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梶哲日記

鉄鋼流通業相談役の日々

ポスト資本主義と仏教(その3) 

2024年11月30日 03時35分32秒 | Weblog
前回は資本主義についての見解でしたが、今回はその対極にある社会主義について書いてみます。資本主義は歴史があって、そして定義があるのではないかとお伝えしましたが、社会主義は定義があってそして歴史があるように思われます。経済スタイルの違いは、特に社会主義は、国の政治思想に大きな影響を与えたことは確かです。

18世紀イギリスで産業革命が起こり、19世紀にはこれがヨーロッパへと拡大していきました。生産力は急激に上昇しましたが、19世紀の後半になると、資本家と労働者の格差の拡大が目立つようになります。不況、失業、貧困は資本主義の旧三悪とも呼ばれました。そこで、ドイツの経済学者カール・マルクス(1818~1883)は、当時の資本主義を国家独占資本主義と批判し、資本主義に代わる社会主義経済を提唱しました。

私有財産制を採用すると資本が集中したところに独占が生ずるので、私有財産制と利潤の追求をやめ、個人や企業ではなく、国や地方公共団体・協同組合などが生産手段を公有(社会的所有)することを主張し、資本家と労働者という階級対立をなくし、すべての人々を労働者とする平等な社会を作ろうとしました。マルクスは、資本主義社会を分析することで、これらの問題の解決法を見つけようとしたのです。マルクスは、あの有名な『資本論』を著わします。

『資本論』は、資本主義の崩壊を予言した点や剰余価値説を提唱した点などが特徴です。マルクスが生きた時代は、産業革命が起こって、それが拡散し、マルクスの生まれたドイツで同様の動きが起こりました。産業革命で大量生産が可能になり、社会全体は豊かになる一方、労働者が過酷な環境に置かれます。資本主義の名のもと、経営者が利益を追求するために労働者の賃金を抑制したり、雇用する代わりに安い機械を導入したりしていた時代です。

マルクス経済学で提唱された計画経済の考え方が、社会主義国家の誕生へとつながりました。マルクス経済学から誕生した最初の社会主義国家がソビエト連邦(ソ連)です。ソ連誕生以前は、皇帝が治めるロシア帝国が存在していました。1914年の第一次世界大戦勃発をきっかけに国民の不満が高まり、1917年の革命とともにロシア帝国は崩壊します。そして1922年には、4つの共和国からなるソ連が誕生しました。誕生後、社会主義経済を進め、一定の成果を挙げます。しかし、第二次世界大戦や米ソ冷戦を経て、ペレストロイカ(改革)路線を進めますが、遂に1991年にソ連は解体されました。

社会主義がうまくいかなかったとされる理由です。国が管理し指導した通りに経済活動を行うので、労働者が頑張って働いても賃金は上がらないし、効率よく仕事をしようと努力する必要もない。競争がないため、より良い商品を生み出そう技術改良を加えることもないというような問題が明らかになりました。実際、労働者の勤労意欲は減退し、生産性が低下して経済は停滞するようになります。さらには官僚主義による非能率的な国家運営が行われたり、一部の共産党幹部が富を独占してしまったりする事態にも陥ります。行き詰まったソ連は解体されますが、その後ロシアは急速に資本主義化し、今日では資本主義経済が導入されています。

ベトナム社会主義共和国やキューバ共和国のように、今も社会主義を掲げている国も一定数存在します。中国も、第二次大戦後の1949年、共産主義革命により誕生し、1970年代末から改革開放政策(経済改革・対外開放政策)に着手し、1990年代前半からは社会主義を維持しながら市場経済を導入するという「社会主義市場経済」を導入するようになります。現在の中国は国家独占資本主義ともいうべき資本主義国に変質しています。

ソ連の崩壊などをきっかけに、マルクス経済学は以前ほど重視されなくなりました。ある意味では、衰退したともいえるでしょう。ただし、マルクスが著した『資本論』は計画経済などを提唱するだけでなく、資本主義を分析した書物でもあるため、現在でも資本主義を語る際に引用され、大学の授業で取り上げられます。余談ですが、50年前私が大学生の頃、「マル経」と「近経」という言い回しがありました。マル経とはマルクス社会主義経済学、近経とは資本主義経済学(主にケインズ理論)を中心とする近代経済学のことをいい、共に経済学を学ぶ上で重要な講義でした。

資本主義の影響を受け、社会主義は変転しました。また社会主義の影響を受け、資本主義も変質しています。両主義の共通の目的は、人類の幸せ実現です。しかし、その偏った主義を尊重し過ぎると、人類の幸せ追及がないがしろにされ、歪が生じます。両極の主義を知った上で、改めて定義と歴史とその中で修正の必要を感じます。   ~次回に続く~

 カール・マルクス
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ポスト資本主義と仏教(その2) 

2024年11月23日 04時31分19秒 | Weblog
ポスト資本主義を語るにしても、資本主義とは何かを把握しておく必要があります。資本主義は定義(論理)があって作られたのではなく、経済活動の歴史(結果)として形成されてきたものです。以下、それについての説明です [この内容はネットなどで調べたものを私なりにまとめたものです]。 

資本主義とは、資本と労働との協働で、財・サービスの生産・流通を担い、その過程で価値を創造し、資本と労働に収益や収入をもたらす社会システムです。別の言い方をすると、労働力を商品化し、剰余労働を剰余価値とすることによって、資本の自己増殖を目指し、資本蓄積を最上位におく社会システムです。

資本というのはお金のことです。例えば会社を立ち上げるための、ある程度大きなお金のことです。資本主義は、資本から派生した私有財産を自由に持てる状態を前提としています。資本を持っている人が、利益を追求することを認める、経済活動を指します。資本の私有化は結果的に、広く経済を支えることになります。日本は資本主義経済ですので、誰もが資本を元手にして自由に会社を作るチャンスがあります。

資本主義の影の部分です。会社を作れば、今度は会社を維持しなければなりません。ライバル会社や金融やその他様々な要因の中で、会社を存続させていかなければなりません。自由な経済活動は必ず競争があり、生き残れる会社も倒産してしまう会社もあります。景気の良し悪しもありますが、こうした倒産が相次げば、社会全体の失業者は増え、経済力も滞ります。金融不安や破綻などが発端となれば、大恐慌となります。ここまでが資本主義の定義です。

歴史上、資本の提供者と労働の提供者が別々に誕生したため、資本家階級と労働者階級とを生み出します。両者の間に軋轢が生じたことから、資本家を否定する社会主義思想が誕生し、社会主義や共産主義を標榜する国家も存在してきましたい。以下、資本主義の成立から現代までの歴史の要約です。

[産業革命と資本主義の確立(18世紀半ば~19世紀半ば)]
 イギリスなどでの綿織物の生産過程における様々な技術革新、また製鉄業の成長と相まって蒸気機関の開発(1769)による動力源の刷新が画期的な製造業の革命をもたらしました。これが産業革命です。これによって、大規模な工場における機械生産により大量生産を行うという工場制機械工業が成立し、資本主義経済が確立されます。また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こり、それが流通革命をもたらし世界経済は画期的な変革の時代に入ります。
 産業の発達は、利益(利潤)を追求して財・サービスを生産する企業においては、工場・土地・機械などの生産手段を所有する「資本家」階級と、生産手段を持たず労働力を提供して資本家から賃金をもらう「労働者」階級とを生み出すことになりました。

[国家独占資本主義(19世紀後半~20世紀前半)]
 自由主義の宿命として経済には変動が伴い、好況と不況とが周期的に繰り返されます。勝ち組の企業が他の企業を買収・合併を行うことにより、資本を集中し規模を拡大していきました。その結果、カルテル、トラスト、コンツェルンなどの独占体が形成され自由競争が阻害されるようになります。    
 同時に、産業資本と銀行資本が結合した金融資本が産業を支配するようになり、独占市場が形成されます。また、工場制機械工業の技術発展は過剰な生産物を生み出すことになり、企業は市場を海外に求めざるを得なくなりました。それを助けるために国家も強力な軍事力によって植民地獲得に乗り出します。帝国主義の出現です。

[修正資本主義と新自由主義(20世紀前半~)]
 資本主義の基本である自由主義を、政府は何もせず市場にすべてを任せることであると解釈する思想を、自由放任主義といいます。その結果起きたのが1929年の世界恐慌で、大量の失業者が発生し資本主義国は大混乱に陥りました。世界恐慌以降の政府は、資本主義を前提としつつも、経済的自由を制限し国民の福祉を実現しようとしてきました。国家が市場に介入して景気変動の調整をし、社会保障などによる貧富の格差解消に乗り出したのです。不況が来たら、政府は公共投資を積極的に行い、需要を創れば、恐慌に陥ることなく景気は再び上向くと考える現代の資本主義を、修正資本主義と言います。
 しかし修正資本主義を採った結果、各国の政府は大量の政府債務を抱えて財政破綻のリスクを常に抱えることになったことから、再び政府の介入や規制を撤廃し、すべてを市場に委ねようと興った考え方が、新自由主義です。旧来の自由主義と違うのは、グローバル化という国境を越えた経済活動を前提とし、国内政策にとどまらず、世界的な連携による関税障壁撤廃や規制緩和を求めてゆくという点が特徴です。
 
資本主義は、このような歴史があって、そして定義があります。経済スタイルの違いは、そのままその国の政治思想にも大きな影響を与えています。次回はその対極にある社会主義について書いてみたいと思います。  ~次回に続く~
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ポスト資本主義と仏教(その1)

2024年11月15日 05時35分42秒 | Weblog
『会社で出世して、給料があがっても幸せになれない。役職がついても、もっともっとと負荷をかけられ、相応の対価はなく搾取される。その資本主義の「しんどさ」から脱却するために、仏教の視点が支えてくれるかもしれない』。現代の資本主義の矛盾や行き詰まりを喝破して、「生きやすくするにはどんな心の持ちようが必要か」の、仏教の教えの示唆です。講師はそのような投げかけをして、前回の講義は終わりました。

仏教とは何かをテーマに、継続的に開催されているその勉強会に私は参加してきました。その講師は49歳、その方の略歴です。佛教大学の仏教学科卒業後、ネパールのカトマンドゥへ留学し、約8年間チベット仏教僧院に滞在。五体投地20万回など、過酷な前行を2回成就させ、チベット仏教ニンマ派の伝える密教の教えであるゾクチェンの伝授を受ける。帰国後、チベット仏教の叡智を美術や教育を通して伝える、仏教文化コミュニケーターとして活動している。[前行とは、準備の修行]

小学生の頃よりお寺巡りが趣味の子供で、「人の幸せ」に関心を持ったそうです。中学生の時、ヘルマン・ヘッセの著「シッダールタ」を読み、仏教的生き方に共感して佛教大学に進み、そこでチベット密教に興味を持ち、想いを繋げ遂には、ネパールへ留学・修学を果たした方です。そのチベット仏教は原始仏教にいちばん近いとされています。[「シッダールタ」ヘッセの著書は、1922年に出版された長編小説。釈迦の出家以前の名前を借りて、求道者の悟りの境地に至るまでの苦行や経験を描く]

資本主義の「しんどさ」から脱却するのは、仏教の視点である。問題提起をされたまま、よく理解出来ず、ぽっかりと穴が開いてしまいました。イギリスで資本主義が始まったのは19世紀初め、日本では明治維新からと言われています。しかし、その資本主義がしんどくなっている。その歪みの解決は遥か2500年前からある仏教にヒントがある。この考え方に同調し解説する本はないかと探したところ、松波龍源著『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』の本に出逢いました。以下その本の序文です。

 本書を手に取ってくださった方は、ご自身の生き方や、私たちが生きる社会に心もとなさを覚え、何かしら「今のままではいけない」と感じておられるのかもしれません。
 現代社会は物質面での豊かさがひと通り満たされ、ずいぶん前から「心の時代」といわれています。ここ数年の世の中の動きを見ると、いよいよ本格的に、時代は変革期に突入したようです。社会のあり方が変わるのですから、不安になるのは当然です。そのとき生きる指針になり得るものの一つが、仏教なのではないかと私は考えています。
 仏教は、キリスト教、イスラム教と並んで世界三大宗教といわれます。日本では葬式や法事、寺参りなど、古くから人々の生活に根ざした慣習のように位置づけられています。
 しかし私は、仏教を宗教や慣習という枠に押し込めるのは、少し違うのではないかと感じるのです。じゃあいったい何なのか。それは、人の生き方です。哲学といってもいいでしょう。
仏教の開祖である釈迦牟尼(ゴータマ・シッダールタ)は、人間が「どのように考え、どのように行動すれば心豊かに生きられるのか」を、人生を懸けて考え抜いた人でした。
 その教えを一言で表すと、「よく考えなさい」です。何かに思考や生き方を預けることなく、自分自身でよく考え、その時々の状況に合わせていく。「これを信じよ」「こうしなければいけない」というものではありません。私が仏教を「宗教と少し違う」と思う理由は、ここにあります。
 現代は混迷の時代といわれます。不安定な世界情勢、テクノロジーによる急な社会の変化、資本主義の限界...。今まで絶対的であった資産やキャリアの価値が揺らぎ始めて、先が見えないと感じることがあるでしょう。
 そんなときに道を切り開くヒントを与えてくれるのが、哲学としての仏教です。釈迦牟尼が考えた人間・世界のあり方を現代向けにアップデートし、自分自身や社会に実装すれば、変化の激しい時代もしなやかに生きられる。むしろこんな時代にこそ、仏教の真価が発揮されるのかもしれまん。
 
この本にある松波龍源さん(45歳)の略歴です。僧侶·思想家。実験寺院寳幢(ほうどう)寺僧院長。大阪外国語大学(現:大阪大学)外国語学部卒。ミャンマーの仏教儀礼を研究するうちに研究よりも実践に心惹かれ出家。現代社会に意味を発揮する仏教を志し、京都に「実験寺院」を設立。学生・研究者・起業家・医師・看護師などと共に「人類社会のアップデート=仏教の社会実装」という仮説の実証実験に取り組んでいる。
 
人々の苦しみを取り除くという思想のもとに登場したのが仏教です。当時の世相をみて釈迦牟尼は苦しみという事象に正面から向き合いました。そして人々に苦しみに向き合うための知恵を授けました。松波さんは住職ですが、動画などを観るとおおよそ僧侶らしくありません。釈迦牟尼が志した仏教本来の役割を現代に蘇らせようと、その目的で実験的な寺院を運営している方なのです。次回以降この本を題材に、「ポスト資本主義と仏教」について考えてみたいと思います。   ~次回に続く~




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オットーと呼ばれる男(その5)

2024年11月09日 06時07分33秒 | Weblog
民藝劇団による「オットーと呼ばれる男」の、劇のエピローグです。
一人の検事が男の上申書について言及している。逮捕されたオットーに、高校・大学時代の友人でもある検事は、転向手記を書くことを勧める。「共産主義者としての信念が実に見事に論理的に構築してあって感心したが、君の行動は少し違うような気がする。論理的整合性にこだわるあまり本音がでていない」。本当の気持ちを書いてみないかと誘うが男は無言である。
次に一人の弁護士が現れ「君のやったことは愛国的行為ととれるが、そういう手記を書くべきだ」と、勧める。一方、弁護士はオットーの売国的行為を憎むとしながらも、「憂国の至情が動機であることに打たれて、弁護することを決めた」と、告げる。やはり男は応えない。
やがて男は、これだけのことはいえると重い口を開く。「自分はオットーという外国人の名前を持つ正真正銘の日本人だった。そしてそのようなものとして行動してきたことが決して間違っていなかった、ということだ」。

劇中に出てくる転向手記の「転向」について、改めてここでふれます。この転向の意味は、今までの方向、方針、進路、職業、好み等から変えることです。劇中で使われているのは、思想や政治的な主張や立場の変更、特に弾圧により共産主義や社会主義の立場を放棄することです。戦前、ロシア革命やドイツ革命で帝政国家が倒されると、社会主義思想が高揚しました。

日本では1922年に、日本共産党が非合法のうちに結成されます。しかし、政府は普通選挙の実施と引き換えに、1925年治安維持法を制定して、これらの動きに対抗します。第1回普通選挙の後、その治安維持法を行使して、共産主義者らの一斉検挙がおこなわれることになります。

1928年で検挙された日本共産党労働派は、獄中転向第一号となります。1933年には、日本共産党委員長の佐野学は鍋山貞親とともに獄中から転向声明を出します。ソ連の指導を受けて共産主義・社会主義運動をおこなうのは誤りであり、今後は天皇を尊重した共産主義・社会主義運動をおこなうという内容でした。

この声明は世間や獄中にあった運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させました。1933年9月時点では、治安維持法違反容疑で拘束されている未決被告1370人のうち30%、既決372人のうち36%が転向を表明していました。圧迫や拷問に耐えかねた偽装転向、仮装転向と称されるものもありました。日本共産党などの活動は大衆との結びつきが薄く、インテリ層を中心としたものであったため、活動が大衆の生活や要求と遊離していることに悩み、運動から離れた者も多くあったとされます。

満洲事変を経て1932年満洲国が建国されます。この事変により日本は国際的には孤立への道を歩みますが、国内的にはそれまでの不況が改善され経済は活況を呈してきます。また労働者の賃金も上がり、生活に改善の兆候も見えてきました。転向が増えたのはこうした状況と無関係ではありません。

社会主義思想を支える根底には貧困があります。「貧困をなくすには社会主義による革命が必要」と云うのがその内容なのですが、こうした考えに依らずとも生活が向上する現実が表れた訳ですから、そうした思想から離れる人が自然と増えて行ったのも事実です。戦後の日本にも労働運動や左翼思想が高まった時代がありましたが、高度経済成長によりそうした運動が低迷していったのと同じ現象です。

劇の話しに戻りますが、つまり共産主義者ではないのに、オットーは転向に応じなかったのす。ところで、エピローグに登場する弁護士役の方は、境賢一さんとおっしゃいます。1957年生まれ熊本市出身。この方と5~6年前に出逢いました。江戸川区西葛西の居酒屋で、友人と飲んでいる時に、隣にいた境さんが話し掛けてきました。西葛西の住人だとのこと。近々開演する劇に自分が出演するので、是非観に来て下さいとのことでした。

以来境さんが出演される民藝の芝居は、必ず案内をもらって、観させてもらってきました。民藝の芝居の間が開く時、境さんは、お代は投げ銭方式で一人芝居を開催されます。今年の8月も習志野の公民館で開催した、海音寺潮五郎原作の「田原坂」の一人芝居を観ました。20分程の落語を披露した後、約40分にわたり覚えたセリフを淀みなく語る芝居は熱演でした。

氏との出逢いで民藝を知り、その芝居から色々な過去の社会問題を学びました。戦前の日本の置かれている体制や世界情勢の中で、何が正しく何が間違いか、判断が難しい時代、それでも日本の未来を見据えようとした、そんなオットーこと尾崎秀実がいたことに感動を覚えました。

 右端が弁護士役の境さん。  

 素顔の境さん。
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オットーと呼ばれる男(その4)

2024年11月02日 07時19分15秒 | Weblog
これからの文章は、私が書いたものではありません。ネット上や演劇のパンフレットから、「オットーと呼ばれる男」やそれに関連する史実の解説や見解についてまとめたものです。削除・加筆・構成は私の主観です(劇と史実が交錯するかもしれませんが、適宜解釈下さい)。

「祖国を救うのではない、世界を救うのだ」と語るジョンスンに、「世界も大事だが、先ず祖国を救うのだ」と語るオットー。二人の主張に違いがあります。「日本を救えるのなら、その為に罰せられることに僕はむしろ誇りを感じるだろう」と、言い切るオットー。二人の男の生き方を対峙させつつ、しかしその間に通う友情をも描く劇である。

ジョンスンは、「世界が変わらなければ日本も変わらない」といって、あくまでも日本の改革にこだわる尾崎の考えを、国粋主義などという極論を交えて翻意させようとする。「世界共産主義とその中心であるソ連のために共に働こう」という、ジョンスンの誘いである。オットーの答えは、「自分は日本人である、オットーと呼ばれる日本人である」と、いうものだった。つまり「日本をよりよく変えることは自分にしかできない、それがひいては世界を変えることになる」と、オットーは言い切る。

木下順二はあくまでもこれをフィクションとして著わした。あの当時において、「正真正銘の日本人」が「オットーという外国人の名前」を持つことで、なおかつ正常な精神を保つことができた、あの時代にそのような立場がこの男によってのみ成立したということを描きたかったのだろう。従って、この劇は木下順二の尾崎秀実の批評ともいうべきものである。

その主旨は、自分が帰属している世界に在りながら、そこを出てもう一つ別の次元からその世界を客観的に眺めてみる、そういうことができるかどうかということである。共産主義者ならコミンテルンの利益に奉仕するのは当然のことで、ゾルゲはドイツ国籍を持ちながら何の疑いも躊躇もなく国際共産主義のために、すなわち正しいと信ずる「観念」のために働いた。むしろ自分はその「観念」にこそ帰属していることに自覚的であった。

しかし、尾崎は日本人であることを捨てよとはしなかった。ゾルゲがモスクワに誘ったが承諾せず終わった。共産主義について十分すぎるほどの理解を示しながら、尾崎はゾルゲが帰属している「観念」の側に行こうとはしなかったのだ。そのくせ、十分すぎるほどの協力をするということは自分の帰属している世界すなわち祖国を裏切ることになる。裏切りではないという自信はどこからくるのか? つまり自分はそこには「いない」と考えている。では何を正当化の根拠にこの男は行動していたのか? どこに帰属しているという自覚を持って、精神のバランスを保つことができたのか?

それは、おそらく日本の未来である。オットーとはその未来における男の名だった。男は、自分がいま帰属している世界にではなく、その世界の「未来」にこそ帰属していたのである。男にはこう在ってほしいという日本の未来が見えていた。そこへ着実に近づいていると思った矢先に、歴史という大河に飲み込まれたのである。

ジャーナリスト尾崎が、ある種の個人的な使命感に駆られて国家の中枢、近衛内閣の嘱託になりながら、その内部である種の反抗をする。同時に家庭を愛してやまない日本人でもあったという、いわば近代化された人間像をオットーに投影した形である。

木下は、オットーに、自らの仕事の成否は「日本の支配層の力」をいかに利用するかという点にかかっている、と言わせている。たしかに尾崎は、中国問題専門家として第一次近衛内閣の内閣嘱託を命ぜられて以来、第二次、第三次内閣下でも首相官邸では、政府の最高機密の方向性を知りうる立場にいた。尾崎の「日本の支配層の力」とは。

中国問題に関する内閣のブレインとも言えた尾崎の持論は、「日中間に長期の戦争状態が続けば、民族問題と農業問題が浮上し、そうなると日本・中国・東南アジアを貫く同時的解決が不可となる」、である。これは一見すると大東亜共栄圏の必然を説いているようにも読めるが、日本の戦争した場合の敗北や中国の共産化を、遙かに見通したアジア全体を貫く異なる民族問題の解決策にも通ずる展望とも読める。

これは逮捕後の尾崎が、司法察官尋問調書で述べていたこと、「日、ソ〔ソ連]、支[中国]、三民族国家の緊密友好なる提携に依る東亜諸民族の解放」こそが自らの目標だったとの供述と矛盾しない。尾崎が捧げた忠誠は、表の任務と裏の任務で変わるところはなかったと言える。

以上ここまでが、他者から借りてきた文章です。「日ソ支の国家の緊密なる提携に依る東亜諸民族の解放」これこそが、尾崎の持論だったのです。尾崎が捧げた非戦争の忠誠は、その通り表と裏の任務で変わることはなかったのです。戦争を伴った大東亜共栄圏構想とは違う、尾崎自身の目指す思想だったのです。

築き上げてきた中心があって、その軸に信念を乗せる。それを確かめるために両極の情報を集めた尾崎ではないでしょうか。国粋か売国かの、二つの物差しで判断してはならないと思いました。だから捉えられてもなお、無念はあったとしても、信念の世界で心は安寧としていたのです。

表現はよくないですが尾崎はスパイを装い(二重スパイ)、戦争を回避することを希求したのです。ソ連と中国と日本にくい込まない限り、それぞれの国策は知り得なかったのです。染まりながら、どっぷりとは染まらない。真の情報を求め続けたオットーこと尾崎秀実の、苦悶が浮かび上がってきます。   ~次回に続く~ 

 劇中のオットー(右側)とジョンスン
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