電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【米と建築】
【米と建築】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 15 日の日記再掲)
清水の中央を南北に走る国道 149 号線。
国道 1 号線と JR 清水駅前で分岐して南下し、清水富士見町で左折してさらに清水入船町で右折し、エスパルス・ドリームプラザ前を通過して三保方面へと向かう。清水富士見町で左折せずに直進すると県道清水富士宮線になるわけだが、400 メートルほどで突き当たりになり、右折すると港橋、橋を渡った左手が清水次郎長通りとなる。
港橋たもとに『かどや』という小さなおにぎり屋があり、友人の建築家が「かどやのご飯は本当にうまい」と教えてくれ、それ以来大ファンになった。
最近は年寄りだけでなく、若者も軟らかい食べ物が好きだそうで、ご飯も軟らかめが好まれるという。で、堅いご飯は堅く、軟らかいご飯は軟らかい、のは当たり前なのだけれど、ほんとうに美味しいご飯というのは堅いようで柔らかく、柔らかいようで堅い気がする。
先日テレビを見ていたら数秒でおにぎりを作る名人が出ていたが、単にご飯を掴み、具を入れ、大きな海苔でくるむだけで、呆れる様な代物だった。握り飯を「握っていない」のである。
柔らかく炊いた米を握ればべっちょりと米粒がくっつき、適度な空気が含まれないので、口に入れた時、海苔が香り立たず、白米の微かな香味も感じられない。べっちょりさせたくないので強く握れず、それは緩く絞った雑巾の様な不潔感が漂う。
昔は総入れ歯安定剤などという洒落た商品もなく、僕の祖父母も柔らかく炊いたご飯が好きだった。それでも残りご飯をおにぎりにしても、けっして米粒がべっちょりと固まることはなかった。炊きあがったら丹念にしゃもじで切るように混ぜて湯気を逃がし、木製のお櫃に入れて保温していた。蓋との間には布巾を挟んで水蒸気が再びご飯に戻らないようにし、大切に管理したご飯だったのである。
柔らかくても米の一粒ひとつぶが立っているご飯は、強く握っても癒着しないのである。ご飯をおいしく炊くのに少量のサラダオイルを入れる、などという話を聞くけれど論外だと僕は思う。買ってきたおにぎりが妙なご飯だなと感じ、お湯に落としてみると油が浮いたりするのであり、一粒ひとつぶが立ったご飯の安直な模倣のように思える。
『かどや』で炊きたてご飯を扱うさまを見ると、昔ながらの慈しみある扱いをしていて、なるほどなぁと思う。茶道をたしなまれる建築家なので一座建立などという味わい深い言葉を教えていただくこともあり、建築家にとっておにぎりは建立するもののひとつなのかもしれない。
写真は「かどや」のしらすおにぎりと五目いなり。
◉
« 【夏未だ去らず】 | 【お別れ列車】 » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |