お寺さんぽ Ver.03

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織田家と魔王の弟 (織田信行)1

2008年01月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は第六天魔王こと「織田信長」の弟、「織田信行」です。
信長が語られる時、尾張統一戦はすっ飛ばされて「桶狭間合戦」となることが多く、あまり名が出ませんね。

戦国時代の兄弟関係ってのはなかなか難しいもので、島津・北条家のように一致団結した例もありますが、伊達・上杉家のように対立することも珍しくなかったのです。
こちら織田家でも、同様に対立することとなってしまうのでした…。

まずは織田家から。
後に「織田信長」が称していた平氏、(あるいは藤原氏とも言っていた)というのは、詳細不明。
これは当時の武士にあった源平交代思想が影響しているだけのことみたい。
(※平清盛[平氏]→源頼朝[源氏]→北条氏[平氏]→足利氏[源氏]→だから次には平氏となるのです)

ある程度確かなところでは、越前・織田荘の荘官(しょうかん:領主の命を受けて、年貢の徴収・治安維持などの任務を遂行していた者)、あるいは剣神社(※福井県丹生郡織田町金栄山鎮座)の神官。
越前守護だった斯波氏は尾張守護も兼ねることとなり、「織田伊勢入道常松」を尾張の守護代に任命しました。
これが応永七年(1400)のこと。

その「織田常松(※常昌とも)」は兄弟の「大和守常竹」も守護代に任命。
これがため、伊勢守系統(上尾張)、大和守系統(下尾張)という二派が支配するようになった切っ掛け。
…もめる原因なの(笑)

その、下尾張守護代である「大和守常竹」にいつからか仕えていたのが、「織田信定(※信長の祖父)」、そしてその子が”三奉行の一人”としてほぼ尾張の実権を握っていた、「織田信秀(※信長の父)」その人だったのです。
なお、守護代「織田大和守」らと同じ織田姓ではありますが、それら織田氏との関係はあやふや。
現在の調査では”繋がりはない”という説が有力のようです。

さて、そんなこんなで戦国期の尾張情勢です。
尾張国の守護大名は管領家「斯波氏」でした。(※いわゆる三管領の一家ですよ)
その斯波氏は分裂・対立し、最悪の市街戦「応仁の乱」が拡大した要因の一つとなっておりますが、内部争いを続けた結果どちらの勢力も大いに衰退していたのです。
こうして、尾張という地盤をしっかり確保していた守護代「織田氏」がその実権を握っていくのでした。
いわゆる下克上なんですね。

さて、その尾張ですが、上四郡は岩倉城「織田伊勢守」、下四郡は「織田大和守達勝」が支配しておりました。
下四郡支配の「織田大和守達勝」には”三奉行”と呼ばれる有力家臣三名が支え・仕えておりました。
その一人が勝幡城を本拠とする信長の父「織田弾正忠信秀」だったのです。
こちらもまた下克上なのでした。

⇒ つづく。
  次回は「魔王の父と二人の息子」

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※最近は源平合戦らにも興味があるひでるです。
 総勢186名だそうですよ!ほしいですね!!



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