我が家には鯉がいた。
かつてMCで話し、日記でもとりあげた例の鯉だ。
「いた」と書いたのにはもちろん理由がある。
先日の朝、ついに死んでしまったのだ。
ここ最近動きが鈍く、餌もあまり食べなかったのだが、
冬の水温が低い時期はそんなもんだと聞かされていたので、
あまり気にもかけないでいたし、ましてや急に死ぬなんて思いもよらない。
まさかと思ってつついてみたのだが反応はなかった。
2年ほど前に金魚とまちがえて買ってきた白い魚は、
今では30センチになろうかという大きな体を、
その倍ほどしかないウチの水槽の底に窮屈そうに横たえていた。
全く以て申し訳ない話だが、どんどん大きくなる奴には、
精一杯用意した大きな水槽もすぐに間に合わなくなってしまった。
我が身に照らして考えてみれば、
トイレ程度のスペースに空気を詰めて閉じこめられ、
深海に投げ込まれたようなものである。
死ぬまでそういう世界しか知らなかったかと思うと辛いが、
ほんとに、容赦なく大きくなっていった。
玄関から誰かが入ってくると驚いて跳ねるのだが、
その都度びちゃんと水が溢れるんである。
やがて安心すると水面に顔を出して餌をねだるのだ。
こんなに可愛い魚類はいなかった。
どこかにぶつけたか、
独特のひん曲がって片方に垂れたクチを誇らしげにしている奴に、
「長さん」と名付けたのは誰だったか。
名前が付いてしまってはもう愛着もひとしおである。
家畜業者はまちがっても名を付けないという。
普段「食」の対象でしかない魚とはいえ、同じ生命ある仲間、
見方一つでこんなに愛おしく思えるものかと思う。
死んだときも無性に悲しかった。
魚の死体などそれこそ食卓で見なれているはずが、直視できないのだ。
ポンプを止め、物音のしなくなった玄関はただ寂しい。
せめて最後くらい広いところへ還してやろうと、
近所の川を弔いの場所に選んだ。
夜中の親水公園に出向き、小橋の中央から、
ビニール袋に入れた「長さん」を水面に放ってやる。
川の淀みに揺られる奴の姿が、ふと泳ぎだしたかのように見えた。
もしそうだったならどれほど救われたか。
もう奴の尾びれが力強く水を掻くことはなかったが、
それでも不思議と、最後に顔をこちらへ向けていた。
溜まっていたガスがあの独特の口からぽこぽこと小さな泡を立てる。
それが俺には「さようなら」を言ってるように見えたのだ。
やがて奴は静かに、静かに見えなくなっていった。
不覚にも、目頭が熱くなった。
何を大げさなと思われる人の方が多いだろう。
俺もまた他人事であれば同じ感想であったに違いない。
しかし人は時として、理屈に合わない感傷に呑み込まれる生き物なのだ。
例えそれが俺の思いこみに過ぎないとしても、俺にとっては真実なのだ。
生命とは本当に儚い物だ。
科学技術が飛躍的な進歩を遂げた現在、
人類は月へ行き、火星を調べ上げ、生命の設計図DNAすら暴き立てている。
そのくせ、小魚一匹、蚊一匹の命すら作り上げることは出来ないのだ。
別に博愛主義者のように極端な不殺生を謳うつもりはないが、
もろく儚い生命が形作るこの世の中の無常さについて、
考えずにはおれない。
我々はどこから来て、どこへ還るのだろう?
そしてこの世にもあの世にも玄関があるのだとしたら、
その風景はどんなだろうか?
あの鯉はそこにいるだろうか?
かつてMCで話し、日記でもとりあげた例の鯉だ。
「いた」と書いたのにはもちろん理由がある。
先日の朝、ついに死んでしまったのだ。
ここ最近動きが鈍く、餌もあまり食べなかったのだが、
冬の水温が低い時期はそんなもんだと聞かされていたので、
あまり気にもかけないでいたし、ましてや急に死ぬなんて思いもよらない。
まさかと思ってつついてみたのだが反応はなかった。
2年ほど前に金魚とまちがえて買ってきた白い魚は、
今では30センチになろうかという大きな体を、
その倍ほどしかないウチの水槽の底に窮屈そうに横たえていた。
全く以て申し訳ない話だが、どんどん大きくなる奴には、
精一杯用意した大きな水槽もすぐに間に合わなくなってしまった。
我が身に照らして考えてみれば、
トイレ程度のスペースに空気を詰めて閉じこめられ、
深海に投げ込まれたようなものである。
死ぬまでそういう世界しか知らなかったかと思うと辛いが、
ほんとに、容赦なく大きくなっていった。
玄関から誰かが入ってくると驚いて跳ねるのだが、
その都度びちゃんと水が溢れるんである。
やがて安心すると水面に顔を出して餌をねだるのだ。
こんなに可愛い魚類はいなかった。
どこかにぶつけたか、
独特のひん曲がって片方に垂れたクチを誇らしげにしている奴に、
「長さん」と名付けたのは誰だったか。
名前が付いてしまってはもう愛着もひとしおである。
家畜業者はまちがっても名を付けないという。
普段「食」の対象でしかない魚とはいえ、同じ生命ある仲間、
見方一つでこんなに愛おしく思えるものかと思う。
死んだときも無性に悲しかった。
魚の死体などそれこそ食卓で見なれているはずが、直視できないのだ。
ポンプを止め、物音のしなくなった玄関はただ寂しい。
せめて最後くらい広いところへ還してやろうと、
近所の川を弔いの場所に選んだ。
夜中の親水公園に出向き、小橋の中央から、
ビニール袋に入れた「長さん」を水面に放ってやる。
川の淀みに揺られる奴の姿が、ふと泳ぎだしたかのように見えた。
もしそうだったならどれほど救われたか。
もう奴の尾びれが力強く水を掻くことはなかったが、
それでも不思議と、最後に顔をこちらへ向けていた。
溜まっていたガスがあの独特の口からぽこぽこと小さな泡を立てる。
それが俺には「さようなら」を言ってるように見えたのだ。
やがて奴は静かに、静かに見えなくなっていった。
不覚にも、目頭が熱くなった。
何を大げさなと思われる人の方が多いだろう。
俺もまた他人事であれば同じ感想であったに違いない。
しかし人は時として、理屈に合わない感傷に呑み込まれる生き物なのだ。
例えそれが俺の思いこみに過ぎないとしても、俺にとっては真実なのだ。
生命とは本当に儚い物だ。
科学技術が飛躍的な進歩を遂げた現在、
人類は月へ行き、火星を調べ上げ、生命の設計図DNAすら暴き立てている。
そのくせ、小魚一匹、蚊一匹の命すら作り上げることは出来ないのだ。
別に博愛主義者のように極端な不殺生を謳うつもりはないが、
もろく儚い生命が形作るこの世の中の無常さについて、
考えずにはおれない。
我々はどこから来て、どこへ還るのだろう?
そしてこの世にもあの世にも玄関があるのだとしたら、
その風景はどんなだろうか?
あの鯉はそこにいるだろうか?
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