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梶哲日記

鉄鋼流通業相談役の日々

縁と外国人就労(その2)

2025年04月26日 03時08分35秒 | Weblog
ほぼ初対面の状態でKさんと2人だけで居酒屋で会って、会社の話を聴き彼の人格に触れ、とても興味を持ちました。前回Kさんの仕事の概要は説明しましたが、Kさんの会社のホームページから、改めてこの仕事への想いが伝わる代表挨拶(K氏)を以下載せます。

この度は〇〇株式会社のホームページをご覧いただき、誠にありがとうございます。私は、元々小さな町工場で長く勤めておりました。そこでは慢性的な人手不足により、従業員一人一人の負担が大きい日々が続いていました。しかし、一つのきっかけにより大きく改善され、仕事の効率化が進みました。それが「外国人」の雇用です。ベトナムをはじめとする外国人は、前向きでやる気のある若い人材が豊富です。参画された外国人は、勤勉で人当たりがよく、指導を快く受け入れて成長してくれました。その真面目な態度や異国で頑張る気持ちを尊重して、他の従業員も歩み寄り、自然と距離は縮まりました。お互い親切で丁寧な対応になっていくうち、職場全体の成長につながったのです。外国人雇用は、今の私たちに足りないものを補ってくれます。これからの時代にマッチした外国人雇用を、より多くの企業様に認知いただきたい。そのお手伝いをさせていただくため、日々取り組んでおります。企業様の目線で、同じ気持ちでご提案させていただきます。


そのHPには、採用までの流れ・料金が明記されていて、その他のサービスがこのように記されています。「就労ビザの申請・住居の手配など必要な手続きはすべて弊社にお任せください」「入社が決定するまでは費用は一切いただきません」「選考の結果不採用となった場合新たな求職者を推薦いたします」「就労後6ヶ月間は弊社にて生活サポートを継続させていただきます」。

返金保証としてこのような事も書かれています。「就労後は就労ビザ取得日を起点として6ヶ月間の保証をしております」「紹介者都合で早期退職した場合下記の保証をいたします」「1ヶ月未満での退職:紹介料の80%返金・もしくは新たな人材の紹介、1ヶ月以上3ヶ月未満での退職:紹介料の50%返金、3ヶ月以上6ヶ月未満での退職:紹介料の30%返金」。

懇切丁寧にそして安心するように、利用する企業の立場に立って分かりやすく説明されています。しかし、創業間近かの会社の採算を考えたら返金保証についてはそこまでする必要があるのかと、私なりの懸念を抱きました。反面、企業を興すKさんの覚悟や意気込みを感じ、何か応援したい気持ちになりました。

そこで、私の弟に会ってもらう事にしました。直ぐに商売上で繋がらなくても、このような若手で頑張っている人物を弟に引き合わせたかったのです。Kさんも弟と会うことを快諾し、3人で会ったのは例の南行徳の庄やです。弟は弟の観点でKさんを受け止めたと思いますが、この3人の会食もあっという間に時間が経ち、話は尽きませんでした。

弟は言うまでもなく、総合トラックやメタル便を運営している運送会社の代表です。物流の2024問題では運賃の値上げなど対処はしていますが、長期の視点での社員採用では盤石ではありません。Kさんの話を聴いて、外国人の就労に関心を持ったようです。そしてKさんはその会食した数日後、浦安にある弟の会社を単独で訪ねてくれます。

Kさんの律儀なところです。弟の会社を訪れる際、事前に何時いつ行きます、事後にこうでした、と報告をしてくれることです。私としても紹介した甲斐があります。その後も、他の人を紹介させてもらいましたが、今日までそれを継続しています。歳は若くても、気になっている相手の気持ちを理解できる方です。そういえば、「私は人にとても興味があります、仕事は人との関係に尽きると思います」と、2人で初めて会った時にKさんが言っていたことを思い出します。
 
それから暫くして、弟はKさんを同行し静岡県の浜松に出張します。メタル便で全国のネットワークを構築している、メタル便提携先の一社(運転手を百人以上擁す)への訪問です。浜松地区は、自動車メーカーを相手にしている大手の運送会社がひしめきあっていて、運転手の争奪戦の様相を呈しています。弟の会社より、まだ運転手がひっ迫していたのです。

色々経緯はあったようですが、浜松の会社はベトナムからの2人を、運転手としてKさんの会社から採用しました。その運送会社からすると外国人雇用は今の私たちに足りないものを補ってくれたのであり、Kさんからするとそれをお手伝いする形で縁が繋がったのです(Kさんの会社HPより引用)。そそて、Kさんとの縁は更に広がっていきました。    ~次回に続く~
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縁と外国人就労(その1)

2025年04月19日 05時56分02秒 | Weblog
2年前、Kさんという方に出逢いました。地下鉄東西線の南行徳駅近くの居酒屋“庄や”という店で、です。彼はその時35歳、私は70歳、親子ほどの歳の差でした。その経緯を説明しながら、今回のテーマに入っていきたいと思います。外国人就労者とKさんは深く関わっています。Kさんとの縁が、私の関係する人に広がりました。

現在私は自宅近くの身体障害者のグループホームで働いていますが、その時は母体のデイ介護施設に勤務していました。その施設が南行徳駅近くにありました。私より五つ年下の職員と気が合い、いつしか飲みニケーションが始まり、その開催場所が居酒屋の庄やでした。日中の施設では言えない、仕事に対する前向きな意見や、はたまた愚痴を互いに言い合っていました。

彼はヘビースモーカーで、居酒屋にある喫煙室に3~40分に一回は行くほど。ある時、喫煙室から一人の男性を連れて席に戻ってきます。「面白い男性が居たので、梶さんに是非会わせたくて連れてきた」と、彼。その男性がKさんでした。名刺を出されるので、こちらも咄嗟に名刺交換をしました。第一印象はとても人懐っこく好感が持てる方でした。立ち話で一言二言交わすと、Kさんは自分の仲間の席に戻っていきました。

翌日のことです。Kさんからメールが届きました。「梶さんが、すっと立って名刺を出されたのが印象的でした!」との言葉がありました。「出来れば会って話をしたい」とも書かれていました。改めてKさんの名刺を見ると、『外国人人材紹介事業』『外国人就職コンサルティング』『自動車運転実務講習』『各種セミナー運営』の事業が明記されています。Kさんはその会社の代表取締役で、会社は南行徳に在ります。
   
一対一で、後日夕方庄やで会うことにしました。その縁は今日まで発展的に広がっていくことになりますが、その時は知る由もありませんでした。初対面ではありましたが約3時間、盛り上がりました。Kさんは高校まで野球をやっていたり肘を故障して手術をしたり、身体も大きく顔もメジャーの大谷翔平に何となく似ていました。

起業して未だ一年とのこと。それ以前の10年間は、叔父さんの町工場の現場で働いていました。慢性的に人手不足で困っていた会社が、優秀な外国人就労者(東南アジア系)に救われたそうです。Kさんも色々改善提案をして会社に貢献したようですが、叔父さんにはKさんより年下の息子がいてそちらの方へ肩入れし、正当な評価をしてくれなかったとのこと。彼のお父さんは勤め人、現役のトラックの運転手です。

そこでKさんは退職の決断をします。外国人人材紹介事業をメインとする会社を一人で興します。叔父さんの会社で、真面目な外国人就労者と一緒に働いたことが切っ掛けです。ある人の紹介で教習所のOB教官と知り合って、ペーパードライバーに路上運転の訓練をする事業も併設しました。先々外国人就労者の運転指導や日本の免許取得の手続きをサポートすることも、視野に入れていたようです。

会社は、ベトナム・ネパール・ミャンマー・中国出身の人材を日本に紹介しています。特にベトナムには力を入れていて、Kさん自身ベトナムに頻繁に出掛けて行き、現地の日本語学校を訪れ、日本の企業などの紹介や海外就労者の生活の様子を説明しています。ベトナムの送り出す窓口会社のスタッフとも懇意にしていて、常に円滑な関係を築いています。

この業界には質の悪い斡旋業者も多くある。送り出し側も受け入れ側の業者も、法外な仲介手数料を請求したり約束を履行しなかったり、被害を受けるのはそのお金を払う就労者。日本ではただ斡旋して終わり、後の面倒を見ない業者もいる。Kさんの業界への不信感はつのりますが、それが自社はそのようなことは絶対しないとの信念に繋がっています。

3年前は売り込みに行っても門前払いが多く、頭から外国人を就労することに先入観や拘りを持った企業が多かったそうです。物流の2024年問題でだいぶ様子が変わったそうですが、具体的にどう外国人就労者採用を進めたらよいのか、色々な制度はどうなっているのか分からない企業も多くあるのではないかとのことです。

因みに南行徳の庄やで私と飲みニケーションし、Kさんとの出逢いを橋渡してくれた同僚は施設を去って行きました。Kさんとの新たな縁が、その後また違った縁を呼んでいます。   ~次回に続く~
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1000回を振り返り(その5)

2025年04月12日 04時02分48秒 | Weblog
このブログが役立ったのはわが社の60周年記念誌を発刊した時です。今から12年前のこと、梶哲商店は私の父が昭和27年11月に創業して60年が経過しました。正確には、祖父が大正時代から鉄の商売をしていて戦時中休商を余儀なくされ、戦後父が祖父とは違う鉄の商いで第二創業をしました。梶哲商店は60周年事業として、その年に記念式典を挙行し、記念誌を発刊することにしました。その記念誌の序文は以下です。

 わが社の創業60周年記念式典を執り行うことを最終的に決めたのは、平成 25年の4月のことです。その頃より、式典当日参列の皆様に配布致します社史を作ることを考えていましたが、構成がまとまりません。それ以上にわが社には、社史にするような記録や資料がほとんど無いことが気掛かりでした。また写真にしても梶家家族のものは多くあるのですが、創業から20年位までの会社関係の写真が同じくほとんど無い状態でした。見方を変えれば先代の梶哲(かじさとし)が、創業から暫くは、会社を発展させる為に必死に心血を注いできた証拠でもあります。
 梶哲が梶哲商店を興した時と、梶家に生まれた長男の私は奇しくも同一時期であり、物心ついた頃から先代の仕事を身近に見てきた私でもあります。また幼い頃からの私に対する先代の教育も、ある意味私を会社に入れる為の伏線でもありました。そして私はその路線に乗り、大学を卒業して梶哲商店に入社しました。従って、私の今までの人生と会社の経歴が重なることになります。
 私はそのようなことを、自分で毎週発信しているブログに、折に触れて投稿してきました。それをベースに、今回書き直したり新たに書き足したりして、文章中心の記念誌としてまとめることにしました。
 この記念誌の構成としますと、前半は特にこの自分史の色彩が濃いものとなっています。私から見た父親像や私から見た会社像です。後半からは、私の弟梶大吉がある時期の会社を記しました。そして家庭において私や会社を見てきた、私の妻に寄稿を求めました。また土地取得や移転に絡んだエピソードや、その土地に伴った商売の変遷を見てきたものも挿入しました。最後は、わが社の役員であった野末氏と岡崎氏を交えて私と弟との対談をまとめました。全体像を捉えるまでには至っていませんが、梶哲商店の60年の一端でも感じ取って下されば幸甚と存じます。
~平成25年11月吉日~

こんなところで、書き始めたブログに助けられるとは思ってもいませんでした。平成25年の11月に記念式典がありその時記念誌を配布する予定でしたので、6カ月余りの間に記念誌を完成しなくてはなりませんでした。何年もかけて昔を思い出してはその都度書いてきたブログ、その引用がなければとても間に合わなかったでしょう。記念誌の内容は、目次(欄外の写真)を参照下さい。

ブログはこのように役に立ちましたが、苦い経験もありました。15年程前のこと、わが社の得意先からクレームが付きました。当時わが社の鋼板や加工品販売ではメインクラスのお客さんでした。その時期に千葉八街にあった溶断工場のレーザ加工機が故障して、その様子をブログに公開しました。それを見た件の得意先が、「自分の弱みを軽々と口外する会社とは取引を考えたい。ライバルの同業他社が見ていたらどうするのか、脇が甘い」との苦言でした。

確かにその社長のおっしゃる通りではありました。前にも書きましたが私のモットーは、「極力隠さないでありのままを書く。何故なら読んで下さる皆さんが関心を寄せず興味が湧かないから」です。しかしながら、得意先の社長の指摘は受け止めました。そのようなこともあり、事実でも隠すかどうかは良く判断しなくてはならないと、修正してきたことも確かです。

ブログにまつわるエピソードは話したら切がありません。今回の“1000回を振り返り”のテーマで、最後に投稿に際しての留意点の話しで締めたいと思います。毎週土曜日の朝(5時から7時の間)の投稿は至上課題です。毎週その時間帯に必ずしも自宅にいるとは限りません。旅行(国内外)の最中、出張の最中、勉強会で外泊の最中、もあります。ですのでその際は、パソコンとPCの電源と携帯WiFiは必携となります。

長い海外旅行や出張など、週中で未だ書き上がってなければ、宿泊しているホテルで早朝や夜中にまとめなくてはなりません。読者の中で、毎土曜日の朝読んで下さる方がいれば、その時間帯にアップされていなければ、私に何かあったのかと心配されることと思います。お陰様で今までそのようなことはありませんでした。一週間のリズムを刻んでいる自分の一部であるこのブログを、これからも継続して参ります。 





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1000回を振り返り(その4)

2025年04月05日 03時51分52秒 | Weblog
決して拒んでいる訳ではありませんが、私のブログには殆どコメントが寄せられません。たまに、誰かまわず自動的に送られてくるコメントは削除するか無視をしています。しかし、誰か分かっている人とか誠意的に寄せられる方のコメントには返事を書いています。

もう16年前のこと、「nz(tetsuro) gannbatteruyo」との書き込みがあり、訳の分からないコメントかと、削除しょうと思ったところでした。よく読めば、ニュージーランドに行っている息子から、「頑張ってるよー」とのメッセージでした。当時中学三年になる息子は、通っている中高一貫教育の学校の制度を利用して、ニュージーランドで二ヶ月間の語学研修留学をしている最中でした。

遠く離れたnzに来て一ヶ月、里心付いて私のブログを見てコメントしたのでしょう。近くにいない息子とこのブログが橋渡しになるとは、そんな出来事がありました。子供(娘二人と息子)達が年を取って、親から直接聞けなかった話を、このブログが介在役となればと思った時期もありました。あったとして、私が亡くなってからのことでしょうから、それを意識して書き続けるのはやめました。

私の父は殆ど文章を残していません。しかしメモ魔で、事務机や食卓に備えていたり枕元などに置いていたり、紙と鉛筆は常に放しませんでした。そのメモが商売のアイデアになったことは言うまでもありません。メモは多少残っていますが、文章らしき物は残っていません。となると父親の考えていたことや思っていたことは、私の頭にしかありません。

父は話し上手で、話題は豊富で、聞く人を飽きさせませんでした。自ら志願して戦争に赴いたその体験を、大人になった弟や私に(共に所帯を持つ前実家で)よく話してくれました。そのようなことを文章に残しておいてくれたらとの思いがありますが、私が子供たちに何らかの方法で伝えない限り、父の体験談は途絶えてしまいます。語りが綴られたブログは、体験が伝承される効果があるのかもしれません。

話しは戻りますが、息子は今や31歳。梶哲商店に大学生の頃からバイトで勤め始め11年、現在は取締役専務の職にあります。私のブログを見ているか一々聞きませんが、先々必要があれば読んでくれることでしょう。

家族の話になりましたので、このブログでの私の妻の存在についてもふれます。「もし妻がいなくなったら」、私が困るのは何か。私の左足の爪切りとブログです。私は若い時の股関節骨折の後遺症で、左の股関節の可動域が殆んどありません。従って左足つま先を手元にひき寄せることが出来ないので、長年左足の爪は妻に切ってもらっています。

困るもう一つのブログとは、書き上げアップする直前に妻にチェックしてもらっているからです。誤字・脱字の発見、て・に・お・はなどの適正、の見直しです。初期の頃、妻に言われました。「家族のことでこんなことを書いたら恥ずかしい!」「誰が見ているか分からないのにそこまで書く必要があるの?」。内容も第三者の目で見てもらうことも大事なので、修正すべきことは直してきました。妻は、言わば映倫のような存在となります。

しかし私の考えの基本は、極力隠さないでありのままを書く、です。何故なら読んで下さる皆さんが、そうでなければ関心を寄せず興味が湧かないからです。勿論、隠すかどうかのその境目はわきまえなくてならないと思ってきました。慣れるもので、妻も最近は内容ついてはあまりクレームをつけなくなりました。

妻は最近、校正のような仕事をしたいと言い出します。確かに表舞台のライターも大事ですが、縁の下の力持ちの校正者も無くてはならない存在です。書いた自分には、間違いは絶対分からないからです。妻と喧嘩して険悪になった時、チェックを頼みづらいので、私一人で必死に読み返しています。

以上のような意味では、このブログも妻と二人三脚でやってきたことになります。唯一意見が聴けるのが妻で、たまに辛辣な意見も出てきますが、このブログも1000回を超えられたのも妻のお陰で、妻に感謝です。    ~次回に続く~
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