真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 トルコ風呂とカウンセリング、そしてピンク映画についての本質論的考察である。ええと、切りがないゆゑツッコミは一切受け付けない。

 人並みの健康な性欲を持ち合はせつつも、具体的日常的な恋愛対象の欠如につき、要は女に不自由してトルコに行く、トルコに通ふ男が居る。金で束の間の恋愛を、否、金で恋愛感情を伴はぬ女の肉を買ふ男が居る。一方、あれやこれや思ひ悩み、くさくさ気を患ひ、カウンセリングを受けに行く者も居る、カウンセリングに通ふ者も居る。
 トルコ通ひと同列に論じられては心外だと、被カウンセリング側の心情を害してしまふやも知れないが、その程度の立論の中に於ける無理、もしくは瑕疵はこの先の暴論、更には詭弁の果ての最終的に底の抜けた着地点に比べれば、まるで瑣末なものである。開き直るにもほどがある。

 女に不自由してトルコに通ふ男が居る。まゝならない、不自由な心を抱へてカウンセリングに通ふ者も居る。どちらも己が内の不自由、に対処する為にトルコ、もしくはカウンセリングを利用する。
 ATフィールド内側の間合ひで話を進めるが、女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、女に不自由することのない男や、心中に外部装置による療法を必要とするまでの病巣を特には抱へない者と比べた場合、一応は明らかに劣位に属する。もう一度断つておくが、私は今、最短距離の更にこちら側で話を進めてゐる。要は、女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、世界に一本の線を引いて選別するならば、ダメ人間である。
 話は変りはしないが、一旦逸れる。田恆存が残した中でも必殺中必殺の名評論に、「一匹と九十九匹と‐ひとつの反時代的考察」(昭和二十二年二月)がある。文学と政治について、文学と政治、そのそれぞれの果たすべき役割について論じた評論である。
 「なんじらのうちたれか、百匹の羊を持たんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねらんや」、と新約聖書ルカ伝の一節を引用した後、田はかう述べる。
 「文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか」。
 行きつ逸れた一匹のダメ羊のことを、残りのちやんと群れの中でお利口にしてゐる九十九人のことを打ち捨ててでも何とかして、どうにかして救はうとするのが文学である。思想の責務である、宗教の仕事である。絶対に田は首を縦に振らないくらゐにまで外延を拡大すると、更にロックである、映画である。
 対して、ひとまづはちやんと群れの中でお利口にしてゐる九十九人の面倒をキチンと見ることが、政治の役割である。より最終的には、百人中最低五十一人に飯を食はせ、服を着せ、雨風をしのげる住居に住まはせることが、政治の仕事である。行きつ逸れた一匹のダメ羊のことなどは初めから無視して済ますことも、この際政治には許される。
 即ち田は同時に、文学が残りの九十九人の面倒まで見ようとすることも、一方政治が行きつ逸れた一匹のダメ羊をも救はうとすることも、越権であり僭越であり、侵害であると断ずる。
 話を戻す。女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、共にダメ人間である。そして、トルコはカウンセリングは、さうしたダメ人間の為に世界が、より判り易くいふと社会が用意した装置である。
 世界(もしくは社会)を百人の集団に喩へる。女に不自由する男も、不自由な心を抱へる者も、九十九人の何だカンだとはいひながらも一応はキチンとしてゐる群れの中から、零れ落ちて行きがちなダメ人間である。明後日の方向に、やゝもすると行きつ逸れてしまひさうになるダメ人間である。トルコもカウンセリングも、世界が彼等の、彼等と彼女等の為にあつらへた装置である。彼等が、彼等と彼女等が(群れから)零れ落ちてしまふのを、行きつ逸れてしまふのを防止する為の装置である。女の不自由と、心の不自由とをよしんば一時的ではあるにせよ解消し、九十九人の群れの中にとりあへず居させておく為に、トルコもカウンセリングもあるものである。
 即ちトルコに通ふ男も、カウンセリングに通ふ者も、何だカンだとはいひながらも未だ一応は(九十九人の)群れの中に居るのである。世界の、社会の中に踏み止まつてゐるのである。
 
 対して、女に不自由しつつも、不自由な心を抱へつつも、トルコに行きもしない男が居る、カウンセリングを受けもしない者が居る。より正確にいふ。さういつた者は、実はトルコに行けもしない男である、カウンセリングを受けられもしない者である。己が内の不自由に苦しみながらも、本気で零れ落ちると、本域で行きつ逸れた場合、世界内の、社会内の成員をケアする為の装置を利用することすら、最早叶はなくなつてしまふのである。
 女に不自由する男も不自由な心を抱へる者も、トルコに通ふ男もカウンセリングに通ふ者も、共にダメ人間である、弱き者である。対してトルコに行きもしない男は、カウンセリングを受けもしない者は、トルコに行かないからといつて、カウンセリングを受けないからといつて、弱くないのではない。トルコに行けもしないのである、カウンセリングを受けられもしないのである。即ち、更に弱いのである。そりやあもう、どうしやうもないくらゐに弱いのである。病院にまで自力で辿り着けないくらゐの重病人、と喩へたならば少しは判つて頂けようか。
 オチは薄々見えつつあるが、小生ドロップアウトはトルコに行きもしない、カウンセリングを受けもしない。生きてゐるだけで死にさうに苦しみつつも、トルコに行けもしない。カウンセリングを受けられもしない。さうして私は独り、どうしてゐやがるのかといふと、ピンク映画を観に行つてゐる。
 ピンクも装置のひとつではないか、さういふ人もあるやも知れない。どうだか。実も蓋もない物言ひを平然としてしまふと、あんなもの、この期に真面目に観てゐる方がどうかしてゐる。いい映画も、美しい映画もその玉石混合の中には含まれてゐないではない。も、玉石混合はあくまで玉石混合である。玉よりはクソの役にも立たない石つころの方が圧倒的に、決定的に断然多いに決まつてゐる。それは何事につけてもさうである、とするのがいはゆるスタージョン・ローなのであらう。が然し、ピンク映画ほど玉石混合の玉石混合ぶりが甚だしいジャンルといふのも、他には滅多にないやうに私には見受けられる。平気で導入部の最も重要なシークエンスがバッサリと抜け落ちてしまつたやうな、破天荒なプリントで堂々と上映してゐるやうなジャンルである。繰り返すがあんなもの、真面目に観てゐる方がどうかしてゐる。モンドやキャンプの領域で笑ひ混じりに語られる、あれやこれやのクズ映画やゴミ映画、B級C級Z級映画の類は、しばしば児戯に等しく私の目には映る、小林悟を通つてから出直して来い。私はどうかしてゐるので、ピンク映画を観てゐるのである、ピンク映画を観てゐるだけである。

 トルコに通ふ男が居る。カウンセリングに通ふ者が居る。トルコに通はずに、カウセリングにも通はずに、要はトルコにもカウンセリングにも通へずに、ピンク映画館に通つてゐるドロップアウトが居る。トルコ通ひもカウンセリング通ひも、まだまだ大丈夫、全然大丈夫、人として。それが結論である。


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