酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

安保は遠くなりにけり~ダイナミズムの根底は?

2005-06-15 06:17:26 | 社会、政治

 1960年6月15日は日本の現代史上、最も重要な日である……と書いても、ピンと来る人は少ないはずだ。かく言う俺も、当時は三つのガキだったし、あくまで後学による感想に過ぎない。

 59年から翌60年に掛け、日米安全保障条約改定への反対運動が展開していた。「朝日ジャーナルの時代」を引っ張り出してみると、意外と思える記事が並んでいる。宮沢俊義氏(憲法学者)は59年11月に寄稿した一文で、国民の無関心を憂うと同時に、オープンな議論の必要性を説かれている。59年末の段階では、盛り上がりはなかったようである。

 唐牛健太郎全学連委員長と記者との質疑も興味深い。全学連主流派(ブント系)は既成の革新陣営(社共両党、労働組合)から疎まれていたばかりか、世論の冷めた目に孤立を深めていた。「時代の寵児」とは程遠く、「跳ね上がり」という評価が定着していたようだ。

 アイゼンハワー訪日反対デモを取材した江藤淳氏のルポも面白い。<反政府>ではなく<反米>を掲げ、混乱を収拾できない革新陣営にあきれているが、<反岸を反米にすりかえ(中略)国会を私しようとする総理大臣のペースにのせられてはならない>と、岸首相をもバッサリ斬り捨てている。保守派の重鎮というイメージが強い江藤氏だが、かつてはリベラル寄りだったのか。

 流れを把握していないから奇異に思えてならないが、5月19日に国会で強行採決され、終着点(6月19日に自動承認)が明確になってから、反対闘争は一気に拡大する。デモ隊が国会に突入した6月15日は、樺美智子さんの死と合わせ絵になって語り継がれている。悲劇的な結末で、鬼っ子扱いされていた全学連主流派もまた、輝ける星になって運動史に仕舞い込まれた。

 時差20年(80年前後)で安保について学んだが、吉本隆明氏の評論と大島渚監督の「日本の夜と霧」はインパクトが大きかった。共通するのは共産党批判で、運動の高揚に背を向け、党勢維持に専念して「前衛党」としての役割を放棄したという趣旨であった。説得力はあったが、世紀をまたぐと論点のズレが見えてくる。

 岸内閣総辞職後に池田内閣が誕生する。10月には浅沼社会党委員長が刺殺され、翌月に総選挙が行われた。結果は自民党が+9の296議席、社会党は-21の145議席、共産党は+2でようやく3議席……。安保闘争の広がりは投票行動に結びつかなかったようである。

 俺が何を言っても説得力はないが、安保闘争で生じたダイナミズムの根底は、革命への志向、体制への反発、反米意識ではなく、<戦争の記憶>だったと思う。56年の「経済白書」には「もはや戦後ではない」と記されていたが、あくまで生活水準に限ったものだ。原爆、空襲、戦場や軍隊で必然的に現れる狂気……。被害、加害を問わず、戦争の傷や死者の影が15年で消えるはずはない。安保改定により<戦争との距離>が縮まることを、国民は感じ取っていたはずだ。

 昨日(14日)、台湾の戦没者遺族が靖国神社への抗議活動を試みたものの、警察に制止された。<無理やり日本人として戦場に送られ死んだ者が、戦争肯定の靖国に祭られていることはおかしい>と主張し、分祀を強く求めている。また、従軍慰安婦などにつき問題発言を繰り返す中山文科相に対し、「外交上の配慮をするように」と細田官房長官が注意を促したものの、陳謝をめぐって一悶着起きていた。

 安保から45年、敗戦から60年……。日本はいまだ、<戦争との距離>を問われているようだ。<戦争の記憶>は砂粒ほどの小ささになっているが、放射性元素のように国内外に奥深く沈潜し、時に鈍い痛みを走らせている。

コメント (1)
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