お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

小豆坂合戦での攻防 (織田信広・中編)

2010年10月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もかの有名な「織田信長」のお兄ちゃん、「織田信広(おだ・のぶひろ)」です。

守護・斯波氏、守護代・織田氏を圧倒し、尾張で勢力を持ったのは守護代・清州織田家の家老「織田信秀」でした。
今回の主役「織田信広」はその初子。
しかし、正室「土田御前」の子ではなかったため、相続権はなかったのです。
なにしろ、母親の名前から生年まで不明なのでした。


さて、天文九年(1540)に西三河へ侵攻した信秀は、安祥城(あんじょう・じょう)を攻略。
その奪回を目指した駿河「今川義元(※写真)」は、二年後の天文十一年(1542)に大軍を率いて侵攻したものの、迎撃した信秀はこれを撃退するのでした。
これが、第一次「小豆坂合戦」です。
「織田信光」ほか”小豆坂七本槍”という勇士が奮戦したとされる合戦ですが、資料不確か。
合戦は実際になかった、とも言われています

なお、この三河(西三河)という場所は、今川方にとっては上洛に向けての足場、織田方にとっては尾張を守る防波堤ということで、安祥城は戦略上の要所だったのです。
特に信秀は美濃と共にこちらの奪取に熱心で、たびたび出陣しておりました。
ちなみに、後の「松平元康(徳川家康)」こと「松平竹千代」が田原の「戸田宗光」によって織田方に売られるのは、天文十六年(1547)のこと。
ちなみに、金五百貫だったようです。

天文十七年(1548) 第二次「小豆坂合戦」
三河の完全支配を狙う「今川義元」は、遠江・東三河の軍勢を召集。
頼れる軍師「太源雪斎(たいげん・せっさい)」を総大将、重臣「朝比奈泰能(あさひな・やすよし)」を副将として、四万という大軍(実際には二万くらいでは?)を再び西三河へと進軍させました。

急報を受けた信秀は四千という軍勢を率い、鳴海から安祥を抜けて上和田に着陣。
両軍が決戦の地・小豆坂にて鉢合わせたのは、ちょうど夜半のことでした。
ここで坂の上にあった今川勢は素早く攻め下り、次々に新手を繰り出して織田勢の先陣を崩しています。
しかし、信秀は旗本隊を投入して果敢な突撃をかけ、逆に再び押し返すのでした。
兵力差はあったものの、かなりの激戦であったのです。
結局、夜明けで時間が長引くにつれて押されるようになり、また「岡部長教(おかべ・ながのり)」に側面をつかれたため、窮地に立たされた織田勢は撤退。
ただし安祥城の守りは固く、この際は攻略を断念しております。

天文十八年(1549) [安祥城合戦]
「小豆坂合戦」に敗れた信秀は、安祥城の守備を信広に任せ、古渡城まで退却していました。
その後、竹千代の父「松平広忠」が急死するという事件が起きています。
主君を失って動揺する三河勢に対し、義元は「朝比奈泰能」らに岡崎城を接収させ、さらに「太源雪斎」に七千という兵力を与えて安祥城を囲ませました。
次々に三の丸、二の丸を攻略し、本丸を残すのみ…というところで、降伏勧告をした雪斎。
ここで彼は、”追い込みつつも自刃させない”という抜群の軍略を見せ、おそらくは当初の計画通りに城将信広の生け捕りに成功したのでした。
(※実は三月、十一月と、二度ほど攻めています)
こうして、信広は今川家の捕虜になってしまったのです。

⇒ つづく。


[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 地獄絵図の鳥取城「鳥取城合戦」 [     
⇒ 姫若子、ついに初陣! 「長浜合戦」 [   ]
⇒ 伊東侵攻・義弘、不利な戦況に挑む「木崎原合戦」[  
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 徳川勢は本当に活躍した?「姉川合戦」[      探訪
⇒ はねる謙信逃げる信長 「手取川合戦」[    
⇒ 戦国メロドラマ劇場「岩村城攻防戦」[    
⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    



 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


織田信長家臣人名辞典
谷口 克広
吉川弘文館

※コレいいですね。
 こうした武将解説的な本が大好きです。
 あとは時間があればなぁ。


最新の画像もっと見る