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半兵衛、秀吉のもとで活躍する「竹中半兵衛重治」3

2006年07月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は秀吉の出世を影から大いに助けたといわれる異色の戦国武将、軍師「竹中半兵衛重治」についてです。
成り上がりながらそれを鼻にかけず、実に気さくで愛嬌と抜群の行動力を持つ、後の太閤秀吉との出会いは、彼を歴史の表舞台に再び舞い戻らせることとなるのでした。


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※ちっちゃいですが、↑竹中さまの肖像画です。柔和な雰囲気よ。


織田家に仕えることを承諾した半兵衛重治ですが、なんと、彼は秀吉の配下になることを条件としたのです。

…どうですか?
いきなり出した条件が陪臣(※家臣の家臣)にしてくれ、というものなのです。
この時点で、既に出世に興味がない、と言い放っているようなものなのですよ。

当時の秀吉はそれこそ家臣団の末席の最後尾くらいの身分でしたから、実利への無関心さが伺えるでしょう。
それと同時に、秀吉のことを高く評価していたと言えると思います。

当時の秀吉配下は(おそらく)弟の秀長や浅野など親族衆、蜂須賀小六や前野長康といった地方豪族のみでしたから、正式な軍学と教養を身につけたこの「竹中半兵衛重治」の存在は非常に大きいものだったと想像できます。

それこそ局地戦には強いものの、的確な戦略を立てれなかった劉備が孔明を得たようなもんなんです。結局、後々でそういった脚色したくなるような、いくつかの共通点があるんですね。この二人(四人)ってーのは。


さて、秀吉についた重治はその下で大いに活躍したようです。
ようです、と微妙な言い回しにしているのは、彼の功績がほぼ残っていないためなんです。…というより、故意に削除したであろうことが推察できます。
これまた彼の性格によるものが大きいんですが、詳しくは後の「黒田孝高」とのエピソードで伺い知ることができますので、そちらにて説明しましょう。

戦場に出た彼は牛(!)に乗り、悠々としていたと言われています。
各地の戦場へ送られる秀吉に従い、浅井・朝倉との対決から近畿・中国制圧戦などに参加していたようです。

あるとき、北陸への出陣を命ぜられた秀吉は軍議の際に家老「柴田勝家」と対立。立腹した秀吉は軍を反転させ、勝手に自領へと引き返してしまいます。

当然ながら烈火のごとく怒った主君「織田信長」は彼に謹慎を命ずるんですが、城へ戻った秀吉は連日連夜能楽師などを呼んでどんちゃん騒ぎをするんです。
謹慎中に馬鹿騒ぎをする主人を心配した秀吉配下の家臣団は直接諌言に向かいますが、
「いままで西に東にと忙しくて遊ぶ暇もなかった。ちょうどいい機会だからお前らも好きに羽根のばせ」
とかなんとか言って、まったく取り合わないんですね。

どうにも対応に窮した家臣団は重治を訪ねて諌めてもらうようにお願いするんですが、彼はにっこり笑ってこんな説明したといいます。
「怒られて神妙に引き籠もってしまうと、さては謀反でも企んでいるのではないか、などとおかしな風評が立つものです。その点、ああして大騒ぎしていれば、面白い、調子のいい奴だと思われるでしょう。…だから、あれでいいのです」
おそらく、発案は秀吉。周囲の状況も考え、大いに賛成したのが重治ではないでしょうか?

猜疑心が強いですが、同時に派手好きでもある信長の性格面。中国地方へ軍団長クラスの人間を派遣する機会がすぐにあるであろう点。さらには、北陸の合戦で手柄を立てたとしても、柴田のものになってしまうであろう実利的なところ。
それら全てひっくるめて、「よきお考えです」となったのでしょう。

このエピソードで見逃してはならない注目すべき点は、秀吉への諌言を最終的には重治に期待している所です。
秀吉軍団での重治は主人にキチンと意見ができる、まさに軍師というべき位置であったのです。

つづく

[関連記事]
⇒ 竹中半兵衛重治 (1)(2)


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