【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』次郎長通り界隈編5】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』次郎長通り界隈編5】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 4 日の日記再掲)

文化の日に介護帰省し、家の雑用を済ませ、夕飯の買い物をするのを口実に自転車を漕ぎ、静岡鉄道入江岡跨線橋をウンウン呻って上り、入江岡篠田酒店前でグングン加速度をつけつつ清水八分団方向に一気に下って慶雲寺門前まで。

「始めなければ終わらない」
素晴らしい座右の銘をいただいたありがたい寺であり、ここでありがたいお言葉をいただくのが旧久能道を往復する際の何よりの楽しみとなっている。

清水でも東京でも寺の門前にお言葉があるとありがたく拝読するのだけれど、わかりやすいものの妙に道徳の押しつけ的で説教くさかったり、仏教哲学の解説なのだろうけれどわかりにくくて胸に響かないものが多い中、ここ慶雲寺のお言葉は簡単明瞭でいて含蓄があり、かつ読む者の心理状態によっていかようにも解釈できるので、胸に直接突き刺さるようでドキッとするのだ。

10,000 分の 1 の清水地図にも慶雲寺の名前はあるが何々山なのかがわからない。
たとえばこの街道の先にある本能寺は開祖日東上人が東の方角に光り物がある夢を見て開山したことから東光山となり、東光山本能寺というのだが、慶雲寺は何山なのだろうと興味があったのだ。

門前に立つと慶雲寺と大書された表札に
「大小山」
とある。いいなあ、山号まで簡単明瞭でいて含蓄があり、かつ読む者の心理状態によっていかようにも解釈できるので胸に直接突き刺さるようでドキッとする。大きいは小さい、小さいは大きい、うーんものすごく科学的であり哲学的である。

今日のお言葉も相変わらず素晴らしい!
「自分の代わりはいない」
その通りである!

こういう簡潔なお言葉は読む者のそのときの心理と見事に呼応する。

仕事を休んで頻繁に帰省して母親に付き添い、その挙げ句に死にそうな声を出して息子を呼んだ母親自身から、「あんたがここにいたってどうにもなるわけじゃないから東京に帰れ」などと言われたりするのに、どうしてこうしてここにいて夕暮れ時に自転車のペダルを踏んでいるのか。それはやっぱり、「自分の代わりはいない」と思うからである。

友人の多くが、「介護保険制度や、福祉制度もあるのだから、それらを活用してできるところは他人に任せて、少しは親孝行も手抜きをしないと自分の体をこわすしますよ」と言ってくれるのだが、それはちょっと違うのだ。

この旧久能道を秋葉山方面に逆走した場所に友人がいて、彼女は脳梗塞で倒れられた母親の介護をしている。病院で寝たきりになった挙げ句に糖尿病を併発し、在宅介護になってからは人工透析の送り迎えまでが彼女の介護生活にはある。

介護保険制度「要支援」の我が母とは違い、彼女の母上は満点近い点数を持っているので、「介護保険を使ってあれもこれもやって貰ったら」と提案したら「あれもこれもやって貰ってそれでも点数が余る」のだという。それが制度というものの限界であり、だから良くないというわけでもない。

わかるなぁと思う。
「自分の代わりはいない」
どんなに点数やお金を貰ったって娘や息子にしかできない計量不能な介護が必ずあるし、それは自分が介護保険や福祉制度や訪問看護などをめいっぱい活用して母の在宅闘病の手助けを始めて、ようやくわかったことである。

道には教えがあり、道を行き交う人々には地に足の着いた実践がある。

[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

「自分の代わりはいない」
その言葉を反芻しながら旧久能道を走って美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋へ。「文化の日」であることより大切な「水曜日=定休日」であることを忘れていて唖然。ひさしぶりにシャッターの降りた魚屋を見た。夕飯のおかずの当てが外れ魚屋の代わりもいないことを痛感した。

仕方がないので「ポプラ並木通り」を日本平方面へ。村松原の旧久能道沿いでとびきり美味しいミカンを出荷している農家に伺い、住所と電話番号を教えて貰い、東京からの取り寄せと地方発送が可能なことを確認した。

先日、無人売店にあった丹波の黒豆を買ったのを覚えていてくださって、自家用丹波の黒豆をお土産に貰ってしまい、急に嬉しくなり、代わりのいない馴染みのミカン農家ができてしまう。

写真:農家庭先の作業場。
[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』次郎長通り界隈編4】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』次郎長通り界隈編4】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 3 日の日記再掲)

なんとなく「知子(ともこ)」という名前の響きが好きだった高校生時代があり、なんとなく好きな名前の作家がいるのが気になり、なんとなく清水銀座の戸田書店で買った本が、吉田知子の『無明長夜(むみょうじょうや)』だった。1970(昭和 45 )年の芥川賞受賞作である。

奥手の高校生にとっては衝撃的な深淵なる女性の魂のとの出逢いであり、「(女性というのは一種恐ろしいものだな)」と肝に銘じる事になる貴重な読書体験だった。

終わりがあるということも恐ろしいが、終わりがないのではないか!、という観念にとらわれることもまた恐ろしい。二人の母が倒れ、違った形ではあれ終わりのない夜と思えるような精神の深みに引きずり込まれそうになったりし、やっぱり「(女性というのは一種恐ろしいものだな)」と感じるたびに『無明長夜』を思い出す。

旧久能道沿い、清水上清水町に慶雲寺という寺があり、地図で見るとかつて清水次郎長が幼年時代に通った(退学になった)寺子屋のある禅叢寺と敷地を接している。後に次郎長はこの母校禅叢寺境内の竹を切って竹槍を作り追分まで走って行って都鳥(都田吉兵衛)を討ったという凄い話しもある。

その寺の門前には時折なかなか良い「今日のひとこと」が書かれており、今でも一番好きで座右の銘にしているのが「始めなければ終わらない」という言葉であり、自らを叱咤激励せざるを得ない場面に遭遇するとそれ思い出して鞭打つ。そしてその延長として勝手に「始めたからには必ず終わる」という楽観のお言葉も用意している。自らを叱咤激励するにも飴と鞭が必要なのだ。

週末や祭日になり病院も休みだという時になって体調を崩すのがこのところの母の生活リズムとなり、休みが近づくたびに運悪く低気圧も近づいて、そのせいで体中が痛むのだ、というのが本人の立てた説である。

世話になっている中医学の先生に「良い事より悪い事の数を数えすぎる」と注意された母だが、昔からそういうところがあって、明日から息子がいない、明日は病院が休みだ、明日は友人も来ない、明日は1日雨だ”などという想念を総動員して自らパニックを引き起こし体調を崩している、という一面もある。

明日は文化の日だから明後日まで我慢できるかと聞いたら大丈夫だというので、県立がんセンターに電話をし、11 月 4 日に急遽担当医師の診察をお願いした。これで木・金は仕事にならないわけで、週半ばからの介護帰省となる。「病院の予約を取ったので3日に帰省して 4 日に連れて行くから」と告げると少し元気そうになり、夕方には訪問看護による栄養点滴も受けてかなり元気そうになっていた。

母にとっての『無明長夜』の闇にちっぽけな明かりを灯す役も慣れてきて、これでまた少しは元気になり、東京に戻った途端、一天にわかにかき曇り暗い長距離電話の声を聞くということの繰り返しだろうなと思う。
「(お母さん、そもそも「無明」という言葉の意味はね……)」
と言いたいところだが、そういう親との付き合い方はもう止めて久しい。

写真大上:旧久能道沿いにある「秋葉常夜灯」。火伏せの神秋葉神社へ参詣する人々の道しるべだったというが、かつては海を行く漁師の船からもここの灯りが見えたという。
写真大下:旧久能道沿いのカーブミラーにしがみついているセミの抜け殻。今年は台風が異様に来襲したのにびくともしない。しがみつく力の強さに驚く。
写真小:清水幸町、「サスヨ海苔」さんの蔵。きらく荘のところから清水港飼料脇を通って浄念橋近くに出る細道より。この細道もかなり古そうだ。
[Data:SONY Cyber-shot W1]

息子が寄生虫、もとい帰省中の母は少しだけ元気である。駅前銀座まで歩いた帰り、たまには小芝さん(小芝神社)の前の道を歩いて帰ろうなどという。

旧東海道が江尻宿のはずれで直角に左に曲がって稚児橋を渡り、右に「く」の字に曲がって都鳥(都田吉兵衛)落命の地追分に向かうのだが、「く」の字のところで分岐するのが旧久能道である。

旧東海道が江尻宿のはずれで直角に左に曲がるのに対して右へ曲がる道も古そうなのだ。その道沿いに小芝さんがあり、その先に森美佐枝率いる『ハウジング森』があり、その先には秋葉さん(秋葉神社)がある。この道は何というのだろう。

下清水の旧久能道沿いには秋葉詣での常夜燈があり、旧久能道は久能山に向かえば久能道、秋葉山に向かえば秋葉道などと呼ばれたのではないかと思ったりする。

母は「この『たかぎ美容室』も古くからあるし、おばあちゃんはあそこに薬局ができた時は便利になったと喜んでたっけ」などと思い出話に夢中になる。この仮称「秋葉道」に、清水真砂町ミナトマーケットの方から来て交わり、清水高橋方面へ向かう道があってこれもかなり古い。その交差点近くにある「イワクラさんに寄って野菜の苗と種を買ってこう」などと言い出す母に驚く。

苗と種も植え終わり、帰省するたびにベランダ家庭菜園の野菜が食卓に上る日が来るはずである。

[Data:SONY Cyber-shot W1]

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【粉骨砕身ミナト市場】

【粉骨砕身ミナト市場】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 2 日の日記再掲)

自分のことを電気冷蔵庫のない子ども時代を体験した最終世代ではないかと思ったりする。わが家に電気冷蔵庫がやってきたのは小学校高学年になってからであり、それでも級友の中では早い電化だった。

東京都北区王子四丁目。かつて『三河屋』というひどく小さなスーパーがあり、母や近所の人々はよくそこで買い物をし、なぜか『三河屋』とも「スーパー」とも呼ばずに「乾物屋」と呼んでいた。

今では冷蔵ショーケースだらけのスーパーマーケットが当たり前だけれど、昔は冷蔵ケースなんてほんのちょっとで、売られている食品は常温で保存できるものばかりであり、酒屋や乾物屋が大きくなってスーパーマーケット化する事が多かったのだと思う。

かつて何度も訪れた富山駅前に古びた市場があり、その名を『須田ビル』といったが、再開発されて今はもうない。生まれて初めて須田ビルに足を踏み入れ、乾燥海産物の匂いを胸一杯に吸い込み、
「(ああ、ミナトマーケットだ!)」
と思ったことを懐かしく思い出す。

大好きだった富山駅前須田ビルはもうないけれど、清水真砂町、駅前銀座の中程に『ミナトマーケット(ミナト市場)』は今でもちゃんとある。年末の買い物客で押すな押すなの大賑わいだった全盛期の『ミナトマーケット(ミナト市場)』の匂いに、富山駅前『須田ビル』の市場の匂いは酷似していたのだ。

『ミナトマーケット(ミナト市場)』中程にある『松尾商店』。僕の大好きな店のひとつである。

そこでは今日も“電動自家製花かつお削り器”が稼働し、削り立ての鰹(かつお)節の良い匂いが漂ってくる。ここでは鰹(かつお)節のみならず、鰺(あじ)節、鯖(さば)節、鰯(いわし)節などの削り節が常時売られていて、清水っ子は料理の種類と好みに合わせていろいろな削り節を使い分けている。通称「ねこまんま」にしたって、鰹節、鰺節、鯖節、鰯節を小皿にとりわけ、醤油をかけ、炊きたてご飯の上にのせて湯気と一緒にかっ込むと見事に風味が異なり、それぞれに異なった美味しさがあるのだ。

清水名物『清水おでん』に欠かせない調味料のひとつに『ダシコ(だし粉)』というのがある。要するに鰯節の粉(だと思う)であり、それに青のりを混ぜたものを味噌おでんに振りかけて食すのである。清水っ子は削り節のみならず「粉」にもこだわりがある。

『松尾商店』常時在庫の粉を列挙すれば、「鰹の粉」「鰯の粉」「桜海老の粉」「昆布の粉」「海苔の粉」「椎茸の粉」などがあり、医食同源漢方薬剤店のようでもある。

母が『ミナトマーケット(ミナト市場)』で、とろろ昆布と黒豆きな粉を買いたいというので付き合ったが、母親が乾物を買う光景を見るのは子どもの頃から好きだ。乾物には枯れていながらも豊かさがあり、「(いいなぁ)」と思う時の老人の姿に似ている。

かつて合併前の清水市では、市が所有する『ミナトマーケット(ミナト市場)』隣りの長崎屋跡地と合わせて再開発し、場外馬券売場を誘致しようなどという戯けた計画があったが、今はどうなっているか知らないし、静清合併の公約同様、反故(ほご)になっているよう祈りたい。

乾物と老人と市場は計量する尺度のない地域の宝である。

写真は『松尾商店』店頭にて。
[Data:SONY Cyber-shot W1]

『ミナトマーケット(ミナト市場)』からの帰り道、袋小路になっている飲み屋街の前を通ったら、昼間から看板に明かりを入れている店があり、店名を見たら『お手洗』と書かれていて、「(いいなぁ、やられたなぁ)」と感心する。

人間だって『御手洗(みたらい)』という苗字があるくらいだから店名だって 『お手洗』という名があっても良いと思う。

客A 「あれっ、お手洗って書いてあったのに普通の店か?」
ママ 「お手洗は店の名前、トイレは奥よ」
客A 「はっはっは、いや一本取られたついでに一本飲むか」

さすが清水っ子、よいところに目をつけたなぁと感心する。
「冗談が過ぎるぞ」
と怒られたって、上にある「清酒白鹿」の文字を見落とした方が悪いのである。

感心してはみたものの、気になるので前まで行ってみたら本当のお手洗いだった。惜しい!

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』次郎長通り界隈編3】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』次郎長通り界隈編3】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 1 日の日記再掲)

丹波街道からポプラ並木通りに出て次郎長通りに向かう道すがら、中田川緑道と書かれた石の標柱に遭遇し、湿地に足を取られるように寄り道し、細い遊歩道を海に向かって歩く。

かつてここには中田川という川が流れていたというけれど、いったいいつ頃暗渠になったのだろうか。緑道はかなり細いし、しかも港に注ぐ河口近くだというのにくねくねと蛇行しているので、かなり細い流れであり、もしかすると浄念川より川幅が狭く、だから汚染も激しく、いち早く暗渠となる憂き目を見たのではなかろうかと類推してみる。

緑道をしばらく進むと清水総合運動場に隣接して「老人憩いの家・清開きらく荘」があり、その裏手に池のある小庭園があって、そこから先は歩道脇に水の流れる親水公園になっている。湧き水か、水道水か、工場排水かわからないけれど、平日で人気が全くないにもかかわらず力強い水量があり、在りし日の川景色を知らないので往時を偲ぶことはできないけれど、回る水車を見ながらせせらぎに耳を澄ませていると、自分が海辺にいる事すら忘れそうである。

水音に混じって機械音が聞こえてくるので我に返ってあたりを見ると、緑道はいつのまにか工場地帯に入り、工場敷地と自然遊歩道が混然とした、いかにも清水らしい光景となって清水総合運動場第2駐車場脇に出る。

清水という町は僕が物心ついた頃から一貫して、三保や日本平や駿河湾や富士山などの観光資源を活用して客を呼ぶ一方で、それらの資源を破壊しつつ工業都市化に驀進したりしていたけれど、今にして思えばあれも、狭い日本ではどこでも見られた、ありきたりで身勝手な人間の営為だったのだろうと思う。

思い起こせば、自然を破壊して工業化を推し進めつつ、観光地として全国に清水をアピールしていたわけで、昭和の時代はそういう時代だった。浦山桐郎監督の『キューポラのある街』は 1962(昭和 37 )年の作品だけれど、当時の映画には建ち並ぶ工場と黒煙をもくもくと吐き出す巨大煙突が、やるせない生きる活力の象徴として時代の背景に写し混まれていた。

小学生時代を過ごした東京都北区王子の学校では、川沿いの工場地帯に並ぶ煤けた巨大煙突群を、躍進する「わたしたちの北区」の象徴として教えられ、友人たちとススキの穂を手折って口笛に合わせて振りながら、まだ自然の残っていた荒川土手を、煙突の本数を数え歩いたりもした。そして生まれ故郷清水に戻って中学生になり、社会科の副読本として買わされた「わが郷土清水」にも、中ほどからは工業都市としての躍進清水に多くのページが割かれていた。

そういう育ちをしたせいか、工業建造物を見ると、その半自然さに呆れつつも、実は身体の底から震えるように「(綺麗だなぁ)」「(これも一種の芸術だなぁ)」と感動し「(よーし、僕も頑張ろう!)」などと元気が出てしまったりする癖が抜けないのである。

1999 年 9 月から清水市観光協会観光企画委員会によって始められた朝市『あっ朝市』に美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋が出店するので、会場である清水総合運動場第2駐車場に行く。そのたびに、隣接する清水港飼料の倉庫と工場を見上げて感動し、いいなぁと思う。

小学生時代、清水から修学旅行で上京した従兄が東京タワーに上り、お土産に「努力」と書かれた銅製の東京タワーを買っていたが、銅製の清水港飼料の工場に「努力」と書かれた置物が『あっ朝市』で売られていたら清水土産に是非買いたい……と思う。

写真小上:中田川緑道入口を示す標柱。矢印は「←」ではなく「→」だと思うのだが。
写真小下:天野回漕店脇の湧水(?)。
写真中段上下:『清水港飼料』の貯蔵タンク。いわば倉庫である。
写真下段:『清水港飼料』の工場。ホーネンの工場と似た匂いがする。
[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
   次ページ »