お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

実弟と直接対決する魔王 (織田信行)5

2008年01月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は第六天魔王こと「織田信長」の弟、「織田信行」です。

尾張統一に奔走する兄「信長」
しかし、織田家中ではまだ認めない者は多く、林兄弟らの策謀に「柴田勝家」も同調。
信長を排除し、家中でも評価の高い信行に家督を継がせる
…こうして担がれた「信行」は主だった重臣らと共に遂に挙兵するのでした。
そんな流れで勃発したのが、弘治ニ年(1556)の兄弟対決「稲生の戦い(いのうのたたかい)」なのです。

信行勢は「林佐渡守秀貞」、「林美作守」、「柴田勝家」など織田家中の主だった将らの支持を受けております。
それに対し、信長勢は「佐久間盛重」「佐久間信盛」らと直属の手勢のみで、両軍は倍以上の兵力差があったようなのです。
合戦前では、完全に信行勢優位でありました。

…逆に言えば、後の英雄「織田信長」がこの時点ではどれだけ支持を得ていなかったか、分かると思います。
兵力に勝る信行勢はさかんに押して戦を優位に進めていました。
しかし、名塚砦を堅持し続けた「佐久間盛重」らの活躍、また信長本隊が直接「林美作守」隊を討ち取り壊滅させたことで事態は逆転。
信行勢は総崩れとなったのです。

末盛城に籠もった「信行」は信長勢によって包囲。
母である「土田御前」の取りなしにより、降伏した「信行」は清洲城にて兄「信長」と対面し、許され助命されるのでした。
この際、「林佐渡守秀貞」、「柴田勝家」ら計画立案した主だった者も揃って謝罪。
忠誠を誓っております。
勝利が疑いない戦況からの敗北は「織田信長」という人の実力を見せ付けられたことでしょう。
それを肌で感じた根っからの武人である「柴田勝家」とは違い、「信行」はうつけ者という兄の固定イメージが払拭できなかったようなのです。
もはや兄弟ではなく、敵対する邪魔な存在だったのでしょう。

弘治三年(1557)
再度謀反を企てる「信行」ですが、それは事前に「柴田勝家」によって密告され露見。
二度目は容赦せず、信長の居城清洲城へと誘い出され、謀殺されるのでした。

好きになった相手が実は離れて暮らしていた肉親だった、という悲劇があるのの逆。
いくら肉親でも、離れて暮らしていたことで”血のつながりあるだけの他人”となってしまったのではないでしょうか。
しかも、そいつは自らの両親とずっと暮らしてきたのです。
あまり肉親の愛情に恵まれなかったらしい「信長」にとって、「信行」は弟であるよりも憎い相手だったろうと思うのです。
まぁ、わかんないですけどねー。

おまけ。
その「織田信行」の子「津田信澄(つだ・のぶずみ)」は許され、永禄七年に元服して津田姓を称しました。
「信澄」は信長の武将として各地を転戦。
「明智光秀」の女婿となり、近江大溝城を与えられるなど活躍していました。
「一段の逸物」であったという説もありますが、そんな経緯を見るとあながち信憑性は高いのかもしれません。
しかし、信長三男「織田信孝」「丹羽長秀」らと共に四国征伐の準備中、「本能寺の変」が勃発。
「明智光秀」の縁者であったため、そこで殺されてしまうのでした。
しかし、親子揃ってあまり幸福な結末は迎えられませんね。

【 戦国メーター★織田信行 】
 家柄: ■■□□□ 守護代織田家とも無関係ですし、大した家柄ではありません。
 実力: ■□□□□ 見る限り大したものではないみたい。それを発揮する前に自刃。
 地理: ■■■□□ 諸勢力がひしめく尾張内部、東に今川・北に斎藤と強敵が控えているので。


[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


柴田勝家―ひたむきに戦国乱世を駈け抜けた男 (学研M文庫) 柴田勝家―ひたむきに戦国乱世を駈け抜けた男 (学研M文庫)
安西 篤子 (2002/03)
学習研究社

この商品の詳細を見る
※そんなこんなで柴田勝家くん。
 この人、秀吉とはウマが合いませんでしたが、絶対にイイ人ですよー。


最新の画像もっと見る