【気配】

【気配】

もうそこにないものの気配を感じる一方で、やがてそこに立ち現れて来るであろう物の、未来の気配を感じてみようと思ったりするほどに、人にとって時間というのは不可解な代物である。

撮影日: 07.9.22 8:30:59 AM
FUJIFILM FinePix Z3

走行中の静鉄電車車窓より。
御門台駅前のスーパー跡地がしずてつストアになるという。
ここに立ち現れるであろう大型スーパーを想像してみる。

撮影日: 07.9.22 8:33:25 AM
FUJIFILM FinePix Z3

清水大坪町付近に東海道線と静鉄をくぐれる広い道ができる。
ここに静鉄の駅ができたらいいのにと言ったら
「自治体が金を負担するなら静鉄は開業してもいいというスタンスではないか」
と言う友人が居た。

ここにようやく鉄道をくぐれる橋ができるのと同様、金を出してでも新駅が開業したら清水の街はかなり変わりそうな気配を感じる。

コメント ( 10 ) | Trackback ( )
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コメント
 
 
 
気配が… (桜飯)
2007-09-23 23:40:39
ん、カレー南蛮か…

お彼岸でオラも昨日仏壇にばたもちを上げ、墓参りに行って来ました。今日もまたぼたもちを上げ、カミさんはずっとぼたもちを食べ続けています。
 
 
 
気配ねぇ ()
2007-09-24 07:25:11
静鉄をくぐる道路の工事が始まってからずっと高い工事用フェンスに囲われて中の様子が全く見えません。電車からの写真で中の様子を知ることができました。フェンスが取れたら駅が現れた・・なんておもしろいんですがそんな気配はありません。
墓参りに行って親類を回ると菓子などをふるまわれ一日中食べ続けています。大丈夫だろうか?
 
 
 
牡丹餅・萩の餅 (あおい君)
2007-09-24 09:02:03
▽JR・静鉄大坪共同駅は、合併時の構想のパンフには載せられていましたが、その後具体的な進展の気配は感じられませんね。
JR駅はともかく、静鉄駅だけならなんとかなりそうにも思うのですが・・・・。
▽最近お彼岸に墓参りしたことはありません。
まあ、生き仏の方が大事だということで・・・
母が欠かさず作っていた彼岸の餅も遠い思い出でとなってしまいました。

 
 
 
お萩とぼた餅 ()
2007-09-24 11:13:55
桜飯さんは自然に「ばたもち」と「ぼたもち」の二つの呼び名が出たのかしら。
▽萩の季節は「お萩」、牡丹の季節は「ぼた餅」というのは和菓子屋さんが創意工夫した呼び名で、そもそもは「ぼた」と呼ばれた割れ米やくず米を大事に利用したつましい餅なんですよね。
米袋をはたいたときにこぼれる餅なのか、米櫃の底に残った割れ米を取り出してしまって払底してしまったからか「おはたき」などという言葉もあります。
「ばたもち」という呼び名を初めて聞き、検索してみたら「ばたもち」という呼び名も各地にあるのですね。
瓦屋だった実家は清水の製材所から出る木の最外周に近い部分を剥き取った屑材を買って瓦を焼く窯の燃料にしていましたが、それを「ばた」と呼んでいました。
きっと「ばた」は「屑」のことですね。
そう言うしみじみとした思いを込めて食べるぼた餅が好きです。
▽静鉄大坪町駅ができたら清水で最も乗降客の多い駅になるんじゃないかしらね。
東海道本線の北側の人々の静鉄利用率も格段に増しそうな気配も感じますね。
親戚まわりをすると確かに一日2食にした意味が無くなります。
▽大ボラカタログのグランドデザインにはJRとの共同駅の構想もあったのですか……。知りませんでした。
僕も生き仏は家内が担当してくれているので仏祭りができてるだけです。
そりゃあもう生き仏の方が大切です。
 
 
 
バタもち (あおい君)
2007-09-24 19:00:00
▽「ばたもち」という言い方は初めてききました。なるほど納得です。
もともと、お菓子屋さんの店先で上品に鎮座させられて売られるようなものでなく、本当に素朴なものだったのですね。
それと、昔、廃品回収業の方をバタヤ(差別用語ということで、最近は使ってはいけないらしいですが)といったのは、そういう意味だったのですね。
子どものころ、バターなんか売っていないのになんて思ってました。
▽大坪町駅も実現できない政令市っていったい(以下自粛)
 
 
 
スーパー・イヤマのことかな? (tokiomark)
2007-09-24 19:00:59
しずてつストアーができる御門台駅前のスーパー跡地って。
御門台駅のそばにある有度第一小学校(昔は有度小学校)は母校でした。小生がそんな小学生時代にイヤマは創業しているわけだから45年以上は経っているはず。スーパーのはしりだったんだよね、有度学区では。たしか経営者の息子が同級生だったなぁ。時代は変わっていくなぁというより、長い間続いたなぁって感じだなぁ。六さんのいうスーパーがイヤマならね。
 
 
 
バタの頃 ()
2007-09-25 16:11:02
清水に戻るまで過ごした東京下町の校区にはバタ屋がありました。
同級生にもその地域から通ってくる友人がいたので、未舗装道路にはみ出して物干用の柱が立ち、リヤカーがたくさん立てかけられ、畳のない板敷きの家にトタン屋根をのせた友人宅に遊びに行きましたが、友人も家族も胸を張って生きてました。
「バタ屋」も「屑屋」も立派な職業だけど「あっちの方に行ってはいけない」などと言うおとな達が多く、そういう人たちがと呼んだりしたので貴賤のない職業まで差別の汚名をきたのでしょうね。
新駅は自治体の投資としては悪くないと思いますね。
 
 
 
スーパーイヤマの時代 ()
2007-09-25 16:23:01
そうです、スーパーイヤマでした。

僕が幼い頃を過ごしたり預けられていたりした大内田んぼの真ん中はまわりに人家が全くなく、大内の観音さん前によろずやが一軒あっただけでした。

山形から季節労働者「ミカン娘」として清水柏尾に出稼ぎに来た叔母は働き者だとすすめる人がいて清水に嫁に来ました。山形とどっちが田舎だったのでしょう。
毎日買い物はたんぼ道を通って北街道に出て押切まで行きました。押切で揃わない物は天王町、天王町で揃わない物は高橋町、高橋町で揃わない物は真砂町の方まで自転車で出掛けていました。

余談ですが日記に何度も取り上げている小芝神社前の『マルミヤ薬局』ができたときは「良かった、闇市まで行かなくてすむ」と家族は大喜びしたそうです。

そんな頃、御門台にスーパーイヤマができ、叔母は毎日自転車をこいで大内田んぼから買い物に出掛けて行き
「今じゃあイヤマができたんて夢のようだよ」
と言っていました。大内から御門台まで毎日自転車で買い物に行くなどと言ったら今では悪夢のようですが、そういう時代もあったのですね。
 
 
 
等高線 (tokiomark)
2007-09-26 00:19:16
大内からイヤマのある御門台まで自転車で来た・・・
帰りは楽だっただろうが、行きは辛かっただろうなぁ・・・
僕らは、今、その辛さを想像出来るが、太った女たちが、そういう辛さをエンターテインメントなエキソサイズで求めたりする。(つまりやらなくても済むことをだ)
へんな社会だけど、今の日本は。
案外、一つ経済のボタンを掛け違えば、当たり前の日常としてやってくる現実かもしれないね。
大内から御門台への道のりかぁ・・・


 
 
 
足がない ()
2007-09-26 11:27:37
最近の人はちょっと遠いと「足がない」なんて言うんですよね。
「歩いてここまで来ました」と言うと呆れられることに呆れてしまったりもします。
電気冷蔵庫の無かった時代の田舎のお母さんは大変でした。毎日買い物から帰ってガスも水道もない土間で煮炊きしていたことを思うといくら尊敬してもしきれません。
 
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