お寺さんぽ Ver.03

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本能寺跡地 (京都・中京区)

2006年03月04日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は歴史的にも有名な「本能寺の変」その場所です。

現在の本能寺は後に再建されたもので、場所もやや違っています。
石碑のあるここ(写真)がその場所です。
うっかりしてると通り過ぎちゃいますので注意!

さて、まずは当時の状況を見てみましょう。
当時の織田信長はまさに天下統一に向け着々と進んでおりました。
関東には武田を壊滅させ、関東管領として滝川一益が着任。
北陸には柴田勝家が謙信死後の内乱で疲弊した上杉と交戦を開始。
近畿には四国攻めに丹羽長秀が出陣準備を進め。
中国には毛利を羽柴秀吉が圧倒…。

そして家康は信長に招かれて京におり、明智光秀は接待役として共にいました。
信長の周辺はまさに空いていて、無防備だったのです。
まるでドーナツのように。

よく言われる野望説。
「当時は誰もが天下統一を夢見ていた」…って馬鹿言っちゃあいけません。
例えば、貴方が会社に入ったとして社長や会長を夢見ますか?
それとだいたい同じことです。

たいていの人は自分のことを過大評価しませんし、目標は実現しやすい程度のもの
を掲げるはずです。
当時の大名も同様で、北条家は関東の覇者を目論んでいましたし、島津は九州制覇を、
長宗我部は四国統一を目指していました。
おそらく、後に天下を受け継いだ秀吉・家康も信長が健在であるときには天下を望んで
いなかったでしょう。
そんなものですよ。

だから、ひでるさんは「勢いでやっちゃった」の怨恨説支持者です。

だいたい真面目でやや強くでれない(ような雰囲気)の彼ですから、ネチネチ苛められる
のにどうにも耐えられなかったんでしょう。(※補足参照)

天下の野望を抱くような人間が決行前におみくじ三回もひきますか?
当時は当たり前だった側室を持たず、生涯奥様一人にしますか?
各礼儀作法から茶の湯にまで通じたインテリがわざわざ主殺しの汚名を被ろうとしますか?

あの当時の信長は狂的側面を前にも増してよく見せていました。
そりゃ、おっかなかったんですよ。
林や佐久間といった旧来の譜代家臣まで突然追放したりしてますし。

当時、毛利の外交僧だった安国寺恵瓊が予言していました。
「信長はこのまま位を上げるだろうが、そのうちつまずいて転ぶだろう」
おそらく、光秀が実行しなくとも、誰かが同じことやったのではないでしょうか?



(補足)
光秀が信長に仕えたのは、もう自己をかえがたくなる四十歳近い頃でした。
…だから性格的に大きく相違があった場合、溝は埋まらないでしょう。
(んで都合悪いことに、むこうのがエライ)
ちなみに秀吉はだいたい二十歳中頃なので、比較的受け入れやすい年齢だったと思います。


[住所] 本能寺跡地 中京区蛸薬師油小路下ル


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