【岸辺の椅子】

【岸辺の椅子】

朝の大通り裏を「ちびまる子ちゃんグッズショップ」がある「エスパルスドリームプラザ」まで歩いた。居酒屋「みき」さんがあった場所もすでに更地になっている。

ドリームプラザに着いて時計を見ると開店時刻までまだ数分あるので展望デッキに出て潮風に吹かれてみた。

母親が他界して無人になった入江町の実家を片付けるため清水通いした数年間、早朝の清水に着いて気分がクサクサするとよくここに来た。

この世とあの世が接する海辺という境界に、こうして人が自由に腰掛けて休める場所が、商業施設として維持管理されているのはたいへんなことだと思う。この場所があるから友人たちも月2回の早朝朝市を開いて出会いの場所にできている。

好きな場所をえらんで腰を下ろせることが嬉しい「祖父友蔵」のような年齢に、いつの間にか自分もなっている。

(2023/05/17)

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【ひゃっほう】

【ひゃっほう】

清水の友人から送られてくる郵便物や荷物には一筆箋がわりとして、『ちびまる子ちゃん』のブロックメモのようなものに手書きされた短信が添えられている。なるほど、これはいいなと思ったのでマネすることにした。
「『ちびまる子ちゃん』が好きなんですか?」
と聞かれたら
「ああ、清水出身だもんで」
と清水弁でこたえられるし。

朝の新清水駅前にしずてつ電車で降り立ち、歩いて用事を済ませながらドリームプラザに寄り道し、午前 10 時開場を待って入店し、ブロックメモを三冊買った。レジでお金を払ったら、若い女性店員が
「ありがとうございます」
と笑う。あらかた孫への手土産を買ったと思われたのだろう。

(2023/05/17)

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【朝顔日記】

【朝顔日記】

東海道江尻宿(現在の清水)を過ぎ巴川にかかる稚児橋を渡り 150m 程進むと、東海道と久能道の別れ道。久能道に入って数軒目に有った八百屋がちびまる子ちゃん作者さくらももこの家。僕が生まれた家はその先 150m 程の場所にある。この二股の角にあたる部分に紫雲山法岸寺という古い寺があり敷地はかなり広い。どれくらい広いかというと、150m 離れた僕の生家の玄関を入り、ずずずいっと奥まで突き進み、汲み取り式時代にトイレがあった場所の小窓を開けると法岸寺の墓地だったりするくらい広いし、かつては寺の敷地内に法岸寺湯という銭湯があったくらいに広いのだ。

夏には御本尊のおわす本堂前に白い布を張って近所の子どもたちのために映画大会を催したりし、銭湯とも合わせて地域との繋がりの深い不思議な寺だったが、申し訳ないことに映画大会以降四十年近く境内に足を踏み入れたことも無かったりする。

僕はヘビースモーカーなのだけれど生家に帰省すると喫煙はしない。母親が少女時代に患った結核のため片肺であるせいもあるけれど、パソコンの前を離れ、インターネットの見えない線を断ち切るとストレスフリーになるせいかあまりタバコも吸いたくなくなるのだ。転地療養みたいなものでタバコをやめられそうな気もするし、下が高すぎる血圧も下がるかもしれないのだけれど、収入も比例して下がってしまうのでそれもかなわない。命を取るか金を取るか、祖母の口癖みたいだ。
11 月 30 日からの清水帰省、12 月 1 日はちょっと思うところあって喫煙したくてたまらなくなり、ぶらっと早朝の法岸寺を歩いてみた。

入江まちづくり推進協議会が立てた案内板があって、この寺には浄瑠璃『朝顔日記』のモデルとなった深雪の墓があるという。若い頃数奇な運命を辿った深雪……という解説が気になって仕方ない。メール友達によれば僕はフェミニストだし、回文師匠の坊さん(医学書院編集者)によれば「女のみならず自分に甘い男」だそうで、ことのほか数奇な人生を歩む女性に弱かったりするのだ。

『朝顔日記』というのは通称、山田案山子(近松徳三の別号)遺稿、翠松園主人校補による五段続きの時代物で 1832(天保三)年 、大坂竹本木々太夫座初演。江戸時代に大人気を博した演目だという。
深雪の数奇な運命を、淡々と箇条書きにしてみよう。

■宮城阿曽次郎、憎の月心と宇治川にて蛍狩り。
●秋月弓之助の娘深雪、同じく蛍狩りに宇治川へ。
▼狼藉をはたらかれそうになった深雪を宮城阿曽次郎が助ける。いいぞっ!
○これがきっかけで芽生える恋心!
■宮城阿曽次郎、深雪に請われて扇にすらすらとふみをしたためる。
 「露のひぬ間の朝顔を照らす日影のつれなきに、あわれひと村雨のはらはらと降れかし」
▼ふたり、再会を約し別れる。
▼宮城阿曽次郎と深雪、船にて帰国途中風待ちの明石にて再開するも嵐に見舞われ別れ別れに。
●国許では主君の命で深雪と駒沢次郎左衛門の縁談がすすむ。駒沢次郎左衛門が改名した宮城阿曽次郎と知らない深雪は家出する。
●その後、恋を貫くための苦労と悲しみから、深雪は失明。
■東海道島田宿に逗留中の駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)、悪者に毒殺されかかるも宿主の機転に救われ、その宿の衝立に書かれた朝顔の歌を見て深雪の手になるものと確信する。
■駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)、持ち主の瞽酎女(ごぜ)を招くと、朝顔と改名した深雪。
■駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)、名乗ることもできず扇に目薬と金を添えて宿の亭主徳右衛門に言づける。
●声で駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)だったと悟った深雪、後を追うが大井川の増水で川止めとなり、「しらなんだ、しらなんだ、しらなんだー」と号泣し悲嘆のあまり入水自殺を計る。
▼追いついた宿の亭主徳右衛門が制止し、自ら切腹しその血で目薬を飲ませると深雪の視力が戻る。
○駒沢次郎左衛門(宮城阿曽次郎)、深雪は祝言をあげハッピーエンド。

いわば「君の名は」みたいなすれ違いメロドラマ。最後の「宿の亭主徳右衛門切腹」のくだりが、迫力はあるけれど唐突だなぁと思われるかもしれない。実は宿の亭主徳右衛門にも深い事情があって話に奥行きがあるのだけれどここでは省略。

以下、入江まちづくり推進協議会の案内より。

「当法岸寺本堂左奥に浄瑠璃「朝顔日記」深雪のモデルと云われる人の墓があります。正廣院殿永安種慶大姉の銘があり、日向国(宮崎県)財部(現在の児湯郡高鍋町)三万石の城主、秋月長門守種長公の娘で四代目清水船手奉行となった旗本一七〇〇石山下弥蔵周勝の夫人で寛永十八年(1642)四月十八日に没し当寺に葬られました。夫人の青少年期は数奇な運命を辿って居り、この事が物語の筋になったと思われます。」

1642 年没というから、312 年後その墓の裏手で僕が生まれ、墓に面して設置された朝顔に向かって毎朝小用を済ませるという罰当たりな事をしていたわけで、これも深雪さんをめぐる運命の神のお引き合わせのような気もする……なんてわけないか。

朝のまばゆい光の中で深雪さんに合掌。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2001 年 12 月 3 日、20 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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◉はじめての清水

2018年9月5日
僕の寄り道――◉はじめての清水

新しく開設された JR 草薙駅北口(学園口)にはじめて降りてみた。「草薙駅の駅舎の改築工事及び南北自由通路の新設工事が完成し、平成 28 年 9 月 18 日(日)に供用開始しました」と静岡市の市政情報にあるので、すでに 2 年前にできていたわけで、自分にとっては「新しい」けれど郷里の人たちにとってはもう新しくない。

草薙駅北口に出てみたのは清水区楠の町を歩いて写真を撮る用事があったからで、そんな用事がなければ降り立つこともなかっただろうし、楠の町並みも生まれてはじめて歩いた。

 用事を済ませて草薙駅脇の踏み切りを渡り、JR 草薙駅南口(県大・美術館口)から静岡鉄道静岡・清水線の草薙駅に出て新清水行きの電車に乗った。車内放送がアニメ声なので見回したらちびまる子ちゃんのラッピング電車だった。

狐ヶ崎駅で降りて旧東海道を歩き、上原跨線橋を越え国道1号線を渡って国道警ら隊脇から清水区吉川に入り、堀込若宮八幡宮と吉川氏墳墓の写真を撮って狐ヶ崎駅に戻った。

狐ヶ崎駅から新静岡駅行き静鉄電車に乗ったら、またちびまる子ちゃんのラッピング電車だった。静岡駅南口、水の森ビルで郷土誌の編集会議に出席し、静岡市在住で同い年の女性に会ったので「今日はじめてちびまる子ちゃんのラッピング電車に乗った」と言ったら「わたし一度も乗ったことないんです」と言う。

は じ め て の 生 ま れ 故 郷 に 秋 の 風

(2018/09/05)


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【熱血!清水みなと】

2014年5月16日(金)

熱血!清水みなと

00
編集委員をしている郷土誌の編集会議が始まり、静岡に出かける前に気になっていた村松友視著『熱血!清水みなと』PHP研究所を読み返してみた。この初版本は 1983 年 6 月 24 日発行となっている。

01
日本の高度成長期は 1954(昭和29)年に始まって 1973(昭和48)年に終わったとされている。この本に書かれた、元気で威勢のよい村松節で語られる清水みなとの背景とは、いったいいつ頃なのかがあらためて気になったので読み返してみたのだ。村松友視は 1946(昭和22)年に清水に移り住んで岡小学校へ入学し、大学に入学するため 1958(昭和33)年に清水を離れている。

|飲み屋をやっていた母に貸したら客と回し読みしたらしく、常連からの伝言がはさまれていた|

02
清水みなとを舞台にして自分史的なものを書き、地元だけでなく広く世間に受け入れられた人といえば村松友視とさくらももこである。そのさくらももこは1971(昭和46)年に入江小学校へ入学している。

03
日本の高度成長期と清水の景気がよかった時代に微妙な齟齬があるのは、戦後間もない頃から「清水みなとに行けば何か仕事があるからなんとかなる」と言われて全国から人が押し寄せたように、清水の復興と経済成長は早い時期から始まっていたからだ。村松友視が岡小に入学した年に第一回清水みなと祭りが開催され、市民は復興の歓喜に湧いたのだ。

04
そしてさくらももこが入江小学校に入学した年にニクソン・ショック、いわゆるドル・ショックが起こって日本経済は大打撃を受け、1973(昭和48)年、日本の高度経済成長期が終わるのである。

05
しかしその時代の清水を新聞記事から追っていくと、ドル・ショックは影響なしということで様々な産業の好調が続いている。清水の経済はその後もほどほどに賑わいつつ緩やかに下降していく。それはさくらももこの代表作『ちびまる子ちゃん』に描かれているとおり。

06
岡小学校に入学した村松友視は高度成長時代へ至る右肩上がりの清水を描き、入江小学校に入学したさくらももこは高度経済成長時代からの右肩下がりの清水を描いたのである。

07
清水の高度経済成長時代というのは、寿司のようなドンシャリ型ではなく、なだらかな裾野を持つ富士山のような形をしていたのであり、それはこんなひどい時代になっても明るさを失わない清水っ子の気性に深い影響をあたえている…、かもしれないという話をしてきた。

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▼街とマンガ

新潟県新潟市東堀通1番町。
ラーメンの『青島食堂』前を通過していくバス。
この新潟市観光循環バスが通過する本町には
ドカベンに登場する選手たちのブロンズ像が並んでいる。



郷里静岡県清水には海外から
「イリエチョウハドコデスカ?」
とちびまる子ちゃんに関する問い合わせがあるそうで
僕が生まれた街も国際的になっているけれど
海外からわざわざ入江町に来てもちびまる子に関するものは何もない。

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【国道 1 号線静鉄鉄橋】

【国道 1 号線静鉄鉄橋】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 9 月 5 日の日記再掲

静岡県静岡市葵区古庄 3 丁目。

静岡鉄道古庄駅で下車し「コジマ+ヤマダ=静岡電気街」に行く途中、国道 1 号線を北東に歩いていたら静岡鉄道のガードが見えてきた。

子どもに限らず、男というのは大きな鉄のかたまりをみると思わず
「お~っ!」
という声が漏れたりし、女子は
「(なにが「お~っ!」なのよ)」
と言いたげな顔をしている。『ちびまる子ちゃん』でも父ヒロシやおじいちゃんはよく
「お~っ!」
と言っていた(気がする)。

男は何歳になっても巨大な鉄のかたまりを見ると興奮するのかもしれなくて、いつも渡っている静鉄電車の鉄橋の下に立てると思うと心なしか足早になる。

そして鉄橋がすぐそこに見えてきたら心の中で
「お~っ!」
と歓声が上がるのを抑えられない。

■静岡県静岡市葵区古庄 3 丁目。国道1号線にかかる静岡鉄道の鉄橋。
RICOH Caplio GX 

国道 1 号線を跨ぐために古庄駅を新清水方向に向かって発車した静鉄電車はカーブしながら盛り土のカタパルトを登って高架となり、そのまま一気に国道 1 号線、後久川(ごきゅうがわ)、東海道新幹線、東海道本線を連続交差で跨いで高架から平地へ下りつつ県総合運動場駅に入る。

その桁下 4.5 メートル連続交差一発目の鉄橋がすぐ目の前に近づいてくる。

「お~っ!」

■かなり古そうだけれど何年前にできたのだろうか。
RICOH Caplio GX 

クレーン電車がやってきてひょいっと持ち上げて走り去ったという、かつて軽便鉄道だった時代の静岡鉄道入江岡跨線橋もこのような簡素な構造だったのだろうか……と思いつつついに鉄橋の下に立つとやっぱりでかい。
 
「お~っ!」

■この上を今まで何度通過したことだろう。上を通過している時は「「お~っ!」と言わない。
RICOH Caplio GX 

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【1972 年のサッカーゴール】

【1972 年のサッカーゴール】

1972年入江小学校創立100周年を記念して撮影された航空写真を送っていただいた。

この人文字の中に当時1年生だったさくらももこがいるそうで、ということは日暮れまでちびまる子ちゃんの熱い視線を受けながら
ひたむきにサッカーボールを蹴っていた長谷川健太少年もいたわけである。

そういえば運動場にサッカーゴールが据えられており、東京の小学校などでは考えられなかった光景である。


清水市立第二中学入学式の日「このクラスの中に東京から来た人もいます」と教師が言ったら「ええ~っ!」と歓声が上がったが、多少羨望の眼で見られた…かもしれない「東京の子」はサッカーをやったことがないと知られた途端に「いなかっさー」になったのだった。

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【『かどや』】

【『かどや』】

港橋たもとの再開発ビルが完成に近づき、ぎりぎりまで旧店舗で営業を続けてこられた『かどや』さんが、お店のシャッターをおろされたので、もうあの『かどや』のおにぎりは食べられないのか……と思う人もいるらしい。

『かどや』旧店舗の取り壊しも近いのだろう。



『かどや』さんも「なくなってしまうのではないか」という誤解を受けないように苦心されているようで再開発ビルの1階でちゃんと営業を再開されるというカンバンを工事現場の壁に掲げての旧店舗での営業だった。

人は味のみを味わうわけではないので港橋たもとのあの古びた店舗で買ったおにぎりじゃなきゃ嫌だ……という人もいるかもしれず、
そういう人にとっては、もうあの『かどや』のおにぎりは食べられないのか……という感慨があるのかも知れない。

『かどや』ファンとしては漫画『ちびまる子ちゃん』に登場する『みつや』のように、幻のお店としてその姿をまぶたに焼き付けて
新しい『かどや』のおにぎりをいただくという高度な愛情が必要かも知れない。

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【再掲『まる子゛と清水』(1)】

【再掲『まる子゛と清水』(1)】

 
もくじ】

▶︎
物事にはすべて発端があるのだ
前書きにかえて
 

忘れもしない 1999 年、オオツゴモリの前日、世界があと一日でジ・エンドになってしまうのではないかと一部の人に思われていた日。オイルショックの際パニックになってトイレットペーパー買い占めに走りテレビの全国ニュースで大恥を晒した清水っ子の代表である私は、Y2K 、わいつーけーの言葉を交互に脳裏に点滅させながら、最後の晩餐の会場である金田食堂に向かっていたのである。

真冬のこと、開店時間の 5 時には既に辺りが漆黒の闇だ。大正橋たもとから見る巴川の水面 に映る家々の灯火はなんと美しいのだろう、たとえ「わいつーけー」で世界に終末が来なくとも、自分の人生の終末にはこんなに穏やかで美しく、そして物悲しく世界を見つめることができるのだろうかと、思わずにはいられなかった。

さっと暖簾を払ってガラガラっと引き戸を開けると、もう既に七分の客の入りである。店内を見渡すと、テレ下には爺さんの忘年会らしくグラスとお手元がずらりと並べられ、早めに着きすぎた二人組みがお預けを喰った犬のようにちょこんと座っていて可愛らしい。ババ前にも既に常連らしきオッチャンたちがビールを差しつ差されつしている。

「テレ下」「ババ前」というのはこの店独自の符牒で、「テレ下」は文字通 りテレビの下、「ババ前」のババは以前常連だった婆さんがいつも座っていた場所のことだ。よく「カウンタ1番さん」とか「テーブル2番さん」とか客を呼んでいる店があるが、私は好きではない。以前買い溜めた dancyu という雑誌を処分するにあたり膨大な飲食店リストをデータベース入力したことがあるが、札幌などの条理的な住所にはウンザリした。入力していてちっとも楽しくないのだ。「宮の前」とか「一本杉」とか「坂ノ下」とかの地名だと漠然とだがイメージが湧いてきて単調な作業も楽しい。「ババ前、鰹刺しとウナ肝、各一丁」などとオバチャンが声高らかに宣言してくれると、群雄割拠の戦国の世に「われこそはババ前なりー」と旗指し物を高々と翻したようでなんだか嬉しい。注文する度にババ前軍が次々に武将級の首をあげているようで誇らしくなるのである。

さらに「鰹の刺し身」「鰻の肝焼き」など品書きを読んで注文する度に、「鰹刺し」「ウナ肝」などと短縮形にして復唱してくれるのが嬉しい。注文にスピード感が付加されて、いかにも調理場にぶち込んだという気がする。注文のダンクシュートなのである。

カウンターの席がパラパラと断片化して冗長になっているところを整理するとなんとか3人掛けの席ができそうなのだが、カウンターの先客が頼まれもしないうちにツツツとずれて、あっという間に席を作ってくれた。これが良い店の特徴である。カウンターに座って脇の椅子に鞄やコートを置いておき、店員が頼まないと席を空けてくれないような客のいる店は、ろくな店ではないと思って間違い無い。

「あっ、どうもすみません」とお礼をしながら席に着くとすかさず瓶ビール 2 本を注文。「ま、ま、最初だけね」とか言い合って酌をし合い「今年もお世話になりました」と言い交わしてグビ~ッ。く~っ、たまんないねぇ。オバチャンがさっと鉛筆と小さく切った紙を置いて行く。最初の注文はゆっくり考えて紙に書きだして注文するのだ。追加注文はアイコンタクトをして口頭でダンクシュートをかますというわけ。あ~、いい気持ちになってきた。

左隣の中年夫婦風の 2 人連れを横目で窺うと、頼んでいるものが渋い。刺し身盛り合わせ、これは定番ね。そしてフライ盛り合わせ、う~ん賢いなぁ。そして黒はんぺん、う~ん通 だねぇ。出ました、鮪のカマの塩焼き、清水の鮪は生臭くないから、塩焼きがお薦め、憎いよっ、この。えっ、ご飯と味噌汁も貰っちゃうの。しかし、良く食べるねぇ、わいつーけーに備えて食い溜めかな。あらっ、目が合っちゃった、失礼失礼、こんなときはカウンターの本棚から本を取り出すフリをしてと。

あらっ、上田の無言館の館長の本だ。金田食堂さんへ、だって。清水に来ると良く寄るらしいんだよね。さすが、いいセンスしてるねぇ。おっと、さくらももこ編集の季刊誌『富士山』の創刊号、もう並んでるよ、たいしたもんだねぇ。こちらも、金田食堂さんへ、とサイン入り。えーっ、あのギャルもここへ来るの。ん、昭和40年生まれ、そうかもう三十路半ばかぁ。おおお、何と「まる子の郷里めぐり」第1回は「こくぞうさんと金田食堂」と来たもんだ。おっと、右隣の客がもう変わっているよ。回転が早いねぇ。なになに、『富士山』に「父ひろし」が載ってるって聞いて見に来たって。おじさん、ここ、ここ、さくらももこの親父、ひろしが浴衣でカラオケ歌ってるよ。「おお~っ、ひろしだ、ひろしだ、本当にひろしが載ってる~っ」。おじさん、懐かしいでしょ、東京に行っちゃったもんねぇ。仲良しだったんだろうねぇ。しかし、この店の登場人物って『ちびまる子ちゃん』の世界そのものじゃん。えっ、金田食堂の息子「かねやん」って、さくらももこの同級生なのかぁ。う~ん、知らなんだ。

富士山創刊号
新潮45別冊
2000年1月1日発行
新潮社
定価980円(税込)

そんなふうに、金田食堂の夜は更けていくのであった。そして私はハルマゲドンを目前にした夜に「父ひろし」の写 真を見ながら大喜びしているオッチャンたちを横目で見ながら、さくらももこ作「ちびまる子ちゃん」との出会いに思いを馳せるのであった。

あれは何年前だったろう。霞ヶ関にある某福祉関連団体の職員に、「ちびまる子ちゃん、知ってまっか?えっ、見てない?そりゃ清水出身者なら見なあきまへんわ」などと言われてしまったのである。まさか、あのマイナーな港町が全国的ヒットになっている漫画の舞台になっているなんて、きっとおちょくられているに違いない。そんな事を考えながらテレビをつけてみると、あらほんと。ヘタウマアニメの舞台がなんと清水市だ。それ以来、妻の軽蔑と憐憫のこもった視線を気にしながら、その番組を楽しみにするようになってしまったのである。

とはいえ、さくらももこは同じ清水市出身ではあるが11歳も年下なのだ。まるちゃんが小学校に上がる頃には私は既に高校生である。清水を遊び回ったと言ったって遊びの質が違う。こちとら、高校生時代にはさくらももこ邸(八百屋)向かいのビリヤード場でタマを撞きまくっていたのである。であるからして、近くて遠いとはこの事で、所詮世代の違う異星人と言う感慨しか作者に対して感じられなかったのである。お兄ちゃんから見れば、こんなやつ味噌っカスなのである。

しかし事態は気づかぬ間に変わっていたのだ。なに「こくぞうさんと金田食堂」だって? こくぞうさん(虚空蔵尊社)なら私だって大好きだし、大楠だって大好きだぞ、それに金田食堂と来たらあんた…。どうしてそんなに渋好みなのだ。そうか、35 歳と 46 歳じゃ共にオバチャン・オッチャンではないか。11年ったって四千日違いなだけで中国四千年の歴史からすれば耳くそみたいなもんだ。生家だって近いぞ。ためしに大股で歩いてみたら 178 歩しかなかったぞ。インターネット goo に接続し「石原雅彦」で検索すると 54 件もヒットするぞ、「さくらももこ」で検索すると、うわっ 2644 件もヒットしちゃった( 2000 年 1 月 9 日現在)。ま、どちらもヒットするだけ偉いぞ。ヒットすら打てなかった昨年の清原よりずーっと偉いのだ。

であるからして、私は決心したのだ。もし、「わいつーけー」になっても地球が存続して、晴れて 2000 年の朝に息を吹き返したらさくらももこ作「ちびまる子ちゃん」を副読本にしながら、郷土の耳くそぐらいの歴史の断層を発掘し、気宇壮大な天地創造神の鼻くそぐらいでっかい郷土 46 年史を書いてやるぞと。名づけて「ちびまるてき郷土史探検」※である。「きょうどし」という言葉にコダワリを込めた。「たつどし」とか「ふんどし」とかいう言葉と同じぐらい「ドシッ!」としているような気がするのだ。副読本を「ちびまる子ちゃん」にしたのも良いと思うぞ。こちとら高度成長の小学生時代から、ご都合主義的な歴史副読本の使い方には熟達しているのだ。無い歴史は俺が作るぐらいの意気込みで取り組みたいと思うぞ。いざ出発!と「ババ前」にて杯を天井高く差しあげる私であった。(※ホームページリニューアルに際してタイトルを変えた。郷土史探検と言ったって、書いても書いても郷土史にならなかったからである。「もう、何でもいいから書いちゃうぞ」との意気込みで『まる子゛と清水』とした)。

(続くのだ)

(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)

 
 
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【再掲『まる子゛と清水』(2)】

【再掲『まる子゛と清水』(2)】

 
もくじ】


◀︎▶︎
 
物事にはすべて
水没するくらい
深~い歴史があるのだ
 

清水と言えば「清水の次郎長」。次郎長は1820年元旦生まれだそうで(もちろん旧暦だけど)、その目出度さにあやかって、旅ゆけば駿河の国に茶の香り~と、広沢虎造の名調子にのってスタートすることにしよう。


この『東海遊侠伝』は、大正期に三代目神田伯山の講談、昭和に入って二代目広沢虎造の浪花節として、清水の次郎長の名を全国に知らしめたわけだが、この作者天田愚庵というのは実は次郎長の養子なのである。天田愚庵、幼名久五郎は 1854 年、陸奥国磐城平藩士の子として生まれ 15 歳で戊辰戦争に参加している。その後台湾に渡ったり、西南の役に参加したり、岩倉具視暗殺を画策したりと破天荒な生き方をしていたのだが、二十七歳の時、山岡鉄舟の口利きで清水の次郎長(当時六十一歳)の養子になったのだそうな。


そのおとっつぁん次郎長が六十五歳の時、博徒狩りに会って監獄にぶち込まれた際、助命嘆願書として二ヶ月かけて書き上げ、出版したのが『東海遊侠伝』なのだ。巴川沿いにある老舗割烹旅館玉 川楼のご主人府川さんによると、かつて栄寿座という映画館(今はもう無い。私は行ったことがあるけどまる子はどうだろう)で演じられていた講談『東海遊侠伝』(神田伯山だったのだろうか)が、当時巴川製紙で働いていた山田信一青年を感動せしめ、彼は一念発起して浪曲家となり次郎長の名を高めることになった。この人こそ二代目広沢虎造(1899-1964)なのだそうだ。

『東海遊侠伝』は子どもの頃から大好きなのだが(浪曲家になろうと思ったことはないが上手いぞ)、注意して聞いていると「稚児橋」という橋の名が登場する。旧東海道江尻宿(清水と言うのは後の地名)、今の清水銀座を駿府方向に進み、魚町稲荷神社( 1578 年、武田の武将穴山梅雪が創建)にぶつかるところを旧東海道に沿って左折すると巴川に行き当たる。ここに慶長 12 年( 1607 )に架けられ、昭和 40 年代、まる子が幼稚園に通 うために毎日渡ることになる橋が稚児橋なのだ。この橋を渡り緩やかに登りながら 150 メートルほど進むと四つ辻がある。この 150 メートルほどの間にちびまる子ちゃんおなじみのキャラクターが大勢住んでいた。この四つ辻は、三つ辻のように思われがちで、残る 1 本の細道が重要な道だったりするのだが、こちらは後述。しかし清水市にはこの交差点の信号システムを見直してもらいたいぞ(帰省の度に事故を起こしそうになるのだ)。まっすぐ進むと久能街道。右方向が旧東海道である。旧東海道を進むと左に創業元禄八年、徳川十五代将軍慶喜も大好きだった(もっくんはどうかな?)という追分羊羹がある。当然私は慶喜君級の愛好者である。


旧東海道には進まず久能街道を25メートルほど進んだ左側がちびまる子ちゃんの生家の青果 屋である。そしてここから大股で 178 歩ほど歩いたところ、久能街道を 120 歩くらい歩き左の渋谷酒店前の小路を右折して 58 歩ほど歩いたところに私の生家があるのである。久能街道を右折せず真っ直ぐ 100 メートルほど進むと静岡鉄道を跨ぐ跨線橋があり、そこが入江岡駅、渡る手前右側の大楠がさくらももこが根元で煙草を一服した(『富士山』創刊号、98 頁参照)こくぞうさんの御神木なのである。


というわけで、この入江町界隈はなかなか歴史的に由緒ある場所なのだと得意顔になりたいところだが、時計の針を 4000 年ほど逆転すると(これは大変な作業なのだ)、ありゃりゃ、一帯すべて海中に没してしまう。かつて清水市を襲った七夕豪雨でまる子が通 った入江小学校が冠水したことでも土地の低さがわかろうというものだ。邪馬台国から平家滅亡ぐらいまでの古代、東海道ははるか上流、今の能島辺りを通 っていたのだ。ということで古代以前の歴史は地質学的にしか存在しないのだ。だが決して卑下することはない。あのヒマラヤすら、かつては海底にあったのだから。

(続くのだ)

(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)

 
 
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【再掲『まる子゛と清水』(3)】

【再掲『まる子゛と清水』(3)】

 
もくじ】


◀︎▶︎
 
子供には子供の
けもの道があるのだ
 

私、ちびまる子ちゃんは、妻に隠して『特製ちびまる子ちゃん』という上製本を全巻愛蔵しているのである。何も隠すことは無いと思うのだが、「俺が稼いだ金で『特製ちびまる子ちゃん』を買って何処が悪い!」と言うのは、どうにも気恥ずかしいのである。そんな後ろめたい愛蔵本なのでなかなかオオッピラに読むことができない。いや、ほとんど読んでいないと言って良いだろう。テレビの方だって長いこと見ていないのだ。よくテレビで妻や娘に軽蔑と憐憫の目で見られている駄目親父が出てくるが、私にはあれは堪えられない。尊敬の目で見られることを切望するなどもってのほか、むしろ強要したいくらいなので、小脇に『特製ちびまる子ちゃん』を抱えているわけにはいかないのである。

この文章だって、こっそり書いているのだが、副読本に『特製ちびまる子ちゃん』を選んでしまったので、読まないことにはどうにも話が前に進まない。ということで仕事をするフリをしながら、こっそり膝に乗せて読んでいたりするのである。気持ちだけ夏目漱石になったようなつもりの親父が、膝に孫のまる子をのせて文机に向かっているようなものなのだ。

そんな肩身の狭い思いをしながら『特製ちびまる子ちゃん』第 1 巻第 1 話を読み始めた。早速懐かしの店が登場し、私は「おお、みつやだ、みつやだ」と、まる子を膝から落としそうになってしまった。独特の省略法で空き地に立つ一軒家のように描かれているが「みつや」の感じは出ている。中途半端に細部にこだわらない点がいいと思うぞ。昔見たグルジアの画家、ニコ・ピロスマニの伝記映画みたいだ。

清水出身の名助手「清水のワトソン君」が収拾した情報によると実際にまる子が良く行った店は「みつや」では無く別の店なのだそうだ。だが「みつや」をモデルに選んだのは正解だと思うぞ。「みつや」は今でも現存して、まる子の焼き印を押した饅頭などを売っているが、漫画に出て来るように可愛らしいたたずまいの店なのである。

実は入り組んだ話だが、まる子の家から 178 歩の所にある私の生家は私の家ではなく、1 歳年上の従兄の家だったのである。自分の家ではないのに、その家で生まれた子供は私だけという不思議な事情があるのだが、ここでは省略。やがてその親戚が転居することになり、生家はめでたく我が家のものになったのである。その為、私はまる子の通った入江小学校には行っていない。清水のワトソン君の説によると集団登校は旧東海道の道路事情が悪いため、裏通りを通ることになっており、とすると、まる子の通学路はは我が生家の前の道だったのではないかと思うのだ。というのは、旧東海道と我が生家の間には法岸寺という大きなお寺があり、この寺の中を通り抜ける裏技が無い限り、我が家の前を通るしかないのである。

さらにワトソン君のお手柄なのだが、まる子が良く行っていたお菓子屋は、仲間うちで「バン」と呼ばれていたのだそうだ。それを聞いて、頭の中に垂れ下がったままになっていた蜘蛛の巣をはらったように、懐かしい景色が目の前にマザマザと浮かんで来たのだ。

我が家の近所で私が小遣いを消費した駄菓子屋は 3 軒ある。1 軒目は「あおやま」といい、旧東海道沿い、「みつや」より 1 本まる子の家に近い小路の角に有り、ここは多分静岡おでんや「ばい」「ながらみ」など、当時のファーストフード的なものが美味しいお店だった。現在も日本料理の「青山」というお店として営業しており、今度行ってみたいと思っている。

もう 1 軒は「とのぎ」と言って法岸寺の敷地内にあった「法岸寺湯」という銭湯の入り口右手にあったと思うが、今は無い。そして我が家の前の小路を 50 メートル程入江小学校の方向へ進んだ左側にもう 1 軒の店があり、仲間うちで「バンノミセ」と呼んでいたような気がするのだ。バンは、まさか当時流行のメンズブランド「 VAN 」では無いと思うので、「伴」だったのかもしれない。「 VAN 」ならエビスヤ、「 JUN 」ならアカシだったのだ。この道が通学路だったとすると見事に説明がつくではないか。ただし、この店が「バン」だったとすると、残念ながらもう無い。

しかし、当時の子供の社交場は見事に消滅してしまっているのに驚く。今の入江町の子供たちは小腹が減ったら何処で給油するのだろうか。大都会ならマクドナルドやミスタードーナツがあるのだが、このあたりにはセブンイレブンやローソンも無いのである。いや、いや、そんなもの無くても良い。きっと入江町は、買い食いなどしない、「良い子の住んでる良い町」なのかもしれないぞ。それが「楽しい楽しい歌の町」とは、思えないけどさ。→★「バンの家」の秘密

(続くのだ)

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★「バンの家」の秘密

かつて『清水目玉焼』サイトに【まる子゛と清水】という駄文を書き「子供には子供のけもの道があるのだ」と題した章に清水入江地区にかつてあった子ども相手の店のことを書いた。
 
僕の生家から徒歩で 178 歩離れた場所で 11 年も後に生まれた『ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこが、そういう店のひとつ『バンの家』の常連であり、買い食いしていた店の名は「バン」と言っていた、という話しを聞いたのは 1999 年のことである。
 
11 歳年上の僕と 11 歳も年下のさくらももこが知っている『バンの家』という店はもうないが、考えてみると『バンの家』のご主人は斎藤さんなのであり、斎藤さんの家(店)がどうして『バンの家』と呼ばれていたのかが長いこと謎だった。

2005 年 7 月 7 日、清水七夕まつりの日、清水淡島町『パソコンスクール PC21 』(旧中村タイプ)の中村さんからメールをいただき、なんと『バンの家』の「バン」はかつて斎藤さん宅で飼われていた犬の名だと教えていただいた。

 
母の通夜や葬儀で入江地区縁故の者が集まったので、
「ねえねえ『バンの家』ってどうして『バンの家』って言ったか知ってる?」
と聞いてみたら誰も知らない。
「 11 歳も年下のさくらももこまで『バンの家』って呼んでたんだってさ」
と言うと
「そりゃそうだよ、あの子を連れてお母さんが売れ残った野菜を手土産にうちへ遊びに来るたびに退屈したあの子は『バンの家』に遊びに行ってたから」
などという話しを 80 歳近い伯母が始めるが
「だけん、何で『バンの家』って言ってたかは知らないやぁ」
と言う。伯母にとっても『バンの家』は謎なのだ。

中村さんが斎藤さんに確認してくださった話しによれば、「バン」は秋田犬とブルドッグのモングルで「番犬」になるように「バン」と名付けられたという。愛犬「バン」が店番をしていたので、看板にそう書いてあったわけでもないのにこの辺りの人は皆『バンの家』と呼んでいたのであり、何ともほのぼのとする話しだ。
 
「バン」がどうしてそんなに地域の人に親しまれていたかというと、バンは番犬である以外に首にバスケットをさげて買い物をする名物犬だった。
 
昭和 30 年代、久能街道が静岡鉄道を跨ぐ入江岡跨線橋を渡って定期的に『ロバのパン屋』がやってきた。
「バン」はこのロバのパンが好きで斎藤さんのお父さんと買いに行き、家に帰るとよだれだらけになったパンを分けて貰って一緒に食べるのを楽しみにしていたのだという。 
僕はロバのパン屋が持ってくる蒸しパンが好きでよく食べたが、ロバのパン屋に詳しいサイトによれば日本全国をロバのパン屋が歩いていた時代は昭和 35 年をピークに昭和 39 年頃までであり、昭和 40 年生まれのさくらももこはおそらく実家前をロバのパン屋が歩いていた時代と、ロバのパンを買いに行く「バン」の姿を知らない。
 
きっと「バン」は地域の人に鮮烈な思い出を残して去っていったのであり、その後も長く『バンの家』と呼ばれて名を残し、40歳のさくらももこから80歳の伯母まで、今でも『バンの家』といえば「ああ斎藤さん」で通用してしまうことにしみじみとする。
 
貴重な情報を調べてくださった『パソコンスクールPC21』の中村通則さんに感謝。( 2005 年 10 月 13 日)

(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)

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【再掲『まる子゛と清水』(4)】

【再掲『まる子゛と清水』(4)】

 
もくじ】


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だがしかし駄菓子菓子
 

特製ちびまる子を膝の上であやしながら、こう考えた。
お勉強好きの良い子を通すと角が立つ。あまり思いやりばかりだといじめられる。優等生でいるのは窮屈だ。とかくに学校というところは住みにくい。
住みにくさが高じると、たまにはガス抜き遠足にでも行きたくなる。

ということで『特製ちびまる子ちゃん』第 1 巻第 2 話は遠足のお話しなのだ。私が清水市立第二中学に入学した時、まる子はまだ 1 歳だったはずだ。その中学最初の遠足は船越堤(ふなこしづつみ)だった。小学校は東京だったのだが、遠足はバスに乗ってと決まっていた。ところが清水の中学に入学してみると、遠足というのは読んで字の如くひたすら歩くのだ。そもそも運動会というものを明治政府が軍隊西欧化政策の一環として始め、他校へ遠征して他流試合を挑むための行軍が遠足の始まりだったというから、理には叶っているのである。ちなみに「遠足」に対して「バス旅行」というのが別途用意されていた。まる子の時代の遠足は何処に行ったのだろうか?まさか、狐ヶ崎遊園地じゃあないよなぁ。

「絵に細部がある」という表現は面白い。細かく描き込まれて情報量 が豊富だと細部があるのかというと、そういう訳でもない。学校の授業でエッチングやらドライポイントやらをやらせると、狂ったように細密な絵を描く奴がいるが、そういう絵に、見る者を圧倒するような情報量 があるかというと、そうとは限らない。その執着心と、膨大な手間暇に圧倒されることはあるが。逆に単純な絵に、見る者に様々な想念を喚起させるような「感性の細部」が仕込まれていることがあるから侮れないのだ。この侮れない感性を先天的に持っている者を、ここでは仮に「アナドレリン体質」と呼んでおこう。

小・中学生時代には、この「アナドレリン体質」の奴がクラスに一人ぐらい必ずいるものだ。高校生ぐらいになると受け狙いで似たことをやる奴が出てくるので「アナドレリン体質者」かどうかの判別 が困難になる。内輪ウケ三流笑売人向きの「ノラクラリン体質」の発現が見られるのもこの頃である。中学生にクラスメートの肖像を描くなどの課題を与えると一人ぐらい後ろ姿を描く奴がいる。級友に面 と向かって描けないらしい。後ろ姿なので細部が無い。黒い髪、白いシャツ、黒いズボン、大股を開いて腰かけている丸椅子が、画用紙の中心に縦線を書いてから描き始めたように見事なシンメトリーになっている。一本筋の通 った「男の後ろ姿」になっているのである。本人はいたって真面目に書いているから面 白いのだ。級友の間では、これが意外にも「あいつらしさ(モデルになった男の)が良くにじみ出ている」と評判なのだが教師のウケは悪い。そういうものだ。教師には教師の都合があるのだ。

『特製ちびまる子ちゃん』を読んでいると、さくらももこの「アナドレリン体質者」的特性が良く出ているのがわかる。この「感性の細部」が無ければ、田舎小娘の耳くそぐらいな日常が全国的大ヒットとして受け入れられるわけがないのである。

さて細部に潜航しよう。遠足決行の朝は花火を上げるというのはいかにも清水らしいと思う。今でも家で寝ていると入江・浜田・岡のいずれの小学校か知らないが、朝盛大に「音花火」を上げて何かの情報発信を行っていることがある。この通 信手段の優れているところは、空耳かなと思っても物干し場にでて見るとチョコロンの様な雲が数個固まって空を漂っていくのが見えて、花火が上がったことを確認できるのである。東京の小学校では、花火ではなく校舎のまん中の一番高いところに「日の丸」を掲げることになっていた。霧雨が降っていたりすると、近所の同級生のおやじさんが自転車で見に行って、「日の丸」の有無を教えてくれたりするのだ。「日の丸が上がっていなかったから遠足は延期だ」と聞くと、飛び上がって喜んだものである。まる子の様に、延期のお菓子は別 途用意してもらい、今日のは食っちまおうと喜んだわけではない。実は雨天順延を予想して、セロハンのすき間をボンナイフでこじ開け、半分ぐらい食べてしまっていたのである。仲間で「雨乞いが通 じたもんね」などとほくそ笑み合ったものである。

本編中にライスチョコという文字を見つけて狂喜した者も多いだろう。このライスチョコというのはチョコの中に「ばくだんあられ(東京でこう呼んでいた)、もしくはポン菓子(岡山の友達がそう呼んでいた)」を入れてガサ増ししてあり、安価に買えるチョコレートだったのである。東京では「ばくだんあられ屋」というおじさんがリヤカーに物々しい大砲のような道具を積んで定期的に現れた。大砲の中に米とザラメをちょろっと入れ、下からバンバン火を焚き、クランクをくるくる回し、頃合いを見はからってカランカランと鐘を鳴らす。子どもたちは恐いので耳を押さえて数歩下がって見ている。おじさんが何か紐のようなものをグイッと引くと、「ボッカ~~~~~~~~~ン!」という大音響とともに、かごの中にぱらぱらと甘いお米のポップコーンのような物が出てくるのだ。この商売の面 白いところは、お金が無くても家から生米をちょろまかして持っていくと、「ばくだんあられ」と交換してくれるのだ。母は、家庭のいい米と引き換えに悪い米で作った菓子を渡して儲けているのだから、米ではなく金で買えとよく言っていたものだ。

で、このライスチョコだが今でもコンビニなどで売っているのを見かける。当時は「トーサン」という会社名だったが今では「トーチョコ」という会社名になっている。東京・王子の駄菓子屋ではこのライスチョコの B 級品(割れたり、成型ミスの商品)をビニール袋いっぱい置いていて、子供にクジを引かせて当て物にしていた。私は 1 等を当てて山ほど食べたことがあるのだ。

ベビースターラーメンというのも息の長い商品だ。インスタントラーメンをそのままバリバリ食ってもうまいと知った私たちは、お金を出し合ってインスタントラーメンを買い、路上で袋だたきにしてから分け合って食べたものだ。チキンラーメンがうまい、いやエースコックのワンタンメンだ、いやスープの別 になったチャルメラの方がうまいなどとグルメ談義に花を咲かせたものだ。

私たちの時代、遠足で人気のあったお菓子に明治カルミンがある。ハッカの白いキャンディーでまん中が素通しのリング状になっている。このリングを壊さずにどれだけ細くなるまで舐めていられるかを競い、舌の上に乗せたものを見せあうのである。なんと愛らしい子どもたちだったのだろうか。

まる子がクジで引き当てたような、すぐに乗物酔いする奴も、いた、いた。「トラベルミン男」などと呼ばれていた。中学時代、遠足の朝「うでたまご(『特製ちびまる子ちゃん』より)」を食べて来て、バスが走り出す前にもどしてしまい、その後あだ名が「たまご」になった可愛い女の子もいたのだ。ちなみに級友の肖像画はその子を描いた。これは傑作だったが何処の美術館にも収蔵されておらず、お見せできないのが残念でたまらない。

それにしても袋にある「おかしのヤマオカ屋」の文字が懐かしいのだ。

(続くのだ)

(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)

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【再掲『まる子゛と清水』(5)】

【再掲『まる子゛と清水』(5)】

 
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ラーメン食べる(Lamentable)
とは悲しいことよ
 

第 1 巻第 3 話では「ハウスのたまごめん」が登場する。思えば、この昭和 49 年はまる子にとって 37 円がご馳走の時代だったと振り返っている。物の値段というのは面 白いものだ。

インスタントラーメンの祖、「日清チキンラーメン」が発売されたのが 1958 年(昭和 33 )、すなわち長島茂雄デビューの年なのだが、この時の価格が 35 円だった。これは高い。ものすごく高いぞ。この頃、私は両親に手を引かれて生まれ故郷の清水を出奔し、東京の渋谷で暮らしていたと思う。幼児の記憶だから非常に朦朧としているのだが、中華そばが 1 杯 40 円ぐらいだったのではないだろうか。タクシーに乗る時「日野ルノー(日野自動車が仏ルノー公団と提携して 1953 年に発売した自動車)」のタクシーをつかまえると安いので寒空の下立ちん坊をさせられた記憶があるのだが、初乗り 60 円ぐらいだったような気がする。これは、両親の口論の立ち聞きなので更に曖昧。だから、1 杯 35 円のインスタント・ラーメンなんてとんでもない高級食だった。そんなものが世の中にあることすら知らなかったのである。

1960 年、国産インスタントコーヒーの出現により、いわゆる「インスタント食品ブーム」が到来したのだが、我が家では遥か沖合いに「エースコックのワンタンメン」が太平の眠りを破り開国を迫るために白い湯気をはきながら来襲する 1963 年まで、その恩恵は受けられなかったのである。「ぶた、ぶた、こぶた、お腹が空いた、ブ~」の CM に乗って「エースコックのワンタンメン」は、私たちガキ仲間の大ヒットになった。なにしろ、空き袋を集めると「豚のコックさんの貯金箱」が貰えたのである。当時の親たちは「貯金箱」というのに弱くて、「貯金箱」欲しさに財布の紐を緩めるというトホホな愚行を繰り返していたのである。我が家の棚にずらりと並んだ豚のコックは、清水に戻る際、東京の夢を破り捨てるように、中の小銭を抜き取られてゴミ箱行きとなったが、惜しいことをしたものである。

発売から 16 年後の 1974 年、まる子が景品の「たまごボール」欲しさに「ハウスのたまごめん」を毎週毎週食べていた頃まで、物価の上昇にもかかわらずインスタント・ラーメンの値段は据え置かれていたということがわかる。

ところで、小学生時代、東京でインスタント・ラーメンといえば、エースコック、日清食品、明星食品、サンヨー食品といったところがメジャーだったのだが、春・夏・冬の長期休暇で清水の親戚 に預けられるたびに、見慣れぬブランドのラーメンを従兄が食べているのを見て驚いたものだ。それが、まる子ならぬ 、「マルちゃんの東洋水産」だったのだ。東京ではとんと見かけなかったのに、清水ではラーメンといえば「マルちゃんの東洋水産」が抜きん出てメジャーだったような気がするのだ。これは何故なんだろう。

調べてみると、清水では今でも「マルちゃんハイラーメン」というのが売られていて、これが 1963 年頃の発売らしい。しかも静岡県限定発売なのだそうだ。パッケージは当時と変わらない縦の紅白ツートンで「ハイラーメン」の袋文字、舌をペロッとしている、でっかい「マルちゃん」マーク入りなのである。「なんと発売以来 34 年、ほとんど変わらぬ 味で頑張っています」( 1997 年の広告文より)。ほとんど変わらぬ味と変わらぬ 値段で日本人の食を支えているのがインスタント・ラーメンなのだなあと、しみじみ感じ入りながら、今日の『特製ちびまる子ちゃん』を閉じるのであった。

(続くのだ)

(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)

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【再掲『まる子゛と清水』(7)】

【再掲『まる子゛と清水』(7)】

 
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七夕豪雨
清水市を襲う
 

1974 年(昭和 49 年)7 月 7 日、台風 8 号に刺激された梅雨前線が静岡県下に記録的な大雨を降らせ、氾濫した巴川が清水市に甚大な被害をもたらすことになった。歴史に名を残す七夕豪雨である。歴史に名を残すといっても、清水市でこの災害をインターネット上で記録している人は少ないらしく、検索しても「七夕豪雨静岡市を襲う」というページがヒットする程度である。かろうじて、私のサイトにもリンクさせていただいている玉川楼さんが「清水こぼればなし」に記録されているのが数少ない情報である。清水市のサイトでもこの歴史はこぼれてしまったらしい。そんな訳で本章のタイトルは「七夕豪雨清水市を襲う」とした。これで静岡市と並んで清水市の歴史の 1 ページがヒットすることになるだろう。

さて『特製ちびまる子ちゃん』第 1 巻第 6 章に、この七夕豪雨が登場する。今読み返してみると、災害時の人間模様が「さくら家」という市井の人々の目を通 して描かれており、災害の様子伝える貴重な資料になっていると思う。この年、まる子は小学校 3 年生、私は清水の高校から東京の大学へ…と、書きたいところだが、まる子は『サザエさん』方式で 3 年生のまま、私は高校卒業後 1 年浪人ということで、その辺の記述がいい加減になる。ともかく、この年に私は大学生として東京暮らしをしていたのだ。よって、清水でこの災害を体験していない。

大学入学当時私は「娯楽は人間を堕落させる」という強い意思の下、テレビの無い学生生活をしていた。立派な大学生を目指した時期もあったのだ。ところが後に、上京した母親が激怒し「私が見たいだよ」とテレビを持ち込んでしまったのだ。ひどい母親である。というわけで、清水市が大洪水に見舞われているニュースなど知る由もなかったのである。

その第一報は思いがけないところからもたらされた。学生時代の生活費は、清水市内にある東海銀行に入金してもらい、カードで引き出すようにしていたのだが、池袋東口支店で引き出そうとしたら現金自動預け払い機が拒絶のメッセージを出して受け付けてくれないのである。不審に思って行員に調べてもらうと、清水支店が洪水による冠水のため業務不能になっているという。そんなわけで、その日私はなけなしの金で買った豆腐とモヤシで飢えを凌ぎながら、故郷の人々の無事を祈ることになったのである。

これから記述する話は、後に「母みつよ」が私に語った災害時の模様を聞き書きしたものである。聞き間違いや、多少の誇張が混じっているかもしれないがご容赦願いたい。

7 月 7 日、清水市の空は日中なのに夜のように暗くなった。と、思ったら土砂降りとなり、その様子は空からバケツの水をひっくりかえしたようだったという。「父ヒロシ」も同様のことを漫画の中で言っているのが可笑しい。夜半になっても雨の勢いは収まらず、就寝した後も妙にサイレンや半鐘の音が聞こえる夜だと思ったという。この辺の模様は『特製ちびまる子ちゃん』にも詳しく描かれている。

翌朝目ざめた「母みつよ」がゴミ出しのために清水市役所の駐車場の方に寝ぼけまなこで出て行くと、毛布に身をくるんだ人々が大勢集まっている。なんだ、なんだ、なんだ、と聞いてみると巴川が氾濫し市内が大洪水になっているという。ここで注目したいのは、市内が大洪水になっているのに、当時旭町で飲食店を営んでいた「母みつよ」は全く被害を被っていないこと。しかも清水市でもとびきり低い土地にある市役所の一角が避難民の集まる場所になっていたりするすることだ。なのに、目と鼻の先の東海銀行は前述のありさまである。思うに、これは市役所のほんの一角がいちはやく下水道を完備していたからだろう。下水道の整備がいかに水害に対して有効かがわかる。また、「さくら家」のあった入江町はわずかに標高が高かったことで難を逃れていることが『特製ちびまる子ちゃん』でわかる。

ここで、「母みつよ」は清水市大内の巴川沿いに住む母親と弟夫婦を思い浮かべたという。その場所は私が子どもの頃から台風のたびに大水が出ていた場所なのである。早速救援に向かおうと出かけたところ市内は海のようだったという。『特製ちびまる子ちゃん』見開きの大パノラマ参照。

「母みつよ」の救援ルートだが、高橋本通りを通って北街道を静岡方面 に西進するというものだった。高橋本通りは若干土地が高いので通れるのではないかと予測したのだというが、昔の人の知識というのはこういう時に役に立つのだ。大内新田で被災した弟の無事を確認した後、清水市天王まで進むとそこから先のルートは完全水没。辺りを見回すと自衛隊の救助ボートがあったので、この先にたんぼの中の一軒家があり、取り残されている可能性が高い、案内するから乗せてくれと頼み込んだのだそうだ。ここから「母みつよ」の冒険談はぐっとテンションが上がるのだ。

自衛隊員といっても、年中ボートを漕いでいるわけではないので、何とも頼りない。「母みつよ」はといえば、幼少時伊豆で実家が副業として海の家を営んでおり、貸しボートもやっていたのだから舟の漕ぎ方はお手の物である。「左、漕ぎ方やめ、右もっと強く漕いで」と指図するうちに、班長らしき人が「この人の言う通 り漕ぎなさい」と命じ、ボートは無事巴川河畔の祖母の家に到着したのだという。この辺になると講談調になっていたりするのだ。

水害の時、なんといっても人名を救うのは 2 階立て以上の住宅である。「母みつよ」が到着してみると、家族は全員2階に非難していて無事。私の年少の従弟は大のテレビ好きなので、後日おとな数人がかりで降ろさなければならない巨大家具調テレビを一人で2階まで抱えて駆け上がったそうで、今でもお笑いぐさになっていたりする。上流の製材所から流出したらしい巨大な原木が数本流れ着いて、家に突き当たって漂っており、異様な光景だったという。

この七夕豪雨により、静岡・清水両市ではたくさんの死者も出たそうである。ご冥福を祈りたい。

私にとって残念なのは、この水害で大打撃を受けた清水市内の路面 電車が、復旧することなく廃止になったことである。東京の路面電車廃止のセレモニーなどを見ているので、清水の路面 電車はお別れ会をしてもらえたのだろうかと悲しくなる。そんなわけで 1974 年は私にとって二重に忘れられない年なのだ。

(続くのだ)

(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)

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