お寺さんぽ Ver.03

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戦国最強軍団を止めた武将 (村上義清1)

2011年02月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)※写真」です。

率いる軍勢は”戦国最強軍団”と呼ばれ、恐れられていた甲斐の大将「武田晴信」
軍神「上杉謙信」と互角の勝負をし、天下統一にひた走る「織田信長」の心胆を寒からしめ彼ですが、生涯で大敗北という屈辱を味わっていたのです。
その相手こそ…今回の主人公「村上義清」なのでした。
ちなみに、上杉・武田が華麗に激突する「川中島合戦」ですが、その切っ掛けを作ったのもこの義清なのでした。
歴史的に凄い人なんですよ、ええ。
(※実は過去に一度やっているんですが、もう少し詳しくなったので新たに書いてお送りしています)

鎌倉時代から続く名門・村上家の末裔。
葛尾城を拠点に勢力を拡大し、一時期は信濃にて最大版図を持っておりました。
甲斐から攻め寄せる「武田晴信」を撃退したものの、策を弄する晴信に戦況は次第に悪化。
越後へと逃れ、軍神「上杉謙信」を頼ってお家再興を目指すこととなるのです。


そんな訳で、「村上義清」は「藤原道長」の四天王にして河内源氏「源頼信」の庶子である、「源義清」から続く一族でした。
信濃村上郷に流罪された「源盛清」
付近に勢力を持ち、その子「源(村上)為国」から村上氏を称することとなるのです。
南北朝から戦国時代の混乱期に、当主「村上信貞」は判断良く「足利尊氏」を支持し、戦功を上げました。
名目上では信濃の支配者であった、信濃守護の小笠原氏と肩を並べるほどの勢力になっていくのです。

なお、信濃国は清和源氏の末裔である、名族・小笠原氏が守護と国司を兼務していました。
しかし、その地域性か国人層は自立傾向。
室町時代頃より小笠原氏はたびたびの反乱に悩まされ、その勢力は衰退していったのです。
逆に、その内紛に乗じた「村上政清」、その子「村上顕国」はじわじわと勢力を拡大。
戦国期になると、中信濃から南信濃の守護家「小笠原長時」、北信濃を統べる「村上義清」という二大勢力となっていたのでした。
他の国人層を併合し、勢力を拡大させていた村上氏。
しかし、彼らを完全な被官にまではできず、戦国初期の武田氏と同様に地盤は不安定だったのです。

そんな「村上顕国」の子「村上義清」が誕生したのは文亀元年(1501)
ちなみに、安芸は「毛利元就」が明応六年(1947)の生まれ。
明応二年(1493)には「明応の政変(めいおうのせいへん)」という将軍家の勢力争いもあり、世が混乱してきたような時代でした。
元服は永正十二年(1515)頃。
父・顕国の実績などがいまいち不明ですが、ともかく家督を相続した義清の時代では、埴科(はにしな)郡を中心に、だいたい六郡(佐久・小県・更級、高井、水内)を領有。
文字通りに北信濃の王者となっていたのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「信濃に攻め入った若き大将」(2/6)


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壮絶・龍造寺四天王 (沖田畷合戦6)

2011年01月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」の決着・その後についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
沖田畷にて、守備陣形で待ち構える「島津家久」
兵力に勝る「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」は序盤から力押しに押していましたが、家久の仕掛けた島津得意の”釣り野伏”の術中にはまってしまったのです。
左右累壁からの攻撃によって先鋒隊が崩されると、縦に細長く伸びていた全軍に影響。
湿地帯で思ったような動きが取れない龍造寺勢は、まるで将棋倒しのように全軍が崩されてしまうのでした。


総崩れとなった龍造寺勢。
囲まれた主だった将、龍造寺四天王の「成松信勝」、「百武賢兼」、「江里口信常」、「円城寺信胤」らも、ことごとく討死。
うち、「百武賢兼」は隆信を逃がすべく急襲の島津勢に向かい、主従四十名がことごとく討死。
「円城寺信胤」は隆信と同じ出で立ちで影武者を務めていましたが、味方が劣勢となる中で
我こそは龍造寺山城守隆信である!
そう名乗って突撃し、討死。
信胤と共に戦奉行を務め、本陣を守って奮戦していた「成松信勝」も名乗りを上げて敵中へと突撃し、主君の跡を追っています。

また、「江里口信常」は隆信の討死後に家久の陣中へと肉薄したものの、ぎりぎりで発見され、その家来に斬られています。
この際、敵将ながら剛直さに感動した家久は、「無双の剛の者、助けよ、助けよ」と皆を制止したものの間に合わず、
子があれば養子に申し受けたい
そう言ったそうです。

肥満のため、合戦では駕籠に乗っていたという総大将「龍造寺隆信」
本陣・背後にての斬り合いを、当初は味方の喧嘩だと勘違いしたそうです。
そう、彼が気付いた頃には、すっかり敵勢に囲まれていたのでした。
それほどの油断があったのですね。
駕籠は六名の配下に担ぎ手をさせて指揮を取っていましたが、最終的には彼らにも見捨てられ、島津方の「川上左京」に討ち取られるのでした。
享年五十六。

こうして、龍造寺勢は当主を失い、また総勢で二千という戦死者を出す大敗となったのでした

右翼にて軍を支えていた重臣「鍋島直茂」
こちらも、中央部隊の壊滅によって総崩れになっています。
なお、龍造寺四天王にも数えられる「木下昌直」は総崩れとなった後に殿軍を務め、直茂の戦線離脱を見届けた上で敵中へと斬り込み、ここで壮絶な討死をしています。
隆信の子「龍造寺政家」が病弱で戦国武将としての才もなく、国政は直茂が代行していくこととなるのでした。




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炸裂・島津得意の”釣り野伏” (沖田畷合戦5)

2011年01月09日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」ほか離反する島原半島の諸豪族を押さえるべく、六万とも五万ともいう大軍をもって進軍する「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」
これに対し、当主「島津義久」に命じられた弟「島津家久」は、わずか三千程度の軍勢で出陣。
龍造寺氏の大軍を打ち破るべく、低湿地の”沖田畷”を決戦場と定めるのでした。


「有馬晴信」の籠もる森岳城に迫る龍造寺勢。
後方には警戒部隊を置き、さらに進軍しています。
この時、「龍造寺隆信」は突如陣変えを行い、”自らの本隊を中央に据えた”と伝わっています。
圧倒的な兵力を有する龍造寺勢は、序盤から力押しに押していました。
対峙した島津・有馬勢でしたが、これに大した抵抗もせず、いかにも崩れたように撤退。
そう、これこそが家久の仕掛けた島津得意の”釣り野伏”だったのです。

計略であると知らない龍造寺勢は、ここぞとばかりに追撃を開始。
先鋒部隊が沖田畷に設けられていた大木戸の付近まで達した頃には、ちょうど軍勢が縦に細長く伸びていたのです。
全体ではともかく、こうなると局地での兵力差は大したものでありません。
ちょうど、桶狭間にて信長が「今川義元」の大軍を破ったのと同じような状態になっていたでしょう。

うっかり誘い出された龍造寺勢。
その側面に、家久の采配によって累壁の左右から鉄砲隊、弓矢隊が攻撃。
細道を進んできて無防備だった龍造寺勢は次々に討ち取られ、また後続部隊も沼地がために思ったように動けず、同様に鉄砲らの餌食となっていくのです。
なお、なかなか軍が進まないことにイラ立った隆信は、
無二無三にかかれ!
そう命令したことで、より軍勢は混乱したといいます。

この機会に、島津勢は反撃を開始。
先陣が突き崩されると、その影響は後続にも伝わり、まるで将棋倒しのように全軍が崩れていきました。
続いて森岳城から出陣した晴信ほか有馬勢も攻勢に加わって、龍造寺勢の左翼を押し返します。
また、眉山方面でも山裾を迂回した島津勢によって、右翼が敗走させられています。

こうして、龍造寺勢は総崩れとなってしまうのでした。

⇒ つづく。
 ※次回は「壮絶・龍造寺四天王」(6/6)



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出陣・戦巧者「島津家久」 (沖田畷合戦4)

2010年12月26日 | 歴史
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本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」を切っ掛けに、龍造寺氏から離反する島原半島の諸豪族。
これに対し、本国・分国に総動員をかけた佐賀城主の「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」は、六万とも五万ともいう兵を集めると、晴信の居城・日野江城を陥落させるべく進軍を開始したのです。
一方、救援を求められた当主「島津義久」は、
当家を慕う者を見殺しにはできない
そう言って、弟「島津家久」と重臣「伊集院忠棟」らに出陣を命じたのです。


肥後・八代を出た家久率いる島津勢の兵力は、わずか三千程度
当然ながら、龍造寺氏の大軍と普通に激突しては”到底勝ち目がない”と考えていたのです。

天正十二年(1584)
龍造寺勢の進軍に対し、日野江城を出陣した晴信は五千という主力を率いて出陣。
沖田畷付近の森岳城へ入り、その到着を待ち構えていました。
救援する家久は、八代から海路にて島原半島の南部へ上陸。
安徳城へ入城したのち、半島の東海岸を北上しています。
一方の「龍造寺隆信」は、海路から半島北端の神代湊に入り、森岳城から北に位置する三会城へ軍勢を集結させました。

両軍が激突したのは、島原の前山(眉山)の山麓から海岸まで、島原市の二本木あたり。
当時このあたりは低湿地・深いドロ道だったようなのです。
その中央には二、三名がやっと通れる程度のあぜ道があり、付近は”沖田畷”と呼ばれていました。

そもそも「畷(なわて)」とは、田んぼの間の道のことを指します。
総大将「島津家久」は、どうやらこの足場の悪い湿地帯に敵勢を誘い込むことを考えていたようなのです。

森岳に本陣を構えて伏兵を置き、海上の船には三百という鉄砲隊を待機させました。
また、前山(眉山)から森岳城までにかけて、累壁と大城戸を設置しております。
徹底した守りの陣を敷いたのです。
先鋒は「赤星統家」、右翼の海岸側には「島津家久」、左翼・眉山には「新納忠元」と「伊集院忠棟」、伏兵は「猿渡信光」が指揮するという布陣。
なお、ここで先陣をつとめる「赤星統家」は、肥後の国人領主。
龍造寺からの出陣要請を渋ったことで人質の子らを磔にされており、赤装束に身を包むという決死の覚悟であったようです。

半島を南下してきた龍造寺勢。
軍勢を三つに分け、右翼には隆信の本軍、中央には「鍋島直茂」、左翼には「江上家種」、「後藤家信」という布陣でした。

⇒ つづく。
 ※次回は「炸裂・島津得意の”釣り野伏”」(5/6)

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 歳久くんも気の毒ですが。

離反を招く龍造寺氏 (沖田畷合戦3)

2010年12月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という圧倒的に不利な島津勢を率い、見事に全軍を勝利に導いたその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのでした。


天正十一年(1583) 夏
九州統一を目指す島津氏は、龍造寺氏の影響力が強い肥前を虎視眈々と狙っていました。
そんな頃、キリシタン大名としても有名な肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」は龍造寺を見限って、島津に内通してきたのです。

「龍造寺隆信(※写真)」は優れた大将でした。
しかし、天正八年(1580)頃の隠居からは酒色に溺れる日々を過ごし、横暴な振舞いも多くなっていたと伝わっています。
また、放浪時代には庇護してもらった協力者の孫、筑後「蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)」を謀反の疑いで謀殺したほか、その一族・傍流をも”ことごとく抹殺する”という、凄惨な事件を起こしております。
これが天正九年(1581)のこと。
こちらは龍造寺四天王の一人「百武賢兼」からも疑問の声が上がるほどに残酷なもので、周辺領主らの離反を招く要因となったのです。
そもそも、龍造寺氏に従う大半は大友氏の衰退がために帰順した者が多く、支配体制は盤石なものではなかったのです。
実際、その晴信に続いて安徳城の「安徳純俊(あんとく・すみとし)」らも、龍造寺から離反しています。

こうして、動揺の広がっていた島原半島の諸豪族を押さえるべく、はたまた島津勢を殲滅するべく、隆信は自ら兵を率いて出陣。
本国・分国に総動員をかけ、六万とも五万ともいう最大に近いだろう兵を集めると、晴信の居城・日野江城を陥落させるべく進軍を開始したのでした。
(※実際のところは、おそらく二~三万という感じでは)

その攻撃にさらされることとなった晴信は、島津氏へ救援を求めます。
こうして、肥前への進出に、絶好の大義名分を得た島津氏。
当家を慕う者を見殺しにはできない
そう言った当主「島津義久」は、弟「島津家久」と重臣「伊集院忠棟」らに出陣を命じたのです。
ここだけを切り取るのは、違うかもしれませんが…。
恩人を抹殺した龍造寺氏に対して、助けを求めてきた晴信を万全な状態でないながら見捨てなかった島津氏というのは、小さくない差であると思います。

⇒ つづく。
 ※次回は「出陣・戦巧者「島津家久」」(4/6)


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 いいよね、この三国。

五州二島の太守・龍造寺氏 (沖田畷合戦2)

2010年12月12日 | 歴史
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天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という圧倒的に不利な島津勢を率い、見事に全軍を勝利に導いたその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのでした。


前回に続いて、島津に対する龍造寺氏。
北九州の大半を押さえていたのは「大友宗麟」でした。
しかし、その宗麟でも服属させることができなかったのが、”肥前の熊”こと佐賀城主の「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」なのです。

もともとは平安時代末期に「藤原季家」が肥前の龍造寺郷(佐賀市)にて地頭職を得たのが龍造寺氏の起こり。
結構古い家柄なんですね。
戦国時代では、守護大名家・少弐氏(しょうにし)の家臣となっていました。
当初は出家していた隆信でしたが後に還俗。
水ヶ江龍造寺、続いて宗家・村中龍造寺を相続しています。
一時期は内紛によって逃亡生活を送っていましたが、蒲池氏の支援を受けて帰国しました。

戦国大名としての地位に返り咲いた隆信は、曾祖父「龍造寺家兼」が見抜いていたその才を発揮。
主君筋である少弐氏を筑後へ追放するのでした。
九州地方ではなかなか珍しい、下剋上を果たしているんですね
以後は肥前の周辺豪族を次々と破り、やがて大友氏とも対立。
これには、安芸の毛利氏と結んで抵抗しています。

元亀元年(1570)
宗麟の弟「大友親貞」の率いる六万という大軍勢に取り囲まれています。
この絶体絶命の危機を「鍋島直茂」の奇襲策によって撃破する(今山合戦)などしぶとい抵抗を見せるのでした。
大友氏とは結局は和議を結ぶこととなったものの、その支配下でしたたかに勢力を拡大。
「有馬晴信」、「大村純忠」という諸将を下して肥前の統一に成功すると、天正六年(1578)の「耳川合戦」後の大友氏の混乱に乗じて積極的に出兵。
肥後、筑前、筑後…と、勢力を拡大していくのでした。
こうして、龍造寺氏は九州を三分する一家にまで勢力を拡大、”五州二島の太守”となっていたのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「離反を招く龍造寺氏」(3/6)


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敵将も畏怖する戦巧者「島津家久」 (沖田畷合戦1)

2010年12月05日 | 歴史
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本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

島津と聞いて真っ先に思い出すのは…”鬼島津”こと、関ヶ原の敵中突破で有名な「島津義弘(しまず・よしひろ)」でしょう。
戦のプロフェッショナルですよね。
しかし、島津家にはその義弘に勝るとも劣らない、戦巧者がいるのでした。
敵将も畏怖したという、義弘の弟「島津家久(しまづ・いえひさ)」です。
これから紹介する「沖田畷合戦」は、その才が遺憾なく発揮されたものなのです。


天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
中央ではその配下だった「羽柴秀吉」が着々とその地盤を固めていた頃。
九州に目を向けると、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という、圧倒的に不利な島津勢。
それを率いて見事全軍を勝利に導き、大将「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」を討ち取ったその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのです。


さて、まずは薩摩の島津氏の状況から。
鎌倉時代から続く名族、島津氏。
当主の「島津義久」は分裂していた島津家を統一した祖父・父の後を継ぎ、薩摩から支配を大きく拡大させていました。
伊地知氏、肝付氏を攻略して大隅までを手中にすると、日向の伊東氏を圧倒。
九州最大の大名「大友宗麟」率いる大部隊が迫った天正六年(1578)の「耳川合戦」では、得意の”釣り野伏”によって大友勢を耳川に破ったのでした。
こうして、続いて肥後へと進出した島津氏は、相良氏・阿蘇氏を追って南九州を固めつつあったのです。

今回の主人公「島津家久」は「島津貴久」の四男です。
天文十六年(1547)に誕生した彼は、義久とは十四、義弘とは十二歳違いの弟。
祖父「島津忠良(日新斎)」からは、
軍法戦術に妙を得たり
という評価を得た戦巧者で、先の「耳川合戦」でも活躍しています。

⇒ つづく。
 ※次回は「五州二島の太守・龍造寺氏」(2/6)


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弟・信長への反逆と臣従 (織田信広・後編)

2010年11月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もかの有名な「織田信長」のお兄ちゃん、「織田信広(おだ・のぶひろ)」です。

安祥城(あんじょう・じょう)を攻略し、西三河を支配した「織田信秀」
奪還を目指す「今川義元」の軍勢を第一次「小豆坂合戦」で撃退したものの、第二次「小豆坂合戦」では善戦したものの兵力差によって敗北。
安祥城を守備していた今回の主役「織田信広」も、「太源雪斎」の軍略によって捕縛されてしまうのでした。


捕虜となってしまった信広。
雪斎は織田方へ書状を送り、そちらに確保されていた「松平竹千代(松平元康・徳川家康)」の返還を求めたのでした。
「松平広忠(竹千代の父)」の急死で動揺する三河勢の支配を狙ったのでしょう。
こうして、尾張・笠寺にて人質の交換が行われることとなるのです。

天文二十年(1551)
安祥城を攻略されて西三河を失い、美濃での戦も敗退(※その後「濃姫」を迎えて和睦)、国内でも反乱者が出るなど混乱する情勢の中、父「織田信秀」は流行病によって末森城で死去。
享年四十二。
こうして、織田家は当時十六歳の「織田信長」が継ぐこととなるのです。

皆がよく知る通り、当時の信長は”尾張の大うつけ”として有名でした。
父・信秀の葬儀でも抹香を投げつけるなど粗暴な振舞いであり、国内は大混乱となるのです。
信長にとっては主筋にあたる守護代「織田信友」、松葉・深田の織田氏ほか、弟「信行(信勝)」など親族までもが、彼を侮って反逆しております。

弘治二年(1556)
「織田信広」は、「斎藤道三」を討って美濃を手に入れていた「斎藤義龍」と手を組み、緒将と同じく信長に抵抗。(※なお「長良川合戦」は弘治二年四月のこと)
信秀の有力武将であった信広にとって、この弟はやはり大うつけに映っていたようです。
信長が留守にした清州城を強奪しようと謀ったものの、露見して未遂で終わったみたい。

その後、旗色を鮮明にした信広でしたが、小競り合いはことごとく信長に敵わず降伏。
この反逆は許されています
そう、信長は”ホトトギス”から残酷なイメージ強いですが、いちおう殺すばかりではないんですよ。

これ以後は信長に従い、主要な各合戦にも参加。
特に上洛後には幕府・公家との折衝にて活躍していました。
時には、その名代にもなっています。
天正元年(1573)の十五代将軍「足利義昭」との確執では会合を実現するなど、和平に奔走していました。

一方、上洛後に信長との関係を悪化させた石山本願寺は、元亀元年(1570)に全国の本願寺門徒へ激を飛ばし、信長に対して挙兵を呼び掛けました。
いわゆる石山合戦です。
うち、伊勢長島では十一月に一向一揆が起こり、織田方の長嶋城を攻略。
続いて尾張・小木江城を囲み、城将「織田信興」を自害させています。
体勢を立て直した信長は苦戦しつつも北伊勢を攻略し、勢力を動員して天正二年(1574)には長島一向一揆を鎮圧。
和議を結び、開城に成功するんですが…信長の怒りはおさまっていなかったのです。

城を出た門徒に対し、織田勢は不意打ちを仕掛けたようです。
(※いちおう、一揆側に違反があったらしい)
これに激怒した長島一向一揆は本陣へ突撃をかけ、その際の混乱によって信広は討死してしまうのでした。
信長が男女二万人を焼き殺すという大虐殺をおこなうのは、この後のこと。

なお、信広に男子はおらず、娘は信長から絶大な信頼を集める家老「丹羽長秀」に嫁ぎ、嫡男「丹羽長重」を産んでいます。


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※信長の国内統一戦はドキドキで結構おもしろいと思います。
 どこまで史実なのかよく分かりませんが。


小豆坂合戦での攻防 (織田信広・中編)

2010年10月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もかの有名な「織田信長」のお兄ちゃん、「織田信広(おだ・のぶひろ)」です。

守護・斯波氏、守護代・織田氏を圧倒し、尾張で勢力を持ったのは守護代・清州織田家の家老「織田信秀」でした。
今回の主役「織田信広」はその初子。
しかし、正室「土田御前」の子ではなかったため、相続権はなかったのです。
なにしろ、母親の名前から生年まで不明なのでした。


さて、天文九年(1540)に西三河へ侵攻した信秀は、安祥城(あんじょう・じょう)を攻略。
その奪回を目指した駿河「今川義元(※写真)」は、二年後の天文十一年(1542)に大軍を率いて侵攻したものの、迎撃した信秀はこれを撃退するのでした。
これが、第一次「小豆坂合戦」です。
「織田信光」ほか”小豆坂七本槍”という勇士が奮戦したとされる合戦ですが、資料不確か。
合戦は実際になかった、とも言われています

なお、この三河(西三河)という場所は、今川方にとっては上洛に向けての足場、織田方にとっては尾張を守る防波堤ということで、安祥城は戦略上の要所だったのです。
特に信秀は美濃と共にこちらの奪取に熱心で、たびたび出陣しておりました。
ちなみに、後の「松平元康(徳川家康)」こと「松平竹千代」が田原の「戸田宗光」によって織田方に売られるのは、天文十六年(1547)のこと。
ちなみに、金五百貫だったようです。

天文十七年(1548) 第二次「小豆坂合戦」
三河の完全支配を狙う「今川義元」は、遠江・東三河の軍勢を召集。
頼れる軍師「太源雪斎(たいげん・せっさい)」を総大将、重臣「朝比奈泰能(あさひな・やすよし)」を副将として、四万という大軍(実際には二万くらいでは?)を再び西三河へと進軍させました。

急報を受けた信秀は四千という軍勢を率い、鳴海から安祥を抜けて上和田に着陣。
両軍が決戦の地・小豆坂にて鉢合わせたのは、ちょうど夜半のことでした。
ここで坂の上にあった今川勢は素早く攻め下り、次々に新手を繰り出して織田勢の先陣を崩しています。
しかし、信秀は旗本隊を投入して果敢な突撃をかけ、逆に再び押し返すのでした。
兵力差はあったものの、かなりの激戦であったのです。
結局、夜明けで時間が長引くにつれて押されるようになり、また「岡部長教(おかべ・ながのり)」に側面をつかれたため、窮地に立たされた織田勢は撤退。
ただし安祥城の守りは固く、この際は攻略を断念しております。

天文十八年(1549) [安祥城合戦]
「小豆坂合戦」に敗れた信秀は、安祥城の守備を信広に任せ、古渡城まで退却していました。
その後、竹千代の父「松平広忠」が急死するという事件が起きています。
主君を失って動揺する三河勢に対し、義元は「朝比奈泰能」らに岡崎城を接収させ、さらに「太源雪斎」に七千という兵力を与えて安祥城を囲ませました。
次々に三の丸、二の丸を攻略し、本丸を残すのみ…というところで、降伏勧告をした雪斎。
ここで彼は、”追い込みつつも自刃させない”という抜群の軍略を見せ、おそらくは当初の計画通りに城将信広の生け捕りに成功したのでした。
(※実は三月、十一月と、二度ほど攻めています)
こうして、信広は今川家の捕虜になってしまったのです。

⇒ つづく。


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※コレいいですね。
 こうした武将解説的な本が大好きです。
 あとは時間があればなぁ。

知ってる?信長のお兄ちゃん (織田信広・前編)

2010年10月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はかの有名な「織田信長」のお兄ちゃん、「織田信広(おだ・のぶひろ)」です。

歴史小説とかドラマにて、信長が自分のことを「三郎信長」とか名乗っているのを見た事ありません?
まあ、はっきり言って漢数字がためでない(※)ものの、信長は嫡男でないのです。
結構知らないことでしょ?
(※例えば武田家嫡男の「武田晴信」は「太郎」という名乗りですが、他大名家を見る限り名乗りと漢数字は関係ないみたい。書き出しなのに申し訳にないですが)

天文三年(1534)に誕生した信長の母は、父「織田信秀(※写真)」の正室「土田御前」です。
それに対して、今回の主人公「信広」の母は側室であったため、生まれとしてはトップであったものの、相続者とは見られなかったのです。
厳しい時代なのですよー。

なお、信広の母については、名前すら伝わっていません。
だいたい、初子であるのに信広自身の生年も不明。
通称は「三郎五郎」…って、彼も漢数字関係ないですね。
織田家の一門が多く名乗っている、「津田(信広)」という名もありました。
もし、正室が男子を産まなければ…おそらくは織田家の当主となり、また異なる運命になったでしょう。
なお、伯父「織田信康」の養子となった「織田信時(秀俊?)」は信広の同母弟で、生年順から次男(信長から1つ上の兄)であるという説もありますが、これも不確か。
歴史に名を残した信長の血族、しかも兄ですが、はっきり分かっていない事は多いのです。


天文九年(1540) 
当時、尾張にて最も勢いがあった織田家。
だいたいこんな感じ。

1・尾張の守護(名目での支配者)は斯波家「斯波義統(しば・よしむね)」
2・守護代(実質の支配者)は下四群を支配する清州・織田家「織田[大和守]達勝」、上四郡を支配する岩倉・織田家「織田[伊勢守]信安」という二家。
3・その清州・織田家はさらに”清洲三奉行”と言われる織田家があり、因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家…という三家のうち、勝幡を拠点とする「弾正忠家」の織田氏が、「織田信定(祖父)」、「織田信秀(父)」、「織田信長(弟)」と続くのです。

息子「織田信長」が目立つものの、その父「織田信秀」もかなり優れた大将でした。
守護・守護代の下、家老に過ぎなかった彼ですが、他家を圧倒して勢力を拡大しています。
(※争いはしたものの、打倒まではしていない)
いまいち国内には不安定さが残っていたものの、他国にも侵攻しているのです。
相次ぐ当主の死によって混乱していた松平氏の隙をつき、「織田信秀」自ら出陣した織田勢は安祥城(あんじょう・じょう)を攻略。
西三河をその支配下としたのでした。

⇒ つづく。


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宇都宮城 (栃木)

2010年10月10日 | 歴史
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本日は栃木県宇都宮市は「宇都宮城址公園」こと「宇都宮城」です。

街の中心近くにある平城です。
駅からはそこそこ離れていますが、歩けない距離ではありません。
ちょっと、お城としてのぺーっとはしているものの、行き易いのでいいと思います。
実は関東七名城の一つですからね。



※上からの景色はこんな感じ。
 結構高いのです。


完成は平安時代の後期。
鎌倉時代頃に宇都宮氏の初代と言われる「藤原宗円(ふじわらの・そうえん)」が築いたとされ、代々居城としておりました。
宇都宮氏は南北朝の混乱期も生き抜き、五百年もの間周辺を支配していたようです。

戦国時代まで宇都宮氏は続いています。
当時の「宇都宮城」は、深い堀と高い土塁によって守られていました。
しかし、家臣「芳賀興綱」の反乱ほか、結城氏、壬生氏など周辺豪族らより度々の侵攻受けて勢力は大きく衰退。
佐竹氏の協力によって、ようやく城を保つという状態でした。
拡大する北条氏の侵攻にのも遭い、城下が焼き払われたこともあったようです。


※ミヤリーがいました。

豊臣政権下では佐竹氏と共に小田原攻めに参加して本領安堵された宇都宮氏。
ですが、後に改易。
江戸時代では「奥平家昌」、続いてあの有名な「本多正純」が入りました。
正純は宇都宮城・城下町の大改造を行いますが、この際に現在の宇都宮市の骨格が完成したとされています。

江戸時代の宇都宮城は天守閣はなかったものの、堀に囲まれた本丸、居住する二の丸などの施設が並ぶ大きな城であった様子。
そのためか、日光へ行く徳川将軍はここを宿泊地としています。
正純が処分される切っ掛けとして語られる「釣天井事件(※)」は、そうした事柄がためであるようです。
(※釣天井事件:からくり天井によって将軍を暗殺しようとした疑惑。とうぜん事実ではありません)
しかし、「戊辰戦争」によって「土方歳三」率いる旧幕府軍に攻められ、ほとんどの建物は焼失。



現在の宇都宮城(宇都宮城址公園)は過去に本丸があった付近に存在しています。
位置・規模・構造などは発掘調査で判明した昔通りのもの。
清明台、富士見櫓ほか、十メートルという土塁が再現されており、公園内には「清明館歴史展示室」やものしり館、まちあるき情報館などの施設もありました。
なお、将軍が宿泊したという御成御殿、城門も後に復元されるようです。
楽しみですねー。



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下野・宇都宮一族
七宮 ケイ三
新人物往来社

※宇都宮氏の本がありました。
 南北朝・戦国などをカバーしてます。


土浦城址 (茨城)

2010年09月19日 | 歴史
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本日は茨城県土浦市は県指定史跡「土浦城」です。

「亀城(きじょう)」とも呼ばれるこちら。
こないだ「牛久大仏」へ行った際に行ってきました。
完全に平城でしたね。



※そんな訳で亀。

室町時代に完成したという土浦城。
若泉氏が築いたとされています。
戦国時代までここを居城としていた若泉氏でしたが、永正十三年(1516)に周辺を支配していた常陸・小田氏方の代官「菅谷勝貞」が攻め落としていました。
城主「若泉五郎左衛門」はここで敗死。
一時期は小田氏の「信太範貞」が守備をしていましたが、後に奪った勝貞はここを居城として上杉・佐竹ら周辺大名と戦っていたようです。

なお、主君「小田氏治」はたびたび佐竹氏に敗れていますが、勝貞の子「菅谷政貞」、その子「菅谷範政」はそのたびごとに氏治を土浦城へと迎え入れています。
氏治と共に小田城を奪還しているところから察するに、なかなかの武将であったようです。
後に佐竹氏、徳川氏と降り、特に範政は小田氏への忠節を賞され、徳川家の旗本に取り立てられています。
(※最終的には幕末まで存続)



こうした時代の変化の間に「結城秀康」の支城となったこともありましたが、江戸時代では「松平信一」に与えられ、土浦藩の初代藩主となりました。
最終的には土屋氏(※武田氏に仕えていた土屋氏です)が入封。
明治維新まで代々城主となるのでした。

9万五千石というこちらは、常陸国(茨城県)では水戸藩に次ぐという大きな領土の中心地。
明治三十一年(1898)に土浦へと寄贈され、亀城公園として整備されることとなるのです。
現在の土浦城は櫓や門などが復元されています。
東櫓では資料の展示があり、すぐ隣には私立博物館がありましたが、ぶっちゃけちょっとした程度もの。



周辺には旧水戸街道沿いに古い商家、歴史あるお寺もあったりするんですが…あまり観光っぽくはされていません。
街並みとか風情あっていいんですが、もう少しなんとかならないかなーって印象でした。
お城も歴史あるものなんですが、小田氏が…ねぇ。




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※やっぱり旅行へ行ったら「蕎麦」ですよね。
 ラーメンとはまた違った良さがあると思います。

七尾城址 (石川)

2010年08月29日 | 歴史
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本日は石川県七尾市にある日本百名城の三十四番「七尾城址」です。

難攻不落で知られる「七尾城(ななおじょう)」
石川に行ったなら、やっぱりここを見なければ、ということで行ってきました。



※付近MAPです。「長」とか「遊佐」とか「温井」とか…心躍りますね。

室町時代にブイブイ言わせていた、三管領の一つ「畠山氏」
そのうち、能登の守護・畠山氏の歴代が居城とし、約百七十年ほどの歴史があります。
実際のところ、いつ頃から存在するか正確には明らかでないそうですが、初代「畠山満慶(はたけやま・みつのり)」が能登に入ったのは応永十五年(1408)以降のこと。
最終的に廃城となるのが関ヶ原合戦前の天正十七年(1589)なので、だいたいそのくらいです。
確実なところでは、戦国期(1500年付近)にはこの地に存在。
逐次拡張・増強されていたようでした。
天文十三年(1544)の記録では、城山の付近に城下町が一里(約3,927㎞)あまりも連なっていたと記述されています。


※ひでるさんが行った際には地震がため、修復作業してました。
 ちなみに、蜂に襲われたのはこの付近。


石動山の北に位置する「七尾城」
標高なんと三百メートルという山頂に本丸が置かれ、それを中心に尾根には各屋敷から曲輪(くるわ:守備拠点)までが複雑な地形を巧みに利用し、配置されていました。
さらに枝分かれする尾根にも、大小の砦が設置されていたようです。
(※そもそも七尾という地名が”七つの尾根”からの名称らしい)
現在城は復元されていませんが、本丸から三の丸にかけての縄張、石垣、空堀など、大きな災害などにも逢わず、良い保存状態で残っています。
国の指定史跡で、日本百名城にも選ばれました。
難攻不落な城として知られ、最終的には天正五年(1577)に越後「上杉謙信」によって攻略されましたが、前年の出撃では三ヶ月という籠城戦を耐え抜き、一度は彼を撤退させているのでした。
内部分裂による落城なんですね。


※本丸付近です。山奥ですよ。

特に大小様々な石が積み重なる石垣は見事に残っており、タクシーのおっちゃんは、
「日本三大石垣の一つ」
とかなんとか言ってましたけど…どこにもそんな記述はありませんね(笑)
ただ、大きさ均等でない石垣は、逆に当時の面影を見せています。

山頂付近までは車で進むことができますが、山道はもの凄い険しいもの。
”難攻不落”と言われたそうですが、それも納得。
ちょっとした展望台みたいなのが設置されており、上からの景色は見事です。


※頂上からの景色です。

なお、ひでるさんらが行った際には山の名物「スズメバチ」が出現し、しっかりと威嚇されました。
(※ひでるさんは大抵黒い服を着ているのです。←熊と勘違いされるので、最もダメな色)
くれぐれもご注意を。


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※畠山氏…というより、前田家がメインになってましたね。
 まぁ、当然か。

闘うお坊さん 「下間頼廉」 後編

2010年07月18日 | 歴史
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本日も十一世法主「顕如(けんにょ)」率いる「石山本願寺」の執事「下間頼廉(しもつま・らいれん)」です。
「石山合戦」などに参加した多くの僧の中でも、単なる文官にとどまらない優秀な戦術家として活躍するのでした。


法主「顕如」は公家衆に近づく一方で一向宗を組織化し、多大な権力を握っておりました。
戦国大名らも手出しができないほどの勢力を有し、この時の「石山本願寺」は、間違いなく最盛期を迎えていたのです。

永禄十一年(1568)
そうした中、ついに「織田信長」は上洛を果たしました。
畿内掌握を目指して活発な軍事活動を続ける信長との関係は良好には進まず、ついに全面戦争へと突入してしまうのです。

ここ元亀元年(1570)からの争いが、いわゆる「石山合戦」でした。
当時の信長は擁立した将軍「足利義昭」との関係が冷え切っており、義昭は織田勢を排除するべく”信長包囲網”を形成していくのです。
その反対勢力に加わった「顕如」は、上杉氏、武田氏、毛利氏らと同盟を結び、本拠「大坂御坊」に籠城。
徹底抗戦を続けるのです。

この「大坂御坊」は単なる本拠館ではありません。
「蓮如」が隠居先として選んだそちらは、四面を川に囲まれた上に小高い山も多く、地形的にも優れた難攻不落な要塞と言えるものでした。
山科にて攻撃を受けた過去の経験から、しっかり軍備を整えていたんですね。
こうして年々勢力を増していったことで、実際に細川氏の攻撃を寄せ付けなかったほか、織田勢の攻撃にも長年耐え抜いているのです。
その他権力者、大名らも武力を怖れ、手出しできませんでした。
…まぁ、信長が見逃せなかったのも当然ですわね。

今回の主人公「下間頼廉」は、籠城した本願寺では直接の指揮官です。
越前に派遣されていた「下間頼照」が「明智光秀」・「羽柴秀吉」らに翻弄されたのと対照的に、しばしば織田勢の裏をかくなど、僧であったものの優秀な戦術家でもありました。

天正四年(1576)の「天王寺合戦」では、「小早川隆景」の毛利勢と共に木津の砦を守備。
織田勢の将「原田直政」を討ち取るという、大きな手柄を挙げています。
本願寺勢の実質的な大将として織田勢からよく防戦し、毛利氏・雑賀衆との連携によって、七年間という籠城戦を戦い続けるのでした。

雑賀衆の伝説的な武将「鈴木重秀(雑賀孫一)」と共に、
「大坂之左右之大将」
と称されていたそうです。

天正七年(1579)
しかし、「九鬼嘉隆」率いる水軍に「木津川口海戦」で毛利氏が敗れ、補給が断たれたことで法主「顕如」は講和を模索するようになりました。
まだ一年ほど戦う与力はあったとも伝えられていますが、実際のところは微妙であったと思います。

信長包囲網は既に瓦解しており、「顕如」も”援軍なければ当寺は相果てること必定”と、弱気な支援要請をしています。
織田軍の前に、敗色濃厚だったのです。

続く八年の頃になると紀州・加賀も織田勢に制圧されており、ついに「正親町天皇」からの勅命を受けた「顕如」は信長へと屈服。
本願寺を退去することとなりました。
この時は「下間頼龍」や「下間仲孝」らと共に、頼廉も講和条約署名三名の一人となっています。

合戦後は「顕如」に従い、本願寺を退去。
彼と共に各地へ赴き、織田勢に対して抵抗を続ける門徒らの説得に当たっています
その信頼は非常に厚く、署名に加わった先の三名へ当てた書状でも筆頭として名前が書かれており、後の慶長五年「徳川家康」との会見でも随従しているのでした。

天正十七年(1589)
京都へ帰った頼廉は「豊臣秀吉」から七条猪熊に宅地一町を与えられ、「下間仲孝」と共に本願寺町の奉行を命ぜられました。
死去は寛永三年(1626)と、当時としてはなかなかの長命だったようです。


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信長が宿敵 本願寺顕如
鈴木 輝一郎
毎日新聞社

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※なるほど、信長のライバルは本願寺ですかねー。
 政秀寺とかあるんですが。

闘うお坊さん 「下間頼廉」 前編

2010年07月11日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は久々の歴史ネタです。
最近やってなかったのは…なかなか、南部氏の記事がまとまらなかったためです。
東北地方で”南”部、なーんて気軽な気持ちだったんですが、ちらほら不確かな事が多く、諦めました。
難しかったです。
途中まで書いてたんですけどねー。
そんな訳で、本日はメジャーなネタにしました。

天下統一を目指す「織田信長」
その覇道に立ちはだかったのは…門徒らを総動員し、決死の抵抗をみせた十一世法主「顕如(けんにょ)」率いる「石山本願寺」だったのです!!

今回の主人公「下間頼廉(しもつま・らいれん)」はその執事です。
単なるお坊さんでも文官でもなく、兵を率いて合戦に参加。
多くの僧の中でも、特に際立って優秀な戦術家でもあったのでした。


名前は”しもずま”とも読むようです。
この下間家は、代々本願寺の補佐役・家宰として仕えていました。
一向宗の指導者として活躍した僧にはこの名字多いですが、それぞれは一族であるようです。

天文六年(1537)
頼廉は「下間頼康」の子として誕生しました。
通称は「右衛門尉」

詳細については不明であるものの「顕如」に仕え、永禄二年(1559)に本願寺が門跡になると、重職である坊官となりました。
ちなみに余談ですが、彼の父頼康は「石山合戦」の際に千貫櫓で討死したと伝えられています。


八世法主「蓮如(れんにょ)」から続く一向宗は、拡大を続けた結果日本最大の教団にまで発展していました。
加賀国では守護大名である富樫氏を追い出し、
百姓の持ちたる国
という門徒での国家を成立させるなど、その勢力は戦国大名らの脅威となっていくのです。
もともと「蓮如」は、政治との結びつきには否定的でした。
しかし、大名らの領国支配強化、組織化される門徒に伴って、加賀国のある北陸では上杉・朝倉氏を、東海では徳川氏などの大名らに激しく抵抗。
その立場も変化していったようなのです。

天文二十三年(1554)
亡くなった父「証如」の後継者として、十一世法主の「顕如(けんにょ)」が誕生します。
これが戦国のメイン時代に活躍した本願寺の住職で、いわゆる”信長の野望”的には、「本願寺光佐」なのです。

当時はまだ十二歳の青年でした。
仏敵「織田信長」とは当初から揉めていた訳でなく、キリシタンを保護したこと、畿内掌握のため圧迫を受けた事(矢銭の要求から、石山本願寺の立ち退きなど)から、ついに全面戦争へ突入するのでした。
越前、加賀、伊勢、紀伊といった全国門徒へ、

「法敵、織田信長を討て!」 

そう檄文を飛ばすのでした。
なにしろ、”蜂起しない者は破門する”という、めちゃくちゃなモノだったのです。

⇒ つづく


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※信長が最も手こずった相手ですね。
 神を信じない彼と激突するのは、歴史の面白いところだと思います。