のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「信長に背いた男たち」シリーズ(そんなんない)、利休七哲の一角、摂津国有岡城城主「荒木村重」さまです。
天正六年(1578)
突如「荒木村重」は信長に背き、本願寺・毛利家と通じました。
共に「高山右近」、「中川清秀」、「小寺政職」らも同調、摂津はにわかに騒然となってしまうのです。
しかし、所詮は反乱軍。
側近であった「中川清秀」は織田の大軍に攻められて降伏。
当初、村重には思い止まるよう説得していた高槻城「高山右近」もその性格を的確に攻める信長の恫喝に屈し、降伏しておりました。
(※キリシタンを皆殺しにするという、いかにも信長さまらしいトンデモないものだったらしいのよ)
さて、こうして次々に支城を落としてじわじわと迫る織田勢。
その力攻めにも耐え、持久戦に変更した兵糧攻めに対して籠城すること約十ヶ月。
ここで「荒木村重」のとった行動は実に意外なものでした。
なんと、この人は城と家族・家臣らをそのままに、単独逃亡してしまうのです。
毛利へ直接援軍を要請に行ったという話もあるようですが、どちらにしろ城の責任者たる村重が実際に姿を消したことは間違いありません。
(※だいたい、この状況でそんなんトップの人間がすることじゃーないですよね)
ともかく、主不在となってしまった守備勢はもろく、織田軍の攻撃に耐え切れず有岡城はここで落城。
おそらく、信長はそこに恨みの「荒木村重」がいないことで、より怒りを増幅させたのではないか、と思います。
残された一族は皆殺しとされてしまうのでした。
天正七年(1579)
正妻「荒木ダシ」は京都六条河原で一族三十余名と共に斬罪に処せられました。
享年二十一。
ちなみに、「ダシ」は受洗名でして、彼女はキリシタンであった様子。
謀反の代償はそんな悲惨なものでした。
…はっきり言って、信長の怒りも当然のことかと。
よく船とかでは「事故があった際には船長は最後まで留まる」とか聞きますが、これはその船長自身が真っ先に逃げ出したようなものでしょう。
幸若舞「敦盛」を好んだ信長にとって、そういった行動は最も許し難いものだと思われます。たぶん。
この際の彼にどんな思惑があったのか今となっては分かりませんが、伝えられる話によると当人もだいぶ心に引っかかっていたようです。
案外、真面目で気が小さい方なのかもしれませんね。
各地を放浪した村重は信長が本能寺に倒れた後には堺に住みました。
茶の湯の技能を持っていた、利休の高弟七人「利休七哲」の一人であった村重は後に「豊臣秀吉」に見出され、その茶頭となるのです。
そんな波乱万丈の生涯は天正十四年(1586)にて幕を閉じるのでした。
村重は堺にて死去。享年五十二。
なお、子の「荒木村次(あらき・むらつぐ)」は父が信長に謀反を起こした際に離別。
賤ヶ岳合戦などでは秀吉の指揮下で活躍しております。
奥さまは明智光秀の娘なんだって。
【 戦国メーター★荒木村重 】
家柄: ■□□□□ 不明。近畿の国人かなんかなのかな。
実力: ■■■□□ 性格の弱さが見えますが、文武に通じた方であったようです。
地理: ■■■■■ 豊かな京の隣国、摂津を領しておりました。
[関連記事] 【中期・合戦祭り】
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※西洋文化に触れる、貿易するって理由で入信した大名も多いらしいですね。
そんな中で、たまに大友の宗麟くんみたいにハマる人がでてくるの。
本日は「信長に背いた男たち」シリーズ(そんなんない)、利休七哲の一角、摂津国有岡城城主「荒木村重」さまです。
天正六年(1578)
突如「荒木村重」は信長に背き、本願寺・毛利家と通じました。
共に「高山右近」、「中川清秀」、「小寺政職」らも同調、摂津はにわかに騒然となってしまうのです。
しかし、所詮は反乱軍。
側近であった「中川清秀」は織田の大軍に攻められて降伏。
当初、村重には思い止まるよう説得していた高槻城「高山右近」もその性格を的確に攻める信長の恫喝に屈し、降伏しておりました。
(※キリシタンを皆殺しにするという、いかにも信長さまらしいトンデモないものだったらしいのよ)
さて、こうして次々に支城を落としてじわじわと迫る織田勢。
その力攻めにも耐え、持久戦に変更した兵糧攻めに対して籠城すること約十ヶ月。
ここで「荒木村重」のとった行動は実に意外なものでした。
なんと、この人は城と家族・家臣らをそのままに、単独逃亡してしまうのです。
毛利へ直接援軍を要請に行ったという話もあるようですが、どちらにしろ城の責任者たる村重が実際に姿を消したことは間違いありません。
(※だいたい、この状況でそんなんトップの人間がすることじゃーないですよね)
ともかく、主不在となってしまった守備勢はもろく、織田軍の攻撃に耐え切れず有岡城はここで落城。
おそらく、信長はそこに恨みの「荒木村重」がいないことで、より怒りを増幅させたのではないか、と思います。
残された一族は皆殺しとされてしまうのでした。
天正七年(1579)
正妻「荒木ダシ」は京都六条河原で一族三十余名と共に斬罪に処せられました。
享年二十一。
ちなみに、「ダシ」は受洗名でして、彼女はキリシタンであった様子。
謀反の代償はそんな悲惨なものでした。
…はっきり言って、信長の怒りも当然のことかと。
よく船とかでは「事故があった際には船長は最後まで留まる」とか聞きますが、これはその船長自身が真っ先に逃げ出したようなものでしょう。
幸若舞「敦盛」を好んだ信長にとって、そういった行動は最も許し難いものだと思われます。たぶん。
この際の彼にどんな思惑があったのか今となっては分かりませんが、伝えられる話によると当人もだいぶ心に引っかかっていたようです。
案外、真面目で気が小さい方なのかもしれませんね。
各地を放浪した村重は信長が本能寺に倒れた後には堺に住みました。
茶の湯の技能を持っていた、利休の高弟七人「利休七哲」の一人であった村重は後に「豊臣秀吉」に見出され、その茶頭となるのです。
そんな波乱万丈の生涯は天正十四年(1586)にて幕を閉じるのでした。
村重は堺にて死去。享年五十二。
なお、子の「荒木村次(あらき・むらつぐ)」は父が信長に謀反を起こした際に離別。
賤ヶ岳合戦などでは秀吉の指揮下で活躍しております。
奥さまは明智光秀の娘なんだって。
【 戦国メーター★荒木村重 】
家柄: ■□□□□ 不明。近畿の国人かなんかなのかな。
実力: ■■■□□ 性格の弱さが見えますが、文武に通じた方であったようです。
地理: ■■■■■ 豊かな京の隣国、摂津を領しておりました。
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そんな中で、たまに大友の宗麟くんみたいにハマる人がでてくるの。