のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…「織田信長(※写真)」のとかいうより”小姓”と言われて真っ先に名前があがる(かもしれない)、戦国時代の有能な秘書官「森蘭丸(もり・らんまる)」です。
…だよね。
ついに蘭丸は小姓として「織田信長」の側仕えになりました。
何名かいる小姓の中でかなり優秀だったらしく、わずか1年後である天正九年(1581)には、近江で五万石を与えられるのでした。
こんなお話が残っています。
ある日、爪を切った信長は小姓の一人をを呼び出しました。
気付いた小姓がそれを片付けようとすると、
「もうよい」
と言って、下がらせるのです。
すると、信長は続いて他の小姓を呼び出すのでした。
同じことが繰り返され、いよいよ「森蘭丸」が呼び出されます。
切られた爪を数えた蘭丸は、数が一つ足りないことを発見し、信長の袖から切られた爪を見つけたのです。
…そのように、細やかな気遣いができ、また万事遅滞なく物事を運んでいたのでしょう。
信長の寵愛を集めた受けたというのは、やはり才覚あってのことでしょう。
あるいは、世間のイメージそのまま、顔の良さもあったのかもしれませんが。
とにかく、キレると怖い、余人が畏怖した信長に気に入られたんですから、その事実だけでもかなりな実力をもっていたと想像されます。
…おそらく、信長は見てくれの良さだけで側に置くことはしないでしょうから。
続く天正十年(1582)には、兄「森長可」が信濃にて二十万石を与えられたと同時に、蘭丸は武田征伐の功にて美濃・金山城を与えられ、そちらを引き継ぐこととなるのでした。
しかし、父と同様に戦国の波が順調であった森家を襲うこととなるのです。
天正十年(1582) 六月
中国にて難敵「毛利氏」と対峙していた「羽柴秀吉」は主君「織田信長」に救援を要請。
安土城を出発した信長一行は、京都「本能寺」に宿泊しました。
本能寺は、京都に城を持たない信長にとって何度か宿泊したことのある、慣れたところでした。
午前六時という早朝のこと。
この際、信長は寝ておらず、起きて顔を洗っていたともいわれております。
騒ぎに気づいた(目を覚ました)信長は、当初家来同士の喧嘩であると思っておりました。
しかし、鉄砲の音が聞こえたことで、襲撃であると気付きます。
「日向守が勢と思われます!」
顔を青ざめた「蘭丸」がそう告げると、
「是非に及ばず」
と信長は言ったそうです。
その日、宿泊していた手勢は百名程度。
信長自身も長刀でしばらく応戦しましたが、さすがに多勢に無勢で次々に守備隊は倒され、ここで生涯を終えるのでした。
共にあった「森蘭丸」、弟「坊丸」「力丸」らも明智勢に対して奮戦し、揃って討死するのです。
なお、兄「森長可」は前述のように長久手合戦で死亡。
森家は六男「森忠政(もり・ただまさ)」が遺領を継承。
関ヶ原では判断良く東軍に属し、「徳川秀忠」の軍に加わった忠政はその功で美作十八万石を得て、津山藩初代藩主となるのでした。
【 戦国メーター★森蘭丸 】
家柄: ■■■■□ 清和源氏が真実ならば。
実力: ■■■■□ どっちかというと事務系なのかなぁ…。合戦での活躍は不明なのです。
地理: ■■■■□ 美濃で判断。…まぁ、天下どうのって方ではないですが。
[関連記事] 【中期・合戦祭り】
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※いわゆる暴露本なのですよ(笑)
どーですか、こんなんは。
本日は…「織田信長(※写真)」のとかいうより”小姓”と言われて真っ先に名前があがる(かもしれない)、戦国時代の有能な秘書官「森蘭丸(もり・らんまる)」です。
…だよね。
ついに蘭丸は小姓として「織田信長」の側仕えになりました。
何名かいる小姓の中でかなり優秀だったらしく、わずか1年後である天正九年(1581)には、近江で五万石を与えられるのでした。
こんなお話が残っています。
ある日、爪を切った信長は小姓の一人をを呼び出しました。
気付いた小姓がそれを片付けようとすると、
「もうよい」
と言って、下がらせるのです。
すると、信長は続いて他の小姓を呼び出すのでした。
同じことが繰り返され、いよいよ「森蘭丸」が呼び出されます。
切られた爪を数えた蘭丸は、数が一つ足りないことを発見し、信長の袖から切られた爪を見つけたのです。
…そのように、細やかな気遣いができ、また万事遅滞なく物事を運んでいたのでしょう。
信長の寵愛を集めた受けたというのは、やはり才覚あってのことでしょう。
あるいは、世間のイメージそのまま、顔の良さもあったのかもしれませんが。
とにかく、キレると怖い、余人が畏怖した信長に気に入られたんですから、その事実だけでもかなりな実力をもっていたと想像されます。
…おそらく、信長は見てくれの良さだけで側に置くことはしないでしょうから。
続く天正十年(1582)には、兄「森長可」が信濃にて二十万石を与えられたと同時に、蘭丸は武田征伐の功にて美濃・金山城を与えられ、そちらを引き継ぐこととなるのでした。
しかし、父と同様に戦国の波が順調であった森家を襲うこととなるのです。
天正十年(1582) 六月
中国にて難敵「毛利氏」と対峙していた「羽柴秀吉」は主君「織田信長」に救援を要請。
安土城を出発した信長一行は、京都「本能寺」に宿泊しました。
本能寺は、京都に城を持たない信長にとって何度か宿泊したことのある、慣れたところでした。
午前六時という早朝のこと。
この際、信長は寝ておらず、起きて顔を洗っていたともいわれております。
騒ぎに気づいた(目を覚ました)信長は、当初家来同士の喧嘩であると思っておりました。
しかし、鉄砲の音が聞こえたことで、襲撃であると気付きます。
「日向守が勢と思われます!」
顔を青ざめた「蘭丸」がそう告げると、
「是非に及ばず」
と信長は言ったそうです。
その日、宿泊していた手勢は百名程度。
信長自身も長刀でしばらく応戦しましたが、さすがに多勢に無勢で次々に守備隊は倒され、ここで生涯を終えるのでした。
共にあった「森蘭丸」、弟「坊丸」「力丸」らも明智勢に対して奮戦し、揃って討死するのです。
なお、兄「森長可」は前述のように長久手合戦で死亡。
森家は六男「森忠政(もり・ただまさ)」が遺領を継承。
関ヶ原では判断良く東軍に属し、「徳川秀忠」の軍に加わった忠政はその功で美作十八万石を得て、津山藩初代藩主となるのでした。
【 戦国メーター★森蘭丸 】
家柄: ■■■■□ 清和源氏が真実ならば。
実力: ■■■■□ どっちかというと事務系なのかなぁ…。合戦での活躍は不明なのです。
地理: ■■■■□ 美濃で判断。…まぁ、天下どうのって方ではないですが。
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※いわゆる暴露本なのですよ(笑)
どーですか、こんなんは。
私は「和の心を歩く」 http://www.1mink.net/
というサイトを運営しておりますつぶらやと申します。
御サイトはYahooの検索エンジンを通して知り、
非常に興味深く内容の方を拝見させて頂きました。
この度、誠に勝手ながら私のサイトのと相互リンクをお願い
できないかと思い書き込みをさせて頂きました。
相互リンクさせて頂ける場合はinfo★1mink.net(★→@)
までご連絡頂けますと幸いです。
何卒、よろしくお願い申し上げます。
リンクしておきますね。