いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

「面倒」は敵だ

2007-10-29 20:48:34 | 特選いぶたろう日記
希望や活力にあふれた生活、意義ある毎日、充実した人生。
そういうものを求めるのなら、「メンドクサイ」はテキだ。
なんでそんな細かいことまで、なんでそんなしょっちゅう、
いますぐですか、行かなきゃですか、話さなきゃいけませんか。
段取りきっちり考えて、細大漏らさず準備して、確認して、連絡して。
誰もが認める、物事を失敗させない必須条件なワケだけど、
誰もが感じる、「うへーめんどくせー」と「もーいーじゃんべつにー」。

そして一般的に、トシをとるごとにこの傾向は強くなっていく。
たしかに体力的な要因も大きいだろう。
でも、頭を回転させることも、心の動きさえも、
「面倒」に感じられて、次第に鈍くなっていくようなのである。
トシをとったからそうなるのか、そうなると人はトシをとるのか、
まだ僕には判らないけれど、
少なくともラクに思える方へ安易に流れていくことは避けようと心がけている。

気づくと、色んな物事が面倒で億劫に感じられるようにもなった。
アズキの散歩だって、正直メンドクサイ。
でも、アズキの訴えかけるような眼差し(感情的要因=心)と、
運動不足の強迫観念(論理的要因=頭)とが僕を衝き動かす。
そして出るまでは非常にメンドクサイのだが、
思い切って外へ飛び出してみると意外と気持ちよかったり(体感的要因)する。

これはいつでも何でもそうだ。
休日に朝寝を切り上げ、出掛けるのはメンドクサイ。
しかしえいっと目を覚まして顔を洗い、着替えて飛び出してしまえば、
その日1日をとても有意義に過ごせるのは約束されている。
ここでいう「意義」の有無は、客観的な尺度のあろうはずもなく、
要するに「自分でそう感じられるかどうか」というものにすぎない。

で、行動を起こした休日というのはきまって、1日の終わりに満足している。
もちろん疲れることもあるけれど、少なくとも、
家に1日中こもって、基本だらだら寝つぶして、夜の8時か9時頃に、
「あー、休日なんてあっというまだなー、何にもできなかったなー」
「でも、ま、1日じっくり休めたからいっかー」
なーんて、こぼしたりセルフでフォロー入れたりしているよりは、いい。

「メンドクサイ」が先立つのは、やはり心の老化であるような気がする。
とするなら、アンチエイジングは何か。
いつまでも自分のもっているものを全てとせずに、
アンテナを張りつづけることだろう。
決めつけない。思いこまない。とりあえず見てみる。聞いてみる。触ってみる。
ダメだったらダメで、無駄なことだとは思わない。
面白いと思ったら行動に移す。
よく考え、まとめ、感じたことは発言する、文字にする。
そのためにはもちろん頭も身体も鍛えておく必要がある。
メタボ予防で半ば強迫的に、義務的に運動するよりも、
やってみたら楽しいぞこりゃ、というアプローチの方がいい。
頭を鍛えるには書物だ。読みたい本は山ほどある。
今日も本屋で1万円ほど本を買い込んでしまったが、
やはり今以て思索のプロ達の文言に触れると感嘆する。
こういう見方、書き方があるのかと溜息が出る。
その感じがウマイ料理を味わっているようで、たまらなく好きだ。

そしてもう一つ、忘れちゃいけないのが心でしょう。
これはもうとにかく、人に会うこと。
人と話をすること。
これをめんどくさがってると人間、腐る。
メールじゃなくて、ネットじゃなくて、
そういう片側交互通行の、都合の良いコミュニケーションじゃなくて。
やはり顔を合わせること。
誰もがその重要性は認めるけれど、実際やるとなると面倒なもんだ。
でも、僕は積極的にやっていきたいと思う。
そうでないと、また人間観が「日本」「世間」「社会」という漠然とした対象に歪められ、
人間嫌いの芽が出てきてしまいそうだ。

ふと思う。
僕は親父を思い出す時がある。
かれこれ数年会っていないが。
今、何を考え、何を感じ、何をしているのか。
慕う気持ちはゼロだが、自分の原料として(笑)、興味は尽きない。
しかし、彼にはそういうことはあるのだろうか。
つまり、自分の分身とも言える僕のことを思い出すことが。
どうも、ないような気がする。
彼も実はメンドウクサガリだからである。
高校や大学の卒業、バンドの発展・解散、就職、
これら人生の節目において僕の親父はまるで僕に興味を示さなかった。
忘れてはいないだろうが、面倒なのだと思う。
僕という存在に関与することを通じて、
自分が過去に犯したあまり格好の良くない行いの数々を思い出すことが。
金額で言えば人並み以上のものを僕に投資はしただろう、
しかしそれだけじゃあ残念ながら親としてはアカ点だ。
強いて言えば彼の軌跡はまんま僕の反面教師として生きている。
それが遺伝子以外で彼が僕にくれた、親としての唯一の贈り物かもしれない。
なんだか、文章にしてみるとあまりに哀しい父子関係だ(笑)。

僕は僕で、いまさら親父に「復讐・問責」するのは『面倒』なので(笑)、
いずれ僕が成功を収めた時にでも、孫でも連れて、
しれっと会いに行ってやろうかと思っている。

面倒くさがらずに。
Comments (3)
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