【夏未だ去らず】

【夏未だ去らず】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 13 日の日記再掲)

終末介護に取り組んでおられる医師の本を装丁することになった。

日々夥しい看取りを体験されていると、人は情緒的にもなるのも仕方のないことなのかもしれなくて、著者がつけた書名も極めて感傷的に思え、サブタイトルを決める権限をいただいたので、『ホスピスの春夏秋冬』を推しておいた。『ホスピスの虹の架け橋』はどうだろうかと著者が言うので、「いや『ホスピスの春夏秋冬』で行きます」と駄目押しをしておいた。

著者も好きだという司馬遼太郎の著作の中に、吉田松陰の言葉として「その時その時に春夏秋冬がある」と書かれているそうで、「人は共有する世界の四季を生きる中で、人それぞれ個人的な春夏秋冬をもまた生きているのでしょう?」と説得しておいた。

三人の親が次々に病いに倒れ、ひとりっ子同士の夫婦が親の看護・介護をする時、「大変ですね、なかなかできることではないです」などと励ましや慰めの言葉をいただくけれど、失禁して戸惑う義父の脇に膝をつき、ズボンとパンツを脱がせ、オシッコにまみれながら介助するとき、いまこの場で、それができるのは自分しかおらず、義父もまたそれを頼りにしていると感じるとき、親子ともども、夏のまっただ中を生きているように思えることがある。
 
老いた上に病いを得て晩年を生きる者とその家族は、第三者が遠巻きに見れば秋から冬へと向かう旅人のように見えるかもしれないけれど、介護者が今できることを精一杯やること、それに応えようと老人が残された力を振り絞って頑張るとき、当事者にとってはいまこの時が真夏であるように感じるのである。
 
それぞれの親が旅立ち、次は自分自身の後始末、もうひとつの夏をひたむきに生きられるかしら、と振り返るとき、ちょっとだけ感傷的になって今日このときを思い出し、大好きな歌でも口ずさむかもしれない。

写真は芥川龍之介が若き日の夏を過ごした旧久能道沿い、清水北矢部にある臨済宗妙心寺派新定院。「しんていいん」と読んだら、次郎長通り魚初の若主人に「しんじょういん」と校正された(笑)。

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