是枝裕和監督をテーマにするのは2回目だ(前項は昨年11月)。今回は「日本映画専門ch」で放映された第1作「幻の光」(95年)と第4作「誰も知らない」(04年)について述べてみたい。
まずは「幻の光」から。主人公のゆみ子は、自分が他者を不幸にする人間ではないかという不安に怯えていた。少女時代に祖母が失踪したが、最後に話したのはゆみ子だった。その夜に出会った郁夫と結婚するが、ゆみ子と生後間もない息子を残し、何の前触れもなく自殺する。ゆみ子が暮らす関西の街は、繁栄に取り残され、昭和30年代の佇まいが残っている。底辺に生きる者への優しい視線を保ちつつ、設定を曖昧にして寓話性を高める意図があるのだろうか。
ゆみ子は数年後に再婚し、舞台は北陸の海辺に移る。夫の民雄に支えられ、平穏な日々を過ごすゆみ子だが、郁夫の死が棘のように刺さったままだった。自らの懊悩をぶつけると、民雄は父の経験を引き合いに優しく語りかける。「一人で海の上におったら、奥の方にきれいな光が見えて、俺を誘うんやと。誰にでもそういうこと、あるんと違うか」と……。生と死の曖昧な境界線を物語る民雄の言葉に、ゆみ子は安らぎを覚えた。
アップのカットは殆どなく、カメラは常に引き気味である。ゆみ子たちを眺めているのは、死後の世界に住む郁夫や祖母かもしれない。関西で頻繁に出てくる電車は、死者と生者を繋ぐ銀河鉄道の暗喩なのか。郁夫が誘われるように歩いていたのも、線路の上だった。
全体に暗いトーンで、光が効果的に用いられている。美しい映像を挙げればきりはないが、特に記憶に残るのは、ラスト近く、暮れなずむ海辺の光景だ。細長い葬送? の列を追ってゆみ子が歩くシーンは、アンゲロプロスが描く世界に近似的だ。また、登場人物の柔らかな関西弁も、作品の緩やかなリズムにマッチしていた。
次に「誰も知らない」。これほどの喪失感と寂寥感が残った映画は初めてだった。20年以上も前に見た「人情紙風船」や「惑星ソラリス」に近い印象はあったが、決定的に違う。「誰も知らない」はエンドマークでは終わらない。いや、エンドマークの後にこそ始まる稀有の映画なのである。
1988年に起きた実話に基づく作品で、是枝監督は翌年にシナリオを書き上げたという。当時の構想とは変化したようだが、世紀を超えて映画化にこぎつけた。すべて父親が違う4人の兄妹――明、京子、茂、ゆき――は戸籍もなく、学校にも通わず、親からも社会からも見捨てられ、「誰も知らない」まま時が過ぎていく。
家族には「明以外は表に出ないこと」という掟あり、母が消えた後も守られていく。生後3カ月を過ぎた野良猫は、警戒心が染み付いて人になつかないという。明たち兄妹は都会の片隅、野良猫のように身を寄せ合って生きていく。ゆきの誕生日、明は母を恋しがる妹を連れ出しモノレールを眺める。「いつかモノレールに乗って飛行機を見にいこうね」と明が約束する場面が、後半の痛ましさに繋がっていく。
電気も水道も止まった東京砂漠で、兄妹はけなげに生きていく。外と遮断された弟妹と対照的に、明は友達を見つけたり、少年野球に飛び入りしたりする。声変わりした明の肉体と精神に、父性と野性が宿っていくさまが描かれている。明は偶然サキと知り合う。サキはいじめが原因で不登校児になっていた。痛みを共有することで、友達から家族へと、サキは兄妹たちとの距離を縮めていく。
監督自身のお気に入りは、明が弟妹の靴を取り出し、掟を破って表に出る場面という。しぐさや笑顔が印象的だ。兄妹は草花を持ち帰り、カップ麺の容器に種を植えて成長を心待ちにするが、この子供らしい試みが、ゆきの死を招いてしまう。妹の亡骸とアポロチョコをトランクに詰め、明はサキと一緒にモノレールに乗る。「飛行機を見にいこう」という約束を果たした後、トランクを地中に埋めた。
ラストでは、ゆきの代わりにサキが加わり、四つの背中が街を歩いている。ストップモーションの後も、彼らが歩く道は続いている。見た者の心、絆やモラルが壊れ閉塞した現在の日本へと……。
1年の撮影期間で、兄妹は成長し、変化していく。「誰も知らない」は酷薄なメルヘンであり、心和むドキュメンタリーでもある。子供たちの感性を引き出す監督の能力は魔法の如しである。明役の柳楽優弥はカンヌで主演男優賞を獲得したが、京子役の北浦愛、茂役の木村飛影、ゆき役の清水萌々子、サキ役の韓英恵の存在感も甲乙付け難い。5人で獲得した賞といえるだろう。
大島渚の社会を抉る鋭い視線、タルコフキーの映像美、宮沢賢治に通じる柔らかさ……。反骨と美学と曖昧さが混ざり合って、豊穣な是枝ワールドが形成されている。これほどの監督を同時代に抱えていることを誇らしく思う。次回作は江戸時代が舞台というが、どのような映画になるのか、今から楽しみだ。