僕は、箸の持ち方がオカシイ。
鉛筆の持ち方もオカシイ。
ここでいう「オカシイ」は「大多数の人と違う」というだけだ。
別にそのことで手が痛いわけでもないし、
食事に困っているわけでもない。
ぽろぽろこぼしてしまうなんてことも、うまくつまめないなんてこともない。
なのに、世の中にはそれをとやかく言う人というのがいる。
僕はその手合いがとても嫌いだ。
僕にとってみれば、正しいとされる持ち方こそが窮屈で仕方ない。
なぜその持ち方が正しいのかもよくわからないし、根拠がない。
自分の好きなように、食べやすいように持てばいいじゃないかと思う。
それが自分の美意識に合わないからと言って、
ことさらに見下した口調でたしなめる、そういう奴が嫌いだ。
彼らは言う。
「恥ずかしくて一緒に食事したくない」
僕は思う。
「気分が悪いからお前なんかとメシ喰いたくない」
ことは箸や鉛筆にとどまらない。
パスタの食べ方、そばの食べ方、寿司の食べ方。
お好み焼きの焼き方、もんじゃ焼きの焼き方、及び食べ方。
冠婚葬祭のマナーとタブー、文字の書き順、言葉のアクセント、英語の発音。
いずれも特に根拠もなく形式をでっち上げただけの様に思うし、
そもそも日常の関係の中でそんなことをとやかく言うことでしか
コミュニケーションがとれない人を不憫に思う。
食い物は食べやすいように美味しいように食べればいいと思うし、
その際、人の食欲を失わせない程度に音や見栄えに気をつければいいだけの話だ。
文字は書きやすいように書けばいいし、しゃべり方はその人の個性だ。
書き崩す文化がなければひらがなもカタカナも生まれなかったし、
同じ日本の中で味わいのある方言が多くあるように、
英語圏でも国の数だけ英語が存在する。
文化だ何だと大げさな話に発展することもあるが、
文化なんてものは人の数だけ存在していい。
どこかの誰かが勝手に決めたひとつの方法の元に、
個々人の自由な発想を塗りつぶしてしまおうというのは何とも恐ろしい。
価値基準がその人の中にないというのは、哀れなことだ。
誰彼がこう言ってたからとか、本に書いてあったとか、これが常識だとか、
そういうことでしか価値が計れない人の言うことに僕は説得力を感じない。
結局、感じること、考えることを放棄して、
大多数の人の流れに乗って思考停止を重ねた結果に過ぎないからだ。
世の中と自分とを絶えず比較して、悩んで悩んで悩み抜いて、
そうして辿り着いた結論と、それに基づくその人のスタイルというもの、
それが一番自然だしカッコいい。
野茂やイチローが最高にカッコいいところは、
あの封建的な日本野球界の中で、
いずれも従来の指導の枠の中では異端とされたスタイルを貫き通し、
そうして結果を出したことだ。
いまや誰も彼らにフォームをどうこうとは言えまい。
しかし、彼らが箸の持ち方が「オカシ」かったらどうなるんだろうか。
やっぱりそこは言われちゃうんだろうか。
それとも
「さすがイチロー、箸の持ち方も個性的」
とかになっちゃうのだろうか。
むしろ逆に、
「これだけの人が箸もちゃんと持てないなんてミットモナイ」
なんて言われちゃうんだろうか。
「しょこたん」は「ブログの女王」として位置づけられた今や、
つづる言葉がいちいち「個性的だ」「斬新だ」ともてはやされる。
『アサッテの人』の諏訪哲史もそうだ。
しかし、発信源がその辺の女子高生ということになると
昨今の若者は言葉が乱れて…ということになる。
この差異はいったい。
要するに、権威ということだと思う。
あとひとつは「世間様」かな。
権威や世間様の前には思考停止あるのみなのだ。
品位も格調も実用性も関係ないのだ。
だからきっと僕はそれがイヤで仕方ないのだと思う。
イチローや野茂が実績で自分のスタイルを認めさせたように、
箸界や鉛筆界でも実績を認めてもらえないだろうか。
「日本新:6211つまみ機会連続無失策」とか、
「世界新:10356文字筆記機会消しゴム使用なし」とか。
そうすると僕が権威になってしまうのだろうか。
鉛筆の持ち方もオカシイ。
ここでいう「オカシイ」は「大多数の人と違う」というだけだ。
別にそのことで手が痛いわけでもないし、
食事に困っているわけでもない。
ぽろぽろこぼしてしまうなんてことも、うまくつまめないなんてこともない。
なのに、世の中にはそれをとやかく言う人というのがいる。
僕はその手合いがとても嫌いだ。
僕にとってみれば、正しいとされる持ち方こそが窮屈で仕方ない。
なぜその持ち方が正しいのかもよくわからないし、根拠がない。
自分の好きなように、食べやすいように持てばいいじゃないかと思う。
それが自分の美意識に合わないからと言って、
ことさらに見下した口調でたしなめる、そういう奴が嫌いだ。
彼らは言う。
「恥ずかしくて一緒に食事したくない」
僕は思う。
「気分が悪いからお前なんかとメシ喰いたくない」
ことは箸や鉛筆にとどまらない。
パスタの食べ方、そばの食べ方、寿司の食べ方。
お好み焼きの焼き方、もんじゃ焼きの焼き方、及び食べ方。
冠婚葬祭のマナーとタブー、文字の書き順、言葉のアクセント、英語の発音。
いずれも特に根拠もなく形式をでっち上げただけの様に思うし、
そもそも日常の関係の中でそんなことをとやかく言うことでしか
コミュニケーションがとれない人を不憫に思う。
食い物は食べやすいように美味しいように食べればいいと思うし、
その際、人の食欲を失わせない程度に音や見栄えに気をつければいいだけの話だ。
文字は書きやすいように書けばいいし、しゃべり方はその人の個性だ。
書き崩す文化がなければひらがなもカタカナも生まれなかったし、
同じ日本の中で味わいのある方言が多くあるように、
英語圏でも国の数だけ英語が存在する。
文化だ何だと大げさな話に発展することもあるが、
文化なんてものは人の数だけ存在していい。
どこかの誰かが勝手に決めたひとつの方法の元に、
個々人の自由な発想を塗りつぶしてしまおうというのは何とも恐ろしい。
価値基準がその人の中にないというのは、哀れなことだ。
誰彼がこう言ってたからとか、本に書いてあったとか、これが常識だとか、
そういうことでしか価値が計れない人の言うことに僕は説得力を感じない。
結局、感じること、考えることを放棄して、
大多数の人の流れに乗って思考停止を重ねた結果に過ぎないからだ。
世の中と自分とを絶えず比較して、悩んで悩んで悩み抜いて、
そうして辿り着いた結論と、それに基づくその人のスタイルというもの、
それが一番自然だしカッコいい。
野茂やイチローが最高にカッコいいところは、
あの封建的な日本野球界の中で、
いずれも従来の指導の枠の中では異端とされたスタイルを貫き通し、
そうして結果を出したことだ。
いまや誰も彼らにフォームをどうこうとは言えまい。
しかし、彼らが箸の持ち方が「オカシ」かったらどうなるんだろうか。
やっぱりそこは言われちゃうんだろうか。
それとも
「さすがイチロー、箸の持ち方も個性的」
とかになっちゃうのだろうか。
むしろ逆に、
「これだけの人が箸もちゃんと持てないなんてミットモナイ」
なんて言われちゃうんだろうか。
「しょこたん」は「ブログの女王」として位置づけられた今や、
つづる言葉がいちいち「個性的だ」「斬新だ」ともてはやされる。
『アサッテの人』の諏訪哲史もそうだ。
しかし、発信源がその辺の女子高生ということになると
昨今の若者は言葉が乱れて…ということになる。
この差異はいったい。
要するに、権威ということだと思う。
あとひとつは「世間様」かな。
権威や世間様の前には思考停止あるのみなのだ。
品位も格調も実用性も関係ないのだ。
だからきっと僕はそれがイヤで仕方ないのだと思う。
イチローや野茂が実績で自分のスタイルを認めさせたように、
箸界や鉛筆界でも実績を認めてもらえないだろうか。
「日本新:6211つまみ機会連続無失策」とか、
「世界新:10356文字筆記機会消しゴム使用なし」とか。
そうすると僕が権威になってしまうのだろうか。