たまたま地元のコミュニティ誌でこの映画の上映記事を見て驚いて、私に知らせてくれました。

「かつてこんなにも、夢のために生きた、ある男たちがいた。明治から昭和の時代、人々に夢や希望を与え続け、時代の名だたるスターを輩出し続けた、近代日本最大の娯楽街・浅草六区。その礎を築いたのは、こんな魅力的な男達だった」

「志高く、情に厚く、庶民のために生き、明治から昭和にかけて浅草六区を近代日本最大の娯楽に発展させた、筑波出身の男・山田喜久次郎。そして彼とともに浅草六区を隆盛に導いた、浅草一の興行師・根岸浜吉。(中略)。男達の熱いドラマが幕を開ける。平成の現代からタイムスリップしたひとりの若者の目を通して・・・」

上映している土浦の映画館のHP、映画解説には、このようなことが書かれています。地元の物語を取り上げた内容なので、他の各地では上映はしていないのです。

8日は午前10時20分が第一回目の上映です。市川の自宅を8時過ぎに、家内と共に車で土浦に向かいます。常磐線土浦駅から歩いて5分位の所にはあるのですが、そこだけが時代が止まっているような、昭和の4~50年代を思い出させる映画館に、10時ちょっと前に到着しました。

最近の複数スクリーンを持つシネコンに、すっかり慣れてしまった私には懐かしさも感じますが、建物も古びていて周りはあまりにも閑散として、この時点で何か頼りなさも感じてしまいました。

一階の駐車場に車を停めて、二階に上がって行きます。館内に入ろうとドアを開けますが、人の気配がしません。同じフロアーには二つの上映場があり、もう一つでは、既に他界した高倉健を題材にしたドキメンタリー『健さん』を上映しているようでした。

ほどなくして映画館の係りの人が現れ、チケットを買おうとしたのですが、『浅草・筑波の喜久次郎』はやっていないと言い出しました。時間帯が違うと言うのです。 ~次回に続く~


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今年のスタート

2017年01月07日 10時20分14秒 | Weblog
2017年、干支では丁酉(ひのととり)の年がスタートしました。今年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。去年の暮れから年が明けても、ずっと晴天に恵まれて、正月に相応しい穏やかな数日を過ごすことが出来ました。

わが社の仕事始めは5日からとなりましたが、4日は常務と二人だけで新年の挨拶回りをしました。回った先は、去年の年末挨拶に伺った仕入先の鉄鋼メーカーと窓口の商社です。

最初に訪れる鉄鋼メーカーの受付で、朝9時少し前に常務と待ち合わせしました。既に受付フロアーには、百名はゆうに超える人達がエレベターに乗る順番を待っていました。否が応にも緊張感は高まり、正月のお休み気分から一転し、現実に引き戻される感じです。

地下鉄の一日乗車券を買って、その日は7社を回りました。担当者がいらっしゃれば立ったまま挨拶をして、不在であれば名刺を置いて、アポを取っている訳ではありませんのでスムーズに7社回れ、その日の歩数は一万六千歩となりました。

翌5日は、常務とそして総務経理部長も加わって、取引先の金融機関へ。前日とは違って、金融機関では新年の挨拶に訪れるお客さんは、応接間や特別に設けた場所に通されます。そこでは桜茶や昆布の茶が出され、少量ですがお酒で新年を祝う銀行もあります。

丸の内界隈では、コートを着ないで数名が一丸となって訪問先に向かっている姿とか、大きなビルの前にはお抱えの車が列をなして待機している状況だとか、この時期ならでは光景です。二日間とも電車の中は人も疎らで、本格的な経済活動はこれからです。 

二日間で結構歩いているにも拘わらず、何故か疲れを感じませんでした。回る先の順序とか、どの地下鉄を乗り継いで行くと最短とか考えて、ただ回ります。過ぎた事の後悔やこれから先の憂いもない、自分の意識は常に今ここに在ることが、疲れなかった原因と推察しています。

逆に言えば、同じ事を繰り返すルーティンワークとか、慣れてしまった仕事をするとかが、体ではなくて頭が疲れを感じるのかもしれません。たまたま前回のブログのテーマは“日常と非日常”でした。これを使い分けるところにも、疲れを感じないヒントがあるのかもしれません。非日常とは、今ここに意識を持って行くことに他なりません。

実は、最近二冊の本を読みました。梶本修身著『すべての疲労は脳が原因』と、久賀谷亮著『世界のエリートがやっている最高の休息法』です。この二つの本には、「疲れは体ではなく脳で起こっている」という、共通点があります。

仕事始めの事を書き出して、内容がすり替わってしまいました。二日間の行動は、この本に書かれている内容の検証に、いつしかなってしまいました。

 
わが社がある浦安より
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