お寺さんぽ Ver.03

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信長の正妻「濃姫」 (京都・総見院)

2006年04月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は泣く子も黙る(かもしれない)織田信長の正妻、濃姫さまです。
発売されているアクション系戦国ゲーム↓では信長の影響か
”はちゃめちゃな性格”にされていてなんだか気の毒なんですが、
実際はどうだったんでしょうか?


美濃国(いまの岐阜県)を一介の油売りから奪取した戦国三梟雄の一角、斎藤道三
の娘、帰蝶さま。
帰蝶なんてなんだかやわらかな、儚げな、妖精のような美しい名前ですねー。
ただ、この「帰」が縁起悪いということで、織田家へ嫁いでからは濃姫と呼ばれるよ
うになりました。(※以後は濃姫で統一)

おそらく大抵の人が知っている有名なシーン。
当時は内外から「尾張の大うつけ」と評判になっていた織田信長の元へ嫁ぐ際、
父道三は濃姫に短刀を差し出し、こう言いました。
「信長が噂どおりのうつけなら、これで奴を刺し殺せ」
それを受け取った濃姫がほほ笑んで一言。

「あるいはこの刀がお父様に向くかもしれませんよ」

うわ、かっこえー。
…これ真意の程は定かでないですが、二人の性格から戦国時代の父娘・夫婦関係
をよくあらわしているエピソードだと思います。
道三はそうして下克上に成功してきた人ですし、濃姫もまた争っていた他家へ乗り込
む(嫁ぐ)自らの立場をよく理解していたと思います。

可愛がっていた(と思う)娘から刃を向けられる父親って、現代感覚では理解し難いこ
とですが、むろん本意でないとはいえお父さん的にはしっかり教育でき、よく育った、
というところでしょうか。
いいですね~、この二人。

後に道三が珍しく婿の信長に会見を申し込むこととなる(注)のは、おそらく濃姫から
の情報に興味を持ったからでしょう。
伝えられる情報は別れの際の発言そのまま、彼女が織田方の人間になったことを示唆
していたと想像されます。
濃姫も聡い女性だったようですが、信長のが上手であったのでしょう。
「娘が認めた婿殿に会ってみたいものだ」
おそらく、両者の会見はそんな道三の茶目っ気が起こしたと思われます。
そして、会見後の彼は信長をたいそう気に入り、美濃を進呈するという遺言を残すことと
なるのです。

この濃姫さま、嫁ぐ前後までは歴史に顔を見せていましたが、美濃攻略後あたりから、
ふと姿を見せなくなってしまいます。
最大の理由は子が生まれなかったためです。
子を生んでいれば「~の母」という具合に名が記録として残りますが、そうでない限り歴
史からは姿を消してしまうのが当然なんですね。

途切れた濃姫さまのその後には諸説あり、離縁・病死・出家などがあります。
信長は完全な合理主義者でした。
それゆえか、女性を大事にするエピソードがいくつか残っています。ここで注目すべきは、
子供が産めるという側面だけでなく「家において必要な存在」である(家庭を守るみたいな)
という認識があったらしいところです。

そんな信長だから、たとえ子供を産めないとはいえ正室の濃姫を遠ざけるようには思えま
せん。
そのため、可能性としては病死、出家というところですが、安土城炎上の際「蒲生氏郷」に
守られて脱出し、その後次男「織田信雄」の元で余生を過ごした「安土殿」こそ濃姫ではな
いか?という説もあり、織田家で生き続けた可能性も高いようです。

あるいは…。
本能寺が灰燼に帰した際、濃姫は信長と共にあり、そこで倒れた。
これは歴史小説などに見られる話ですが、そんな最後なら素敵ですね。


(注)聖徳寺の会見
行軍中はうつけな格好の信長が会見時には正装で現れたこと、織田軍の槍の長さ・鉄砲
の数に圧倒されたことから、道三は自分の死後息子たちが信長の軍門に下ると予言します。

…とまあ、そんなエピソードは置いといて、この時代はいちいち舅と対面したりしません。
だいたいは途中の国境まで護衛され、そこで嫁ぎ先へ引き渡して去るだけです。
ちなみにこの会見のエピソードなども史実かどうかは実際微妙ですが、特に真実を追求する
サイトではないので、無視します。↑この方が楽しいしね!


[住所] 大徳寺総見院 北区紫野大徳寺町
※総見院には濃姫さまの墓以外に信長の墓・徳姫の墓などがあります。
 通常非公開なので注意。(毎年10月第1日曜日~12月第1日曜日に公開)


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