梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

目的を持つ

2018年11月24日 06時37分37秒 | Weblog
私は大学時代ワンダーフォーゲル部で、苦楽を共にする良き仲間に恵まれ、四年間は無心に山に登っていました。しかしこのブログ上でお伝えしてきましたが、社会人になって足を骨折し後遺症が残って、以後38年間は全く登山から遠ざかりました。

ところが3年前その同期に誘われ、私は諦めていた山に挑戦することになりました。大学卒業40周年を祝して、記念登山を行うことになりました。登山が終われば、麓の温泉旅館で一泊する企画です。私は当初はその旅館で、皆を待つだけでのつもりでした。

「行けるだけいって、ダメなら登山道をまた戻ればいいじゃなか」。背中を押してくれた仲間がいて吹っ切れました。行った場所は、群馬県と新潟県の県境にある谷川連峰です。パーティは二手に分かれ、私達が目指したのは谷川連峰の西端の平標山(標高1984m)です。私はその直下の平標山の家まで登って、しかしながら、限界を感じ一人下山します。標高差650mを、二時間半を掛けて登りました。私にとってはそれでも、山に再び登れたとの感動でした。

その40周年の切っ掛で、同期の一泊忘年会が始まりました。殆どが登山は現役、手軽な山に登ろうとのことで、3年前に行ったのは伊豆半島の付け根にある沼津アルプスです。200~300mの山々が独立峰的に並び、山稜まで登ると北には富士山、眼下に駿河湾を見下ろせる、抜群の眺望でした。しかし一人が腰痛を訴えだし、私の足を気遣ってくれたこともあり、途中で下山し全山制覇は叶いませんでした。

話は変わりますが、わが家から歩いて5~6分の近さに神社があります。鳥居から急な70段の階段があり、登りきった所に社殿があり、そこには海抜20mと書かれています。最近は毎日その階段を、鳥居がある平地から五往復していますので、100mは登っていることになります。

私は今年5月からウォーキングを日課にしました。歩くことが頭脳の活性化になるとの目的でした。3カ月前から、朝だけでなく夜も歩くようになり、一日で6~7千歩になります。ウォーキングの途中にその階段を登るようになったのは2ヵ月前からです。

何故その階段を登るようになったかと言いますと、歩くだけでなく毎日階段を登ることで、登山に備えておこうとのことに他なりません。前述したように、誘ってくれる仲間に迷惑を掛けたくないとの気持もありました。

2年前の忘年会は同じ伊豆で行なわれ、前年の沼津アルプスで登れなかったピークを制覇するグループと、その年は故障者も多かったので車で観光ポイントを巡るグループとに分かれ、私はまだ山登りに自信が無かったので後者のグループに入りました。

さて、今年の忘年会の行き先は。伊豆の網代となりました。たまには温泉だけつかってゆっくりしようとのことでしたが、俄かに天城山登山が計画されました。やはり登山の血が騒ぐのでしょう。私はというと、エントリーさせてもらいました。

目的が無ければ毎日のウォーキングも続かなったでしょう。そのウォーキングも、頭脳の活性化から、体力を向上する、登山に備える、と目的も多岐に亘ってきましたが、足の痛みも無く続けられることには感謝しています。

今回の天城山プランは、所要時間4時間半、歩行距離8.5km、トータルの登り600m位になりそうです。毎日の階段のトレーニングの6倍ほどですが、今回は離脱せず皆さんについていこうと思います。

毎日登っている階段
 神社からの眺め
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奇縁(その2)

2018年11月17日 08時51分10秒 | Weblog
私は梶哲商店に入社して二年目24歳の時に、現場で大腿骨を骨折して、翌年伊豆修善寺の更に奥の、月ヶ瀬という所に在る病院で手術を受けました。その病院は私が卒業した大学の医学部の付属病院です。温泉のプール等もあり、術後のリハビリ施設も併設されていました。

高校受験の時に私の前に座っていたOと、何とその病院で再会したのです。Oは埼玉の高校の方に受かり、大学は成績優秀により推薦で医学部に入って、整形外科医となっていたのです。再会したのは、私が手術をした直後でした。「中学は一緒、あの時の!」との一声から始まり、何故こんな伊豆の山奥に互いに居るのかとの話となりました。

Oは家族を伴って寮に住み込む勤務医として、月ヶ瀬に来ることになったのです。私が怪我をしていなかったら、Oが医者になっていなかったら、医者になっていても整形外科としてその病院にその時期に来ていなければ、絶対に再会はしてなかった筈です。

Oの自宅は東京の葛飾区でしたので私の自宅からも近く、その後、それぞれに東京に戻ってから親しい関係が始まりました。Oは私の担当医ではなかったのですが、私の怪我の後遺症については、それからも親切に相談に乗ってもらいました。

Oは大学では剣道部でした。その剣道部の仲間で、我々と同じ中学出身で、埼玉の高校で一緒だった同期がいるとのことでと、引き合わせてもらったのが前回話しましたIです。そしてOとIが仲良くしている、埼玉の高校の同期で、葛飾区に住んでいるもう一人がいるというのです。その彼(以後Tとします)は、私と大学では同じ学部だと言うのです。

聞いてみると、Tは同じ学部どころか同じクラス。Tとは内部高校出身なので、大学入試で入ってくるクラスメートより親近感がありました。我々の大学一年の当時、大学は学園紛争中で、数ヶ月授業が行なわれなかったことがありました。真剣なクラス討議をするため、数名でTの伊豆修善寺にある別荘に、泊り込みで行ったこともありました。

Tは仏教学部がある大学に入りなおし、家業を継いでお寺の住職となりました。そのような縁で、OとIとTの仲間に私も入れさせてもらい、それぞれの家に酒を飲むたびに通い合う仲となりました。医者と坊主とそれに中小企業のおやじ二人ですが、不思議な縁の繋がりです。

哲学者で思想家の安岡正篤氏は、縁尋機妙(えんじんきみょう)と多逢聖因(たほうしょういん)ということを説いておられます。それぞれ、「良い縁がさらに良い縁を尋ねて発展してゆく様は誠に妙なるものがある」「よい人に交わっていると、気づかないうちによい結果に恵まれる」、との意味のようです。

私達の縁が、縁尋機妙であり多逢聖因になっているのかは分かりませんが、ものの考え方や感じ方について、よい意味で私は彼らから多くの影響を受けました。

Tは30代で奥さんに先立たれました。その後付き合っていた女性もいましたが別れて、それからは一人暮らしをしていました。お子さんは三人いますが、それぞれ結婚して所帯を持っています。そのTが今年の2月に突然亡くなりました。自宅のマンションで、家電製品の埃が原因で出火して、その時運悪く脳梗塞を起こしていたらしい、とのことですがそれ以上は詳しくは分からずじまいです。

四人仲間の一人が、また一人の奥さんが、今年去って行きました。今回このブログを書くにあたって、四人の出逢いをまとめてみましたが、それにしても摩訶不思議、奇縁です。そのようなものをしみじみ感じています。
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奇縁(その1)

2018年11月10日 10時09分56秒 | Weblog
私と同じ歳の友人の奥さんが亡くなられました。その奥さんは一年半前から脳腫瘍で、手術や入退院を繰り返し、一ヶ月前に遂に帰らぬ人となりました。葬儀の通夜、弔問客がいなくなった通夜ぶるまいの席で、その友人と私の家内を交え話し込んでしまいました。

友人(以後Iとします)の子供は三人で、娘さん二人は既に嫁ぎ、一人の息子さんはIの家業(鞄屋)を継がないまでも立派な社会人です。子供達とは別世帯、夫婦二人だけの生活で、長年家業を手伝ってきた奥さんを失ったのです。Iの寂しさは、察するに余りあります。

Iと私の家は直ぐ近くで、Iの娘さんと私の娘と、近くの小学校では同クラスになったこともあり、亡くなった奥さんと家内とは仲良しでした。後述しますがIの他に友人が二人いて、三人とは一時期、それぞれの家に酒を飲むたびに通い合った仲でした。

そのIと知り合ったのは二十代後半でしたが、実は中学校が一緒だったのです。千代田区に在る区立中学で、我々はそこに越境通学をしていました。学年12クラスあり、二学年から前半と後半に分かれホームルームクラスとは別に、英・数・国の授業は期毎に成績順にクラス分けをして、競わす進学校でした。そのIとは前半と後半に別れていましたので、全く面識はなかったのです。

そのようなIと、どうして社会に出てから出逢ったか。これから説明いたします。少し長くなりますがお許し下さい。

小・中・高・大学まで一環教育をしている私学に、Iも私も高校で受験しました。その高校は神奈川県と埼玉県とに男子校が二つあり、受験日は神奈川の方が先で埼玉が後で、受験する生徒は大よそ二校に願書を出します。しかし先に神奈川が受かれば、埼玉の方は殆どが受験を見合せました。

今から51年前の3月、その神奈川の高校の受験日の前日、首都圏は記録的な大雪となりました。当時江戸川区葛西の自宅には最寄りの鉄道も無く、翌日の受験時間に間に合わないと、父は策を講じます。父の運転する車に私は乗せられ都心まで出て、後は地下鉄一本で受験校まで行ける、上野の簡易ホテルに父と泊まることになります。結果それが大正解でした。

私は十分時間の余裕を持って受験校に着きましたが、当日の朝から首都圏の交通はマヒ状態でした。高校側は、三時間遅らせて受験を決行します。いよいよ受験開始となりますが、私の席の直ぐ前に、時間すれすれで滑り込んできた生徒がいました。

何と、同じ千代田区の中学校の生徒です。先ほどのIとは違うその彼(以後Oとします)は、私と同じ前半のクラスです。成績別クラスでは、トップの1組から下がったことは無かったと思います。校内テストでは、約700人いる生徒の中で、上位200番までが廊下に順位と名前が毎回貼り出されます。Oは常に上位に貼り出され、名前と顔は覚えていましたが、会話をすることはありませんでした。

そのOが受験の日、私の前に座ったのです。Oは試験が始まっても呼吸の乱れが続き、可哀想なくらい肩で呼吸をしていました。試験に集中出来なかったと思います。

私の試験を受けた感触はどうだったかと言いますと、国語と英語は出来たところ出来なかったところは自分でも分かりましたが、数学は全くちんぷんかんぷん。落ちたと思いました。しかし埼玉の方の受験日の前に、何と合格通知が届きました。

私が入学した神奈川の高校では、Oに会うことはありませんでした。悪天候によって優秀なOが落ちて、出来ない私が受かるという番狂わせが起こりました。そのOに再会したのは、それから約10年後伊豆の山奥の病院です。   ~次回に続く~
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工場の近況(その2)

2018年11月03日 10時26分44秒 | Weblog
「単なる欠員の補充ではなく、現状においては余裕をみて増員してもらいたい」との工場長の主張を詳しく聞いていくと、こうです。時間の余裕がないと、若手に技術の指導などできない。仕事においても受注の波はあり、コストを考えたら最低限の人員であれば、確かにロスは無い。しかし新たな加工に挑戦するならば、今はフレキシブルな対応力が必要ではないか。

その工場長は、ガス溶断の道で35年以上のキャリアがありますが、多くの失敗を重ね今日あると自認しています。また25年以上前、当時あまりカスタマイズされていないレーザー切断機を、自社内だけでデータ集積し、切断精度を上げる為に試行錯誤してきた人物です。現場で沁みついた感性や感覚は、私などとても足元にも及びません。

工場長は、「技術は簡単に教えない」と言います。一見自分の経験や技術を出し惜しみする偏った職人気質ととってしまいますが、そうではないのです。単に教えないのは、興味を持った人間でないと、一方的に教えても無駄になる。自分のやり方で失敗し行き詰まった時に教えを求めれば、それは活かされる。などの真意が隠されているのです。

例えば、自分は今レーザー機を担当しているけれど、溶断機で今までにない珍しい加工を誰かがやっていたら、それに興味を持てるかどうかだそうです。工場長曰く、わが社の中にその好奇心がある社員は、多くはないがいるそうです。

また、難しく手間が掛かる仕事が教材であるとも言います。お客様から受注する仕事の中に、創意工夫を試され、腕を磨くチャンスが内在されている。お金を頂戴し、自分の技術の向上が図れるとの捉え方です。

反面、手を抜くことも必要だと言います。手を抜くとは、粗っぽくずさんに仕事を終わらすのではなく、智恵を働かせてどうしたら効率が良く、全く違う手順や方法がないか、模索することも大事だとのことです。

このような背景での増員で、一つ屋根の下にある工場(切断加工)と倉庫(素材販売)の要員は、工場長を含め12名となりました。2kと6kのレーザー機に、若手中心に4~5名の配置となっています。そのまとめ役である主任職に、5年前に入社した26歳を任命しました。同じチームで、新人の若手同士のコミュニケーションが高まれば、何よりと思っています。

開先機能が搭載された6kのレーザー機を導入して3年が経ち、新たな開先をこなしながら受注は増加してきました。それに伴って工場長の得意とするガス溶断の、他社がやりたがらない開先も声が掛かるようになってきました。そのような中での自動開先機の導入です。開先加工機において、三つの選択肢が出来ることになります。

ここにきて、開先加工を主軸にする“他社が行わない加工や技術力でオンリーワンを目指す”ことが、会社のこれからの方向性となりました。社内にある対応力や選択肢を活かし、今後習得していく技術力で、若手が積極的にどうやり繰りしていくかが課題となります。

会社の方向性と、他社が出来ない仕事に誇りと喜びを共有した若手の向う道と、一つに重なれば願ってもないことです。このタイミングを活かしたいと思います。

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