子供は、未熟で無知であるが故のデリケートな、
その年齢ならではの繊細な感性をもっている。
大人は、成熟したが故のタフな、
大概のことは飲み込むか流すかしてしまえる、
ある意味での鈍感さをもっている。
例えば、
「豚さんも牛さんも殺されてお肉にされちゃう、かわいそう」
と、
「家畜というのはそういうもので、肉を食べないわけにもいかないし、考えても仕方ない」
という対比。
思えば、原発も環境問題も戦争も差別も、
あるいは政治の無体や会社組織内の理不尽な諸々も、
みんなこうして「考えても仕方ない」で、
思考を停止させてしまうことが「大人しぐさ」かのようだ。
どんな疑問も不満も屈託も鬱屈も「知識」と「理屈」にすり替えて、
「わかった気」になってしまう。
自分はそうして呑み込んでいるのだからと他人にも、
そしてもちろん子供にも無意識にそれを強要する。
それは「常識」でしょ、と言いながら。
でも、子供たちにはただの同調圧力でしかない。
なぜ黙らなければならないのか、承服できない。
何も大人だけが悪者だと言うわけではない。
大人だって、思うところがないわけじゃない。
でも大人は、わかってはいても生き延びていくために、
心を殺さなくてはならない時がある。
生きるというのは悩むということだ。
生老病死に四苦八苦、怨憎会苦から求不得苦、
愚痴も逃避も許されず、ありとあらゆる責任にがんじがらめにされて、
悩み苦しみ迷い考えなきゃいけないことが山ほどある。
とるに足りない小さなことや、
個人の手に負えないような大きすぎることで、
いちいち喜んだり怒ったり悲しんだり傷ついたりしていられない。
自分に直接影響しない他人事に、
同情したり首を突っ込んだりしている暇も余裕もない。
大人がそうしてタフに生き延びて、家族を守っているからこそ、
子供は些細なことに感じ入ったり傷ついたり、
誰かに同情を寄せる余裕があるのかもしれないよね。
授業で扱った国語の文章題に付随して、そんな話をしていたら、
「じゃあ大人と子供の中間が居ればいいんだね」
という声が挙がった。
「子供の心を持ったまま大人になれば、両方の気持ちがわかるんじゃない?」
という声も。
そうだね。
まったくそう思う。
教育業にはそんな大人がたくさんいて欲しいよな。
そう思いながら聴いていると不意に、別の子がポツリと呟いた。
「子供と大人の中間…先生(僕のこと)じゃん?」
「ああー!そーだねー!こんな感じかー!」
「学校に先生いたら全然違うよねー」
45歳の理屈っぽいふざけたおっさんが、
まさかそんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかったので、
柄にもなく照れちゃって、気の利いた返しができなかったんだけど、
ありがとう、たいへん光栄です(^^)
何を隠そう、僕は成人式出ていない(起きたら終わってた)ので、
まだ未成年なのです(キリッ
大人たちには青臭いと言われ続けた僕の酸味は、
子供たちにはイイ感じのスパイスになるようで、
僕にとっては最上級の褒め言葉です。
尊敬するとか言われるとむず痒いけど、
味方になってくれると言われたらすごく嬉しい。
…でも、残念ながらたぶん学校では生きていけないと思います。
……校長とか他の先生とかとすぐケンカになっちゃうから…。