酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「灯台へ」~濃密で痛いウルフの世界

2014-04-02 23:02:38 | 読書
 プロ棋士とコンピューターが対決する電王戦3局は豊島将之七段がYSSを破り、人間側が初勝利を挙げた。豊島は仲間との研究会をパスし、YSSと実戦を積んだという(数百局とも)。残り2局にも期待したい。

 前稿の枕で書いたように、母はボケ防止のためプロ野球に親しむつもりでいる。龍谷大平安が優勝したセンバツは見たのだろうか。ちなみに、愛国心と愛校心には無縁で、勤め人時代は愛社精神ゼロだった俺だが、郷土愛だけは人並みにある。本日も仕事中、遠目にテレビ画面を眺めつつ、平安を応援していた。

 母は野球観戦より効果的なボケ防止策を既に実践している。それは読書で、この3カ月で15冊以上読んだという。母が「永遠の0」(百田尚樹著)を酷評していたことは別稿で記したが、読書傾向を勘案し、小川洋子、角田光代、宮部みゆき、横山秀夫あたりを見繕って送ることにした。

 俺はといえば昨年後半、本を途中で放り出すことが増えた。世代が近い日本の作家で心身をならし、ブログに感想を記してきたが、久しぶりに険阻な山に挑むことにした。積読本だったヴァージニア・ウルフの「灯台へ」(1927年)に恐る恐る手を伸ばし、何とか読了できた。子供じみた自己満足に浸っているところである。

 ヴァージニア・ウルフはジェームズ・ジョイスと並ぶモダニズムの旗手である。<意識の流れ>を作品の軸に据えたウルフは、フォークナーより10年早く文壇にデビューした先駆者だ。卒論、いや、修士や博士の研究課題に相応しい対象だから、俺はページを繰るのに必死で、光景を楽しむ余裕などない。時に闇を彷徨い、岩場を這いながら、頂上を目指した。ラムジー家の3人が灯台に到着するラストで一気に視界が開け、解放感を覚えた。

 表の主人公は8児の母であるラムジー夫人だ。生活臭と無縁の、毅然とした佇まいの女性で、50歳近くになっても男性の、いや、女性の目さえ惹きつけるほどの美貌を誇っている。モデルはウルフの母という。夫は英国を代表する哲学者だが、咆哮しながら歩いたり、感情を爆発させたりと野人の趣で、周囲を緊張させるタイプだ。末っ子のジェイムズ、そして画家のリリー(裏の主人公?)は、ラムジーが近づくと恐慌を来す。

 3部構成の本作は、10年以上のタイムラグを経た2日の出来事を追った物語だ。第1部「窓」はラムジー家の別荘での一日を、ラムジー夫人、リリー、他の登場人物、そして謎めいた語り部へと主観を移しながら綴っていく。主体と客体の乖離に違和感を覚えなかったのは、バルガス・リョサ、ガルシア・マルケス、ホセ・ドノソらの南米文学に慣れていたからだ。そもそも順番が逆で、ウルフの前衛的な試みにインスパイアされ、壮大な城を築いたのが南米の巨匠たちなのである。

 本作にはリリーがラムジー夫人に寄せる仄かな思いが記されているが、ウルフの革新性は性的アイデンティティーにも表れる。幼い頃に受けた性的虐待が作品に反映しているとされ、フェミニズムの提唱者に挙げられている。1年後に発表した次作「オーランドー」で、ウルフは性の超越を主人公に託す。メタ伝記風のファンタジックなスタイルは、サルマン・ラシュディに影響を与えたはずだ。

 第2部「時はゆく」では、第1次大戦を挟んで一変した時代の空気が淡々と記されている。ラムジー夫人の急死、アンドルーの戦死、出産後のブルーの死と一家の悲運を象徴するように、別荘は寂れ果てていた。ようやく修復がなされ、孤独、郷愁、喪失感に満ちた水彩画にフレームインするのがリリーだ。

 第3部「灯台」で老いたラムジーは、キャムとジェイムズを伴って灯台に向かう。第1部で灯台行きのピクニックを楽しみにしていたジェイムズの願いを拒絶したのが父だった。姉弟は父に憎しみを抱いているが、ジェイムズが漕ぐ小舟が灯台に近づくうち、葛藤は薄れていく。3人が乗る舟を眺めるリリーは、ラムジー夫人の不在を嘆きながら、カンバス中央に一本のラインを描き入れる。<わたしはようやく自分のヴィジョンをつかんだわ>のリリーのモノローグで本作は終わる。

 訳者である鴻巣友季子さんの解説に瞠目させられた。鴻巣さんは<このラインは絵をふたつの個に分かつものであると同時に繋ぐものでもあるのだろう。この一本の線がpassageとなって、ひとつの世界が完結したのだ>と解題していた。ふたつの個とは、ラムジー夫人とリリーで、旧世代を夫人に、新世代をリリーに重ねるウルフの意図をくみとっている。

 ラムジー夫人には「ダロウェイ夫人」のクラリッサ同様、ブルジョワジーの倦怠と憂鬱が色濃く反映されている。夫との間にある溝は、ウルフ自身の私生活の影響だろう。精神を病みつつ執筆するヴァージニアを、自殺に至るまで献身的に支えたのは夫レナードだ。本作における<奔放な夫、控えめな妻>は実際のウルフ夫妻と逆パターンではなかったか。「オーランドー」の主人公はウルフの当時の恋人がモデルという。それを考え合わせると、なかなか手ごわい女性だ。

 ウルフの作品は濃密かつ繊細で、しかも痛い。俺は別稿で<ウルフの小説は読む者の心を研ぐヤスリ>と評した。読書は時に苦行だが、ふやけた日常を送る俺には胃を荒らす〝文学の毒〟が必要なのだ。
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