◉ロバの音楽座を聴きに駒込大観音へ

2018年5月19日
僕の寄り道――◉ロバの音楽座を聴きに駒込大観音へ

5 月 19 日土曜日 13 時から駒込大観音(おおがんのん)光源寺で『ロバの音楽座 愉快なコンサート』という催し物があるというので出かけてみた。

実はロバの音楽座を知らなくて、散歩で通りかかった大観音前に置かれていたチラシをもらって帰り、古楽が好きな妻に見せたら、有名な古楽アンサンブルで聴いてみたいと思っていたという。「参加無料、野外テント、雨天決行、先着150名、要予約」ということなので、「以前から演奏をお聴きしたいと思っていました…」など、ぬけぬけとメールを書いて申し込みをした。「お申し込みありがとうございます。うけつけいたしました」という返信があった。

主催は「子ども劇場 荒川・台東・文京」で、光源寺の力添えもあってこの「無料」コンサートが実現したらしい。ネット検索すると当日の受け付け係などボランティアの募集もあった。協力団体を見ても子育て家族の支援を主眼とした取り組みらしい。子どものいないジジババ年齢であることも気にせずのこのこ出かけて行き、一番前の隅に胡座をかいて参加した。お寺の協力を得て有名な楽団を呼ぶことができたこの会に、楽団を目当てに参加してくれた人たちもいて、企画してよかったという代表者挨拶があった。「地域に開きたい」という意図を感じ、協力できてよかったと勝手に思っている。

この寺のすぐ近く、向丘と千駄木に十数年間住んでいたことがあり、この寺は地域活動に対して志の高い寺で、よくイベントに出かけた。

太い竹のポールを一本立て、境内の頑丈そうな柱にロープを張って支え、その上にシートを貼って天蓋にする作業など、子育て中の女性だけでできる作業ではない。主催者も寺の協力に感謝していた。

ロバの音楽座のパフォーマンスは素晴らしくて、子どもたちだけでなく大人まで躊躇わせない吸引力に感心した。それが「技術」であると言うなら「音楽」自体の「巧みさ」と言うほかないだろう。音楽には言葉や年齢の障壁を突き通す力がある。

そもそも音楽が巧みな人たちなので何をやっても巧い。リコーダー好きの妻は
「あの人は歌が巧い、歌が巧い人はリコーダー、とくにソプラノが巧い。久しぶりによいリコーダー演奏が聴けてうれしい」
と言っていた。


宗教を持たない日本人の不幸がよく言われるけれど、寺にはまだぎくしゃくした日本社会で果たせる役がある。道路に面した住宅地の広場で、拡声器や楽器や歌声や手拍子を響かせ、天蓋から覗く青空を眺めて「いいものだな」と思う。と同時に、最近の子どもたちもお母さんたちも、眺めていると驚くほど「活発」で、この時代の子育てのたいへんさを勝手に理解する一助となった。(2018/05/19)


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◉柴田家と三保街道

2018年5月19日
僕の寄り道――◉柴田家と三保街道


クリックで取材メモ一覧に戻ります

『季刊清水』41号(2008)「特集1清水湊を遠望する」の中で、遠藤章二さんが「廻船問屋柴田屋の成立と折戸村の醤油醸造所」として書かれた、あの柴田家の建物が現存するのでお願いをして見せていただいた。

詳細は本年末に発売される『季刊清水』51号(2018)に五味響子さんが詳しく書かれる予定なので余談をメモしておく。

清水区折戸、国道150号線が駒越東町で県道199号線と分岐する三叉路近くに柴田家は存在するのだけれどどうも記憶がない。そんな立派な旧家があの騒々しい交差点辺りにあっただろうかと訝しみつつ歩き、天野回漕店のトラック・ヤード奥をのぞいたらそれはあった。

玄関を開けていただいて中に入り、まっすぐ土間を突き抜けた突き当たりの引き戸を開けると、その先に荒れ果てた庭と長屋門があり、右手にちょっとした広場があって、作り付けの坂を登ると瀬織戸神社前の小道に出る。

「ああ、そうか!」
と思う。

柴田家が建てられた時代に現在の三保街道、県道199号線などなかったのであり、瀬織戸神社前の古道が三保街道だったのである。遠藤さんの記事にある柴田家古図にもそれがちゃんと描かれている。

「十」が現存する母屋、「七」が長屋門、人力車夫が車を引いているのが旧三保街道で、取り付けスロープを降りようとしている。

柴田家の裏手、県道199号線が通っているあたりは田畑で、その先は折戸湾になっている。
幼い頃だから昭和30年代、明治生まれの祖父に連れられて折戸在住の伯母を訪ねた。祖父は孫を連れて県道を歩く気にならなかったようで、駒越から旧三保街道を歩いたのだけれど、柴田家はおろか瀬織戸神社に参った記憶もない。

その頃書いた作文がまだ残っているので読み返してみると意外なことが書いてある。
100歳めざしていまも健在な伯母の家は折戸4丁目にあり、旧柴田家前から旧三保街道を歩き、東海大学海洋学部入り口を過ぎたちょっと先にある。その道すがら、祖父が道の脇にある畑の作物を指差し、あの葉っぱはなんだかわかるかと聞き、わからないと答えたら、あれは煙草の葉っぱだと言う。

あの煙の素が畑で作られていることによほど驚いたらしくて、東京に戻ってから夏休みの作文に書いていた。その当時はこの辺も畑が多かったわけで、清水南高もまだない。(2018/05/19)


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◉緑陰の白い花

2018年5月18日
僕の寄り道――◉緑陰の白い花

当たり前の話だが富山に住んでいた頃の義母は若くて、ひとり娘であるわが妻と同じような年齢だった。恐ろしいことである。

若かったので元気で、よく手づくりのドクダミ茶を送ってくれた。ドクダミだけでは飲みにくかろうと思ったのか、庭に生えていた柿の葉を干し、柿の葉茶と混ぜて送ってくれたような気がする。その日向臭いお茶をよく飲んだ。

ドクダミの白い花に八重咲きがあるのを初めて知ったのは十数年前になる。見たいものだと思いながら近所の散歩をしたらすぐに見つかり、意外と身近にあるものだなと思った記憶があるがそれ以降見たことがない。あの時すぐ見つかったのに、どうしてその後十数年も見つけられないのだろうと思い、ドクダミの季節になると目を凝らして注意しているけれど、目をこらすほど見つからないものである。

清水区三保の御穂神社境内脇を歩いていたら木陰に白い花が密集しているので、ドクダミだろうかと目を凝らしたらトキワツユクサだった。南アメリカ原産の帰化植物で、野生化して要注意外来生物に指定されているらしい。温暖な三保が気に入ったのだろう。

東京の住まい近くに日用雑貨を扱う小さな商店があり、焼き物の食器も扱うので植木鉢も置いてあり、園芸用品もそろっているので重宝していた。年老いたお母さんの居場所と生きがいづくりのため、娘さんが手伝ってなんとか開けておられたけれど、いよいよ限界が来て先日閉店された。

植木鉢に刺しておくアンプル型の栄養剤をわが家では「植木の栄養ドリンク」と呼んで愛用している。近所で買えなくなって困っていたのだけれど、都立駒込病院近くのドラッグストアをのぞいたら、なんと人間の栄養ドリンクだけでなく、植木の栄養ドリンクも売っていることを初めて知った。

喜んで買って帰る道すがら、民家の玄関先で念願の八重咲きドクダミを見つけた。じつは園芸用に苗も売られているらしいが、造られた品種なのか、放っておくと先祖返りして一重に戻ってしまうこともあるという。そもそも八重が劣勢なのであまり見かけないのかもしれない。(2018/05/17)



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◉丸子ととろろ汁

2018年5月18日
僕の寄り道――◉丸子ととろろ汁

朝日新聞の朝刊を読んでいたら丸子の丁子屋が写真入りで記事になっており、あの歴史的ランドマークとも言える茅葺き屋根がこの春葺き替えられたという。葺き替えというのはかなりの費用がかかるもので、クラウド・ファンディングにより 404 名から 1,122 万円が集まったという。インターネット時代ならでは、さもありなんと思える話題だけれど、意外だったのは、その茅葺き屋根は先代が 1970 年に古民家を移築したものだという。

他地域からの客を静岡に迎えると、昼食は東海道丸子宿の名物とろろ汁をご馳走したりする。丁子屋の前で茅葺き屋根を指さしながら、
「これが有名な広重の版画に描かれたあの茅葺き屋根です」
などと得意げに説明したものだが、戦国末期と伝えられる創業当時のまま茅葺き屋根が残っているわけではない。さらにとろろ汁店は何軒もあるので、広重が描いたとろろ汁の店が丁子屋である確証もないわけだけれど、やはり広重の版画を思い浮かべて丁子屋の前に立つと、「(ああ間違いなくここだ)」と思ってしまうのは面白い現象である。

とろろ汁の店は何軒もあって、味の好みで言えば好き好きは人によって違う。1970 年といえば東名高速道路全線開通の翌年であり、徒歩でも乗合バスでも行ける場所であるとはいえ、やはり丸子宿とろろ汁の丁子屋がここまで人気店になったのはモータリゼーションの時代になったからである。そういう意味で茅葺民家の移築をした先代は先見の明があったのだろう。

歴史の風情がある〇〇〇が好き、味が良いのは〇〇〇がいちばん、などと郷里の友人たちはとろろ汁店にうるさいけれど、そのうちのひとりが言う
「いつも駐車場が観光バスやマイカーでいっぱい、予約満席で入れないことの多い店より、たいがい空いてて座れる〇〇〇が好き。味もぜんぜん変わらないよ」
と言う意見に同意している。すい臓がんになって食欲がなくなり、とろろ汁なら食べられると言う痩せ衰えた母を連れて行ったのが丸子に行った最後で 13 年前になる。その時もゆったり座れる〇〇〇だった。人生にはそういう旅の途中のニーズもある。(2018/05/18)


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◉乗り継ぎ

2018年5月16日
僕の寄り道――◉乗り継ぎ

戸田書店発行の雑誌『季刊清水』の編集会議で帰省した。「次郎長翁を知る会」の活動で忙しい魚屋の友人に渡したいものがあるので、清水駅江尻口駅前口ロータリーで待ち合わせをした。

清水駅 11 時 35 分着の東海道線普通電車島田行きに乗るには駒込駅 8 時 15 分発の山手線外回り電車に乗らなくてはいけない。インターネットの乗り換え案内で下調べしたメモを見ると新橋で 8 時 41 分発の普通電車熱海行きに乗り換えになっている。

てっきり品川乗り換えと思い込んでいたのだけれど、手前の新橋が大切な乗り継ぎポイントらしい。いそいで東海道本線のホームに行ってみたが熱海行きが来ない。おかしいと思って構内放送に耳をすますと踏切の異常確認で遅れが出ているらしい。

通勤ラッシュの新橋駅

遅れると乗り継ぎ予定も狂うので、清水駅前の待ち合わせ時刻を変更して連絡しなくてはならない。熱海行きを待っていたら、遅れている先発の国府津行きが来た。国府津から熱海までの乗り継ぎがあれば、予定通り熱海発 10 時 33 分の普通電車島田行きに間に合うかもしれないのでそれに乗車してみた。

終着国府津が近づいてきたら車内放送があり、国府津から先に乗り継ぐなら、乗車ホーム移動がある国府津駅乗り換えより、同じホームで待てば良い手前の二宮駅で下車しろと言う。なかなか親切である。

のどかな二宮駅

二宮駅で下車し、降りたホームで待っていたらほぼ定刻通りに熱海行きがやってきて、乗車して熱海駅に着いたらホーム向かい側に島田行きが待っていた。結局、新橋駅で慌てずこの熱海行きを待てばよかったわけだ。

定刻通り清水駅に着き、迎えにきてくれた魚屋夫婦の車に乗り込み、車内で早口で用件を伝え、これから折戸の旧家柴田家を見に行くと言ったら送ってくれると言う。話に夢中になり、だいぶ行きすぎて羽衣の松入り口あたりで降ろされた。

『鍾庵』店内の静岡おでん

時間も早いのでぶらぶら歩き始めたら、ちょうど桜海老かき揚げが名物の『鐘庵』前で正午近かったので昼食にした。今日は朝から綱渡り式に乗り継ぎが良い。(2018/05/17)


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◉空襲警報と撃墜――明るい方へ

2018年5月15日
僕の寄り道――◉空襲警報と撃墜――明るい方へ

夜になっても気温が下がりにくい気候になると、寝室の窓は開けたまま網戸だけ閉めて就寝している。原理的には蚊の侵入を食い止めているはずの密室に、「蚊がいる!」という空襲警報が出ることがあり、わが家ではそういう時だけ昔ながらの紙マット式蚊取り器をつけて撃墜している。

昨夜も今年初めて蚊が侵入し、夜中に「蚊がいる、顔を刺された!」と言うのであわてて蚊取り器をつけた。蚊取り器をつけてしばらくすると蚊の羽音は聞こえなくなり、そのまま刺されることもなく朝までぐっすり就寝できるので、紙マット式でも迎撃性能は高いのだろう。

夜が明けて「昨夜は蚊がいたね」という話になり、人の血を吸って撃墜された蚊たちはどうしたのだろうと思う。原理的には密室なので、フローリングの床の上に落ちて死んでいるはずなのだけれど見つからない。そのまま掃除機をかけるので見つからないままになっている。

一度だけ深夜の空襲警報が出て起こされ、蚊取り器にマットを入れて撃墜体制に入り、目が覚めてしまったのでうつぶせになり、スマートフォンをいじっていたら明るい画面上に蚊が落ち、仰向けになって絶命したのでびっくりした。ハエもそうだが蚊も明るいところを好むそうで、蚊取り器の攻撃から逃がれるとき、明るい方を目指して墜落するのかもしれない。(2018/05/15)

昨日は北池袋で編集会議を終え、要町のえびす通り商店街を抜け、本駒込まで歩いて帰った。古い民家、お堂、石塔も多いので中山道から分岐する古道だったのだろう。調べてみる。


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◉「いかる」と「いかり」

2018年5月14日
僕の寄り道――◉「いかる」と「いかり」

地名について書かれた本を読んでいたら、静岡県磐田市に地名「五十子」があって読みは「いかご」、埼玉県本庄市に地名「五十子」があって読みは「いかっこ」、静岡県藤枝市に地名「五十海」があって読みは「いかるみ」だという。「五十」と書いて「いか」と読むのは珍しいと調べたら、全国各地にあるらしい。

甲州弁の「いかる 」は「埋まる」だというが、郷里清水では「埋める」ことを「いける」という。さらに水没して「浸かる」ことも「いかる」という。「埋まる」にせよ「浸かる」にせよ、動詞「いかる 」の連用形が「いかり」となる。

静岡および旧清水市域では、湧き水が小川となって流れ、それらが集まり淀んで流れが見えない沼のようになった場所を「いかり」という。旧安倍川、巴川の氾濫原に近い場所で生まれ育った年寄りに「いかる」「いかり」の方言を解する人がいた。静岡・清水弁といっても局所的かもしれない。

五十と書いて「い」と読み、語頭に付いて複合語として用いられると「五十日」と書いて「いか」、五十鈴と書いて「いすず」と読む。山本五十六のように五十と書いて「いそ」とも読み、五十の「いそ」は磯の「いそ」と通じるらしい。

五十はどこかで水とつながっている。五十と書いて「いさ」とも読み、五十集屋と書いて「いさばや」と読み水産加工業者のことをいう。魚屋だ。由比の海辺から内陸部へ魚を行商した甲州商い(こうしゅうあきない)を「いさばしゅう」と呼んだ。五十集(いさば)は磯場(いそば)らしい。

船のイカリは碇や錨と書き、へんの石や金があらわすように、海に沈めておく石や金属の重りのことをいう。碇や錨の語源は「いかる」「いかり」ではないかと思うのは方言的短絡だろうか。(2018/05/14)

 

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◉母の日のアラカシ

2018年5月13日
僕の寄り道――◉母の日のアラカシ

さいたまの老人ホームに着くのを見計らったように雨が降り出した。
義母の居室ベランダに最も近い場所にある枯れ木は最も芽吹きが遅かったけれど、今ではすっかり若葉に覆われ、先端部分に白い花のようなものをつけている。

木の種類を調べるヒントになりそうなのでベランダからスマートフォンを持った腕を差し出し、なるべく特徴がわかるように写真を撮ってきた。池田書店『葉っぱで見分ける樹木ハンドブック』高橋秀男監修で調べるとアラカシとシラカシによく似ている。

どちらかに特定できかねるので Google に「シラカシ」と入れて検索したら、誰かがすでに「シラカシ アラカシ」で検索したらしい。やはり多くの人が迷うのだ。他人が検索したサイトをのぞいてみたら、義母の窓の日除けとなってくれる樹木はアラカシらしい。

母の日の面会食事介助を終え、手作り母の日会の看板前で義母を真ん中にした記念写真を撮ってもらい、駒込駅に帰り着いたら激しい雨になった。(2018/05/13)


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◉昨日のつづき

2018年5月13日
僕の寄り道――◉昨日のつづき

「わかりたい」と思ってする読書には、たいがい「あっそうか!」という気づきの喜びがご褒美として用意され、それが強化子(きょうかし= reinforcer)になっている。「わかりたい」と本に対して働きかけることで、本は「わからせたい」という働きかけを返しているように感じられ、それをアフォーダンスという。小さな「あっそうか!」の喜びが強化子となり、強化されるのはそのアフォーダンスである。そういう小さなプロセスを積み重ねることを「スモールステップ化」という。

そもそも「その気になることがさらにその気を増幅させている」みたいな「自分で感じる自分のヌメヌメしたこころの動き」を、「強化子」と人ごとのように「指させる言葉」が用意されている分野の、実戦的に書かれた本は楽しい。強化子がわかれば「負の強化子」という見方もできるようになり、そういう強化子としての「あっそうか!」が嬉しい。

足元を見れば六義園内は林の下草たちが伸びる季節である

「相手の行動をよく見て言語的な技量に頼らない。言語的な技術はすぐに行き詰まる」
たとえばこんなことが書いてある。

療育しようとする子どものことをしっかり見る、言語による思考を行為の前に持ってこないでともかくよく見る。そういうことの大切さは、昔の人がさまざまな教えとして残している。まず下手な考えをやめること、それは人にとってなかなか難しい。だがそれは自縄自縛から自分を救う手段であり、まず自分を救えなくては他人を救えない。

日陰の植物たちも伸びている。ヤブミョウガだろう。

「人の行動の原因を内面の心理にだけ求めない」
これもまた同じことを言っている。見える外部に集中して、見えない内部に心理的な思い込みを作らない。ましてや他人の中に思い込みを作らない。

「相手に『できること』を指示しているか、一度に複数を求めていないか」
これも大切なことだ。相手の身になってみないと、自分がされて嫌なことは見えてこない。相手の「無理」を自分が作っていないか。

「どうすれば叱らないで済むかを考える」
環世界の一部として自分を位置づけること。自分も相手の「環境」であることを忘れない。自分が変われなけば相手も変われない状況を思ってみる。相手を救うことが自分をも救う。

こういう「あっそうか!」が嬉しくてメモを取りながら読み進んでいる。療育する本を読んで療育されている。(2018/05/13)


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◉ピア・トレーニング

2018年5月12日
僕の寄り道――◉ピア・トレーニング

自閉症スペクトラム障害(ASD)というくくられ方をされた子どもの療育について書かれた本を読んでいる。

育ち方に凸凹のある子どもたちが共に過ごせる時と場所を保護者やカウンセラーがつくり、その中で子どもたちが互いの行動から学び合い、習い合う取り組みを「ピア・トレーニング」というらしい。たしかに自分も環境から学び、習い、育ったなぁと子ども時代のことを思い出した。

六義園内のハゼの木

幼い頃から複雑な母子家庭だったので元祖「鍵っ子」となり、母親が働きに出て誰もいないアパートの部屋に帰宅したら決して外出してはいけないときつく言われて育った。それでも小学四年生頃からは、こっそり脱走して外遊びするようにはなっていた。

小学5年になって同級生が野球チームを作るというので、母親に懇願して入団し、晴れて放課後の外遊びが公認となった。どちらかといえば勉強ができなくて、不良と呼ばれるような仲間たちだったので、悪いことも覚えたけれど、そういう子どもたちから、学び、習った「ふつう」の「社会的人付き合いの技法」は多い。

六義園内の海南更紗南天星

あれは一種の「ピア・トレーニング」だったのだと思うし、人は誰でも死ぬまで凸凹なので、社会はそもそも一生世話になる「ピア・トレーニング」の場なのだろう。社会の活用から疎外されることが問題であって、「障害」は関係からの疎外によってつくられて、心ならずも強いられているという面もあるだろう。(2018/05/12)


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◉ボールペンと白山神社と紫陽花

2018年5月11日
僕の寄り道――◉ボールペンと白山神社と紫陽花

新書サイズのメモ帳とスケジュール帳への書き込みには三菱鉛筆のボールペン「ユニボール シグノ 極細シリーズ 0.38mm」を使っている。いろいろ試してみて自分に一番向いている。そのボールペンを買いに白山上の「かみもと文具店」まで散歩を兼ねて出かけた。

シグノを探していたら「パイロット ノック式 ゲルインキボールペン ジュースアップ」という見慣れないやつがあり、その 0.4 mm を試し書きしたらとても良いのでそちらを二本買った。

ちょうど昼食どきになったので白山下に降り、京華通り商店街の蕎麦屋「大むら」でカレーライスを食べる。ここのカレーは小麦粉とカレーパウダーと豚肉と玉ねぎを、たぶん注文を受けてからささっと炒めて作る当座のカレーで、黄色いカレー丼に近いかもしれない。限りなく黄色い昭和のカレーライスに近いので大好きだ。

相変わらず懐かしいカレーを食べ、京華通りから石段を登って白山神社に寄ってみた。今年の春は暖かくて、桜やツツジが咲き急いだので、紫陽花はどうだろうとのぞいてみたが、白山神社はまだまだだった。(2018/05/11)


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◉連声(れんじょう)とぴあの

2018年5月10日
僕の寄り道――◉連声(れんじょう)とぴあの

NHK連続テレビ小説は昔からよく観ていて、内容云々より、そういうきまったリズムのある朝が好きなのだと思う。

決まりごとを続けると暮らしの一部となり、それが突然停まるとなんだか変、という感じ方が好きなのだろう。妻もそういうタイプのようで、朝食の準備をして叩き起こすと、テレビの『小さな旅』をぼんやり眺めながら
「あ、きょうは日曜で朝ドラないのか」
などと言っている。そういう日曜日のイレギュラーさが好きではない。

NHK連続テレビ小説を観続けると半年は同じテーマ曲を聴くことになり、好きではない曲も、終わってしばらく経つと、思い出すたびに懐かしい曲になっている。

六義園に降る雨

『ぴあの』というドラマがあった。1994年なので阪神淡路大震災前年になる。大阪・西天満、音楽好き元小学校教師の父子家庭が舞台で、お父さんが宇津井健、主役の娘が純名(じゅんな)里沙、萬田久子が熱演し、メスの信楽狸を買ってくる河島英五がいい味を出していた。

劇中の手作り童謡もテーマ曲作者の久石譲が担当したせいか今も記憶にあるけれど、主題歌『ぴあの』が妙に懐かしくてときどき鼻歌に出る。曲の良し悪しより歌とともに1994年当時の暮らしが思い浮かぶので得をしている。ちょっとウルウルする。朝ドラの主題歌はみんなそうだ。

で、なんで今朝そんなことを思い出して鼻歌交じりでいるかというと、編集会議の準備でメモづくりをしていて、淳和天皇の淳和は「じゅん」と「わ」の連声になるので「じゅんな」ではなかったかと調べ物をしたからだ。大坂夏の陣のあった元和(げんな)や、京都仁和寺の「にんな」と同じだ。(2018/05/10)


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◉「ならびに」の時代

2018年5月9日
僕の寄り道――◉「ならびに」の時代

雨降りで散歩ができないので本を読んでいる。

「幷」と一字で書いて「ならびに」と読む。「持明院統幷(ならびに)大覚寺統」のようなかたちで使う。「幷」イコール「ならびに」によって、複数が対等な関係で並んでいることになる。

仕事の合間に中世について書かれた本を読んでいたら、太平記の時代に差し掛かると、むかし受験日本史でそうだったように、複数が対等に入り乱れていて頭の中の整理がつかない。

いまこの時代もそうだけれど、「社会の諸矛盾が分裂・抗争を生み、それが両統対立の裾野を形成した」というような形のもつれあいを、自分なりに整理するのはやはり難しい。

後醍醐天皇は「后妃(ごうひ)幷(ならびに)后妃」という形で二十人以上の妃(きさき)をはべらされていたらしい。絶倫である。

中でも深く愛された阿野廉子(れんし)には後醍醐とのあいだに「皇子(おうじ)幷(ならびに)皇子」という形で幾人もの皇子がおった(日本むかしばなし風)。隠岐に流されるときは廉子ひとりを連れて行ったという熱愛ぶりである。

……というような話を角川の電子書籍で気軽に読み、それに飽きると吉川弘文館の分厚い本を姿勢正して読み、それに疲れると同じ著者が別の切り口で書いた山川出版社の本を読んでいる。太平記の時代に触れた本は他にもありそうだけれど今のところ三冊を選んだ。

……というように同じ時代について書かれた本が偶然手元にあったので「幷(ならびに)」でならべて絶倫風に読書している。同じ出来事を別の角度から眺めるといくらか大きな流れがわかりやすい気がする。(2018/05/09)


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◉北沢楽天と寿能城

2018年5月8日
僕の寄り道――◉北沢楽天と寿能城

大宮の『伯爵邸』にあった無料のタウン誌『Acore・おおみや』。酔っ払っていたので中身も確かめずにもらってきたけれど、「楽天」とは明治から昭和にわたって活躍した漫画家北沢楽天のことだった。14ページにわたる特集で図版や写真も興味深い。

楽天が生まれた家があった場所は今の大宮高島屋の敷地に重なっており、北沢家は見沼にあった寿能城(じゅのうじょう)の家老職で、中山道大宮宿紀州鷹場本陣の家柄だったという。

義母が暮らす老人ホームへ通うバス路線に「堀の内」という停留所名がある。高島屋向かいのバス停からバスに乗ると、大宮駅前側から順に南堀の内、堀の内一丁目、堀の内橋の順に停車し、名前から連想した妻が
「この辺にお城があったの?」
と聞く。

城の有無はわからないけれど、堀の内橋が跨ぐ見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)を「堀」と呼ぶなら、農業用用水堀の内側から来ているんじゃないかと答えていた。見沼代用水西縁は義母が通う彩の国東大宮メディカルセンター脇を流れ、寿能城跡をかすめ、バスで渡る堀之内橋までやってくる。

寿能城は永禄3(1560)年頃、岩槻城の支城として見沼に面して築城されたという。場所はさいたま市大宮区寿能町二丁目あたりになる。脇を流れる見沼代用水西縁は、たいした川幅でないぶん常に水量があり、流れが早く堀の内あたりの護岸は垂直に切り立っているので、落ちたら大人でも這い上がれそうになく、まさに堀のように見える。荒々しい水路の景観を宥めるように、毎年早咲する河津桜の並木があってバスから見える。

寿能城初代城主の潮田資忠は、通説によると岩槻城主太田資正の四男とされ、太田資正は太田資頼の子であり、太田資頼は太田資家の子であり、太田資家は太田道灌の甥…というように人の流れも川のように遡れる。

フリーペーパーの北沢楽天特集のおかげで楽しい勉強をした。北沢楽天の生涯はイッセー尾形主演『漫画誕生』と題されて映画化されたそうで、年内公開予定だという。ぜひ観たいと思っている。(2018/05/08)


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◉鑑賞池と石垣

2018年5月6日
僕の寄り道――◉鑑賞池と石垣

田端駅は山の手と下町を分かつ崖線の台地側を切り崩して作られたので、崖側の石垣からは地下水がしみ出ており、その水を利用して金魚が飼われていて「鑑賞池」と名付けられている。

その「鑑賞池」の文字が最近黒塗りされ金魚の姿も見えない。インターネット検索すると東十条・田端駅間の崖線にある石垣が大改修されるらしい。改修終了後「鑑賞池」が復活することを願っている。

東北本線田端・赤羽駅間の電車線が完成したのが 1928(昭和3)年だというので、同区間の崖線にある石垣は戦前からのもので、東京空襲で焼ける下町も見ていたのではないだろうか。石垣の隙間に食い込んだ根なども見えるので改修が必要になったのだろう。

石は面白い。古い寺を訪ねると、表面が風化して崩れ、文字が読めない石塔がある。古いものほど風化が激しいかというとそうでもなくて、明治とあるのにすでに土に帰りつつあるものもあれば、江戸時代の建立なのに文字の刻印も明瞭で、ついこの前ここに置かれたのではないかと思ってしまうものもある。とくに古道の辻に据えられた道標がそうで、そういうのは花崗岩のように硬い深成岩でできている。

 

先日も田端・上中里駅間沿いを歩きながら石垣の植物を見て歩いたが、あの辺りの石垣も古くて、深成岩を用いた経年変化の少ないもののように見えた。昔は大切な公共構造物には上等な材料を用いたのではないか。箱根の函嶺洞門もそうだし、郷里の桜橋もそうだし、近所の音無橋もそうだけれど、昭和初年の構造物は実に頑丈にできている。(2018/05/06)

2017年9月17日の日記
◉『鑑賞池』に寄せて

2018年5月2日の日記
◉石垣(島ではない)の植物たち

 


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