【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』次郎長通り界隈編3】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』次郎長通り界隈編3】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 11 月 1 日の日記再掲)

丹波街道からポプラ並木通りに出て次郎長通りに向かう道すがら、中田川緑道と書かれた石の標柱に遭遇し、湿地に足を取られるように寄り道し、細い遊歩道を海に向かって歩く。

かつてここには中田川という川が流れていたというけれど、いったいいつ頃暗渠になったのだろうか。緑道はかなり細いし、しかも港に注ぐ河口近くだというのにくねくねと蛇行しているので、かなり細い流れであり、もしかすると浄念川より川幅が狭く、だから汚染も激しく、いち早く暗渠となる憂き目を見たのではなかろうかと類推してみる。

緑道をしばらく進むと清水総合運動場に隣接して「老人憩いの家・清開きらく荘」があり、その裏手に池のある小庭園があって、そこから先は歩道脇に水の流れる親水公園になっている。湧き水か、水道水か、工場排水かわからないけれど、平日で人気が全くないにもかかわらず力強い水量があり、在りし日の川景色を知らないので往時を偲ぶことはできないけれど、回る水車を見ながらせせらぎに耳を澄ませていると、自分が海辺にいる事すら忘れそうである。

水音に混じって機械音が聞こえてくるので我に返ってあたりを見ると、緑道はいつのまにか工場地帯に入り、工場敷地と自然遊歩道が混然とした、いかにも清水らしい光景となって清水総合運動場第2駐車場脇に出る。

清水という町は僕が物心ついた頃から一貫して、三保や日本平や駿河湾や富士山などの観光資源を活用して客を呼ぶ一方で、それらの資源を破壊しつつ工業都市化に驀進したりしていたけれど、今にして思えばあれも、狭い日本ではどこでも見られた、ありきたりで身勝手な人間の営為だったのだろうと思う。

思い起こせば、自然を破壊して工業化を推し進めつつ、観光地として全国に清水をアピールしていたわけで、昭和の時代はそういう時代だった。浦山桐郎監督の『キューポラのある街』は 1962(昭和 37 )年の作品だけれど、当時の映画には建ち並ぶ工場と黒煙をもくもくと吐き出す巨大煙突が、やるせない生きる活力の象徴として時代の背景に写し混まれていた。

小学生時代を過ごした東京都北区王子の学校では、川沿いの工場地帯に並ぶ煤けた巨大煙突群を、躍進する「わたしたちの北区」の象徴として教えられ、友人たちとススキの穂を手折って口笛に合わせて振りながら、まだ自然の残っていた荒川土手を、煙突の本数を数え歩いたりもした。そして生まれ故郷清水に戻って中学生になり、社会科の副読本として買わされた「わが郷土清水」にも、中ほどからは工業都市としての躍進清水に多くのページが割かれていた。

そういう育ちをしたせいか、工業建造物を見ると、その半自然さに呆れつつも、実は身体の底から震えるように「(綺麗だなぁ)」「(これも一種の芸術だなぁ)」と感動し「(よーし、僕も頑張ろう!)」などと元気が出てしまったりする癖が抜けないのである。

1999 年 9 月から清水市観光協会観光企画委員会によって始められた朝市『あっ朝市』に美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋が出店するので、会場である清水総合運動場第2駐車場に行く。そのたびに、隣接する清水港飼料の倉庫と工場を見上げて感動し、いいなぁと思う。

小学生時代、清水から修学旅行で上京した従兄が東京タワーに上り、お土産に「努力」と書かれた銅製の東京タワーを買っていたが、銅製の清水港飼料の工場に「努力」と書かれた置物が『あっ朝市』で売られていたら清水土産に是非買いたい……と思う。

写真小上:中田川緑道入口を示す標柱。矢印は「←」ではなく「→」だと思うのだが。
写真小下:天野回漕店脇の湧水(?)。
写真中段上下:『清水港飼料』の貯蔵タンク。いわば倉庫である。
写真下段:『清水港飼料』の工場。ホーネンの工場と似た匂いがする。
[Data:MINOLTA DiMAGE F300]

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