お寺さんぽ Ver.03

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万松寺の葬儀と奇行の魔王 (織田信行)3

2008年01月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は第六天魔王こと「織田信長」の弟、「織田信行」です。

守護代「大和守達勝」に仕える、三奉行と呼ばれた有力家臣の一人「織田信秀」
その「信秀」には兄「信長」、弟「信行」というわずか二歳違いの兄弟がありました。
親兄弟での争いも珍しくない戦国時代。
この兄弟も父「信秀」の死を切っ掛けとして、避けられない争いへと発展してしまうのでした。

天文二十年(1551)
不屈の闘志で東は今川勢、北に斎藤勢、と内外に脅威とされていた「織田信秀」ですが、その死は実にあっけないものでした。
なんと、疫病にかかって死去するのです。
享年は四十二。
その葬儀は織田家の菩提寺「万松寺(ばんしょうじ)」にて執り行われました。
かなり盛大なものだったらしく、「万松寺」には三百人という人数の坊主が集められたようです。

ここで弟「信行」は付き家臣である「柴田勝家」「佐久間盛重」を従え、折目高の肩衣と袴を身に付け、楚々としておったそうです。
…よくわかんないですよね。
まぁ、要するに、形式通りでキチンとしていたのですよ。

一方の兄「信長」は喪主であるにも関わらず、その場におりませんでした。
後見の「平手政秀」「林佐渡守」らの心配をよそに、なんと早朝から鷹狩りに出かけたっきり戻らなかったのです。
ちなみに、この「鷹狩り」というのも、親族の亡くなった日にすべきものではない様子なの(笑)

そんな訳で、「やっぱり大うつけ」という印象を葬儀という席上にて皆に印象付けるんですが、それだけでは済みませんでした。
なんと、「信長」は遅れて葬儀に顔を出したのです。
その服装は”長柄の太刀をしめ縄で腰に巻きつけ、茶筅巻きの髪”という、鷹狩りに赴いたそのままのものでして、おまけに礼儀作法を無視して、抹香を位牌に叩きつけたりしたのです。
(※これ定説ですが、実際はだいぶ誇張されてるのかもしれませんねー)
これには、周囲の者も驚くと同時に呆れ果てるのです。

さて、この行状を目の当たりにした弟はどう考えるのか。
おそらくは、
このような兄では織田家を背負って立つことができない。だから、代わりに自分がなんとかしなければならない
…きっと、こんなんでしょう。
何もしなければ一生兄の風下、家臣として仕え続けなければなりません。
織田家のため、という大義名分もあり、また自身がトップに立てるという欲望も叶えられるかもしれない…。
自分が行うことは結果的に良いこと
これは、若い「信行」にとって大変魅力的だった筈です。
さらに、彼の周囲にいる者たちも「兄があんな行状では、織田家の行く末は真っ暗だ。ここはしっかりとしている信行さまが後を継ぐのが良いのではないか?」みたいなことを噂し、実際当人に吹き込んでいたのだと思います。
単純に、礼儀正しい「信行」はそのまま聡明に映り、粗暴な「信長」はトンデモない人に見えたでしょうからね。

また、天文二十二年(1553)「平手政秀」が自害(諫死)したことも、信長が家中で孤立する要因となってしまうのでした。

⇒ つづく。
  次回は「尾張統一戦と画策する魔王の弟」

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※お城です。ぜひ、となりにゴモラを配置して飾って下さい(笑)



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