1971年のこの日(3日)、ジム・モリソンが死んだ。パリのアパート、バスルームで事切れていたのを恋人が発見した。直接の死因は心臓発作だった。
UCLAの映画学科に入学したジムは、ビートニク気取りで詩人を目指し、朗読会に参加していた。レイ・マンザレクはジムを発見するや、ボーカリストに据え、ドアーズ結成に至る。バンド名の由来はウィリアム・ブレイクの詩だった。
67年1月の1st“The Doors”は、ギターレスの斬新さ、奥深い歌詞で注目を浴びたが、何よりファンを惹きつけたのは悪魔憑きのようなジムの声だった。突き抜けるような#1「ブレーク・オン・スルー」、アコースティックな#3「水晶の舟」、オイディプス・コンプレックスをテーマにした#11「ジ・エンド」などバラエティーに富んでいるが、#6「ハートに火をつけて」の大ヒット(年間2位)が、ドアーズの名を全世界に知らしめることになる。
2nd“Strange Days”を最高傑作に挙げるファンが多い。ヒットした#3「ラヴ・ミー・トゥー・タイムズ」に加え、#1「ストレンジ・デイズ」、#2「迷子の少女」、#7「まぼろしの世界」など陰翳のある曲が並んでいる。ジャケットも印象的で、フリークスを含む大道芸人がポーズを取る構図は、幻想的で退嬰的な音と見事にマッチしている。
皮肉なことに、最初の2枚の成功が状況を悪化させた。アルバム制作を急ぐレコード会社が圧力を掛けてきたが、過酷なツアーでバンドは擦り切れ、3~5枚目は明らかに精彩を欠いていた。文学を志すジムにとって、アイドル、セックスシンボルとして振る舞うことは苦痛だったに違いない。
ジムの反逆児としてのイメージを確立した二つの事件がある。一つ目は全米注視の「エド・サリバンショー」で、ジムは局との約束を破り、放送コードに抵触する詞をそのまま歌った。もちろん確信犯だが、ルールに従って「お行儀良さ」を印象付けたストーンズとは対照的だった。二つ目はマスターベーション事件である。ステージで下半身裸になり、現行犯で逮捕される。ジムの行為は「自慰」でも「意思表示」でもなく、追い詰められた者の「自損」だったと思う。「もう、やめたい。助けてくれ」とSOSを発信していたのではないだろうか。
復調の兆しが窺えた“L.A.Woman”発表後、ジムは執筆生活に専念するためパリに向かい、短い人生を終えた。4年の活動期間だったが、ドアーズは狂気や内向のベクトルをロックに導入した先駆者だった。ストラングラーズ、ジョイ・ディヴィジョン、キュアー、エコー&バニーメンなどに、ドアーズの色濃い影響が感じられる。
以下に、ジムと同時代を生き、鮮烈な死を遂げた者たちについて簡単に記したい。
70年9月18日、ジミ・ヘンドリクスは薬物の過剰摂取で急逝した。モンタレーやウッドストックで歴史的名演を披露したジミヘンだが、死の直前のワイト島フェスの頃にはボロボロになっていた。「才能が壊れてしまった姿を目の当たりにし、仲間として悲しくなった」と、フーのピート・タウンゼントが語っていた。
同年10月4日、ジャニス・ジョプリンが亡くなった。「ローズ」にも描かれているが、ジャニスは孤独と絶望に蝕まれ、薬物や酒に溺れていった。死の20日ほど前、ベッシー・スミスの墓碑を購入し、敬意の言葉を刻んでいる。死の直前には遺書に手を加え、遺灰を海にまくよう依頼していた。ジャニスは緩やかな自殺を企てていたのかもしれない。
同年11月25日、アルバート・アイラーが刺殺体でイーストリバーに浮かんだ。三島が割腹自殺した日でもある。享年34歳だった。形に捉われない点で、アイラーとジミヘンは重なる部分が大きい。この2人がジャンルを超えてセッションをしていたら、限りなく自由で浮遊感のある音楽を奏でていたに違いない。
くしくも同じ27歳でこの世を去ったジャニス、ジミヘン、ジム・モリソンの死については謀殺説も流れたが、想像の域を出ないと思う。彼らは時代のパトスに炙られ、死を待たずして真っ白に燃え尽きていたからだ。
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