のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「海賊大名」の異名をとった「九鬼嘉隆(くき・よしたか)」です。
ついに完成した燃えない船、鉄甲船。
大砲三門に無数の鉄砲を装備し、船体に鉄板を張り巡らされた巨船。
当時日本へ来ていた外国人「ルイス・フロイス」らもその威容に驚いたらしいのです。
そんなんですから、当時の人はそれ以上にびっくりしていたことでしょう。
天正六年(1578)
無念の敗戦から二年後のこと。
再び本願寺一派の息の根をとめるべく、「九鬼嘉隆」率いる六隻の鉄甲船が堺へ入りました。
そうなんです。
コストがかかったため、建造できたのはわずか六隻なのでした。
そうこうするうち、本願寺の要請を受けた毛利勢は再び配下の村上水軍を派遣。
こうして、摂津木津川沖にて大規模な海戦が行われることとなったのです。
さて、前回の激突とは大きく違う点として、船は巨大であるものの織田勢はたった六隻。
対する村上勢はなんと六百あまりの大船団だったのです。
普通合戦と言えば数が最も重要でしたから、当初は誰の目からも毛利方の勝利は明らかだと思われていたのでした。
しかし、 結果はたった六隻の九鬼勢が一隻の船も失わなかったのに対し、村上勢は六百の大部分を沈められる という、大勝をするのでした。
「連邦のモビルスーツは化け物か?!」(※池田秀一さんの感覚で読んでね)
…みたいな感覚だったでしょう(笑)
こうして、九鬼勢は大勝利。
救援物資を絶たれた本願寺勢は孤立して急速に衰え、後に開城となる最大要因となるのでした。
この戦功によって、「九鬼嘉隆」は志摩七島など七千石を加増。
鳥羽に城を築き、伊勢志摩にて三万七千石を領することとなるのでした。
こうして水軍の将として織田家中で重きを成した嘉隆は、続く「豊臣秀吉」にも重用され、九州征伐や小田原合戦などに従軍。
水軍としては中心的な存在として、大活躍をするのでした。
そして関ヶ原では「二分の計」をとった真田親子と同様に、父・嘉隆が西軍、嫡男の「九鬼守隆」が東軍にそれぞれ属し、どちらが敗れても家名存続ができるよう取り計らった、と伝えられております。
嘉隆は慶長二年(1597)に隠居しており、守隆が当主となっておりました。
それから三年後、守隆が「徳川家康」に従って会津征伐に従軍しいた留守中の鳥羽城を嘉隆が奪取。
清和源氏を祖とする新宮城の「堀内氏善」らと結んで、西軍に属するのです。
それとは反対に東軍に属した守隆は結果として親子対立となり、両者の間で戦闘が繰り返されることとなるのでした。
しかし、三成の敗走が伝わると、嘉隆は志摩国・答志島内の和具へ逃亡。
家康に拝謁した守隆は自己の戦功を捨てて父の助命を願います。
許しを勝ち取った守隆が戻った際には時遅く、すでに嘉隆は自害していたのでした。
享年五十九。
なお、答志には首塚・胴塚が存在しております。
【 戦国メーター★九鬼嘉隆 】
家柄: ■■□□□ 祖先「藤原鎌足」ってのはウソっぽいので。
実力: ■■■■□ 水軍特化な方ですから、陸上とかでは微妙でしょうね。
地理: ■■■■■ 志摩国です。船もあるので、いいんじゃないでしょうか。
[関連記事] 【豊臣政権セット】
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※上記文中台詞の元ネタのパロディー本。
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本日は「海賊大名」の異名をとった「九鬼嘉隆(くき・よしたか)」です。
ついに完成した燃えない船、鉄甲船。
大砲三門に無数の鉄砲を装備し、船体に鉄板を張り巡らされた巨船。
当時日本へ来ていた外国人「ルイス・フロイス」らもその威容に驚いたらしいのです。
そんなんですから、当時の人はそれ以上にびっくりしていたことでしょう。
天正六年(1578)
無念の敗戦から二年後のこと。
再び本願寺一派の息の根をとめるべく、「九鬼嘉隆」率いる六隻の鉄甲船が堺へ入りました。
そうなんです。
コストがかかったため、建造できたのはわずか六隻なのでした。
そうこうするうち、本願寺の要請を受けた毛利勢は再び配下の村上水軍を派遣。
こうして、摂津木津川沖にて大規模な海戦が行われることとなったのです。
さて、前回の激突とは大きく違う点として、船は巨大であるものの織田勢はたった六隻。
対する村上勢はなんと六百あまりの大船団だったのです。
普通合戦と言えば数が最も重要でしたから、当初は誰の目からも毛利方の勝利は明らかだと思われていたのでした。
しかし、 結果はたった六隻の九鬼勢が一隻の船も失わなかったのに対し、村上勢は六百の大部分を沈められる という、大勝をするのでした。
「連邦のモビルスーツは化け物か?!」(※池田秀一さんの感覚で読んでね)
…みたいな感覚だったでしょう(笑)
こうして、九鬼勢は大勝利。
救援物資を絶たれた本願寺勢は孤立して急速に衰え、後に開城となる最大要因となるのでした。
この戦功によって、「九鬼嘉隆」は志摩七島など七千石を加増。
鳥羽に城を築き、伊勢志摩にて三万七千石を領することとなるのでした。
こうして水軍の将として織田家中で重きを成した嘉隆は、続く「豊臣秀吉」にも重用され、九州征伐や小田原合戦などに従軍。
水軍としては中心的な存在として、大活躍をするのでした。
そして関ヶ原では「二分の計」をとった真田親子と同様に、父・嘉隆が西軍、嫡男の「九鬼守隆」が東軍にそれぞれ属し、どちらが敗れても家名存続ができるよう取り計らった、と伝えられております。
嘉隆は慶長二年(1597)に隠居しており、守隆が当主となっておりました。
それから三年後、守隆が「徳川家康」に従って会津征伐に従軍しいた留守中の鳥羽城を嘉隆が奪取。
清和源氏を祖とする新宮城の「堀内氏善」らと結んで、西軍に属するのです。
それとは反対に東軍に属した守隆は結果として親子対立となり、両者の間で戦闘が繰り返されることとなるのでした。
しかし、三成の敗走が伝わると、嘉隆は志摩国・答志島内の和具へ逃亡。
家康に拝謁した守隆は自己の戦功を捨てて父の助命を願います。
許しを勝ち取った守隆が戻った際には時遅く、すでに嘉隆は自害していたのでした。
享年五十九。
なお、答志には首塚・胴塚が存在しております。
【 戦国メーター★九鬼嘉隆 】
家柄: ■■□□□ 祖先「藤原鎌足」ってのはウソっぽいので。
実力: ■■■■□ 水軍特化な方ですから、陸上とかでは微妙でしょうね。
地理: ■■■■■ 志摩国です。船もあるので、いいんじゃないでしょうか。
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