年金

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日本年金機構から母親のもとに手紙が来た。
昭和20年に、夫、つまり僕の父親らしき人物が、数ヶ月間だけ働いた記録が見つかったが、間違いないだろうかというのだ。
10年前に亡くなった父の、それも時代は終戦直後のことである。
母にしてみれば、結婚はおろか、自分が小学生の頃の話である。
そんな事は分らないし、今となっては調べようもない。

そのことを直に伝えるために、母親は年金機構に電話をした。
電話に出た係りの人は、一度電話を切り、書類を揃えてから、数分後に再度電話をかけてきた。
どうやら名前と生年月日のみを頼りに、該当すると思われる人物を探して、関係者に連絡して、ひとりひとり確かめているようだ。
古い台帳が出てきて、その中に父親と同じ名前があったらしい。
人違いの可能性もあるので、詳しい情報を向こうから言おうとはしない。

母親は、いくつか質問を受けた。
まずはその頃父がどこにいたかを聞かれたので、恐らく東京か神奈川ではないかと答えた。
すると、地域が全然違うので、どうやらこれは人違いですね・・という事になった。
書類はどこになっているのか聞いてみると、北海道だという。
母親は驚き、それなら可能性はあると言った。
そもそも北海道出身だし、終戦後しばらく疎開していたという話を思い出したのだ。

北海道のどこに住んでいたのか聞かれ、多分帯広であると答えた。
書類では釧路の会社で働いたことになっているようだ。
それを聞いた時、父親が時折話していた事がよみがえってきた。

家族の大黒柱である祖父は東京に働きに出ており、家族は北海道に残されていた。
祖母は女手ひとつで、5人の子供たちを養わなければならなかった。
終戦直後で物資は何もなく、家族大勢で生きていくのは、並大抵のことではなかった。

ある日祖母は、帯広で採れた野菜を持って、釧路の海辺まで汽車で出かけていった。
山で採れた野菜類は、漁師町で飛ぶように売れ、祖母は獲れたての魚介類を手に入れた。
帯広に戻り、まずは家族に魚を分け与え、残りを帯広の山の人たちに販売したところ、またも飛ぶように売れた。
帯広では新鮮な魚の入手は難しかったのだ。

祖母は並外れた努力家であり、しかも商才のある人で、山と海を毎日往復することで、子供たちを育てる為の食料と生活費を得た。
もちろんこれらは、いわゆる闇物資である。
戦後の混乱しきった日本では、それをしないと生きていく事が出来ないという矛盾を、社会全体が抱えていたのだ。

一度取り締まりに遭い、荷物を取り上げられた事があった。
理不尽な振る舞いに、祖母は怒りを抑えながら「あなたたちの時代には、こういうことの無い日本を作って欲しい」と言った。
祖母のお説教に困った担当官が、「わかったよ、おばさん。俺たちがこれを全部買うから・・」と言って買ってくれたという。
そういう時代だったのだ。

しかし朝から晩までの労働は相当に過酷であった。
荷物が多い時は、父親が手伝って一緒に運んだ。
重い荷物を担いで長い距離を移動する祖母を見かねた父が、祖父に手紙を書いた。
母親にこのような生活を長く続かせるわけにはいかない・・という、息子からの手紙を読んだ祖父が、その後、みなを内地に呼び寄せたのだ。


父の仕事の内容を知っているか聞かれた母は、寒くて凍えてしまうので、燃やす為の木屑をもらおうと、木を扱う会社で働いたと、たしか言っていたと答えた。
○○製材所?と聞かれた母は、「ああ、その○○さんという名前は時々聞きました」と答えた。

電話の向こうの担当者が満足げに言った。
「すべてが完全に一致しました。間違いありませんね」

働いたと言っても、ほんの数ヶ月であるから、年金額がどうなるという話ではない。
だが、母親も担当者も、満足し、喜んでいた。
すでにこの世にはいない人たちの、60年以上も前の埋もれた事実が、古い書類からよみがえったことに、小さな奇跡のようなものを感じたのだ。
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