最も感銘を受けた小説を挙げれば、カースン・マッカラーズ著「心は孤独な狩人」(新潮文庫)だ。カバーの背表紙につられて購入した記憶がある。いわく、<五人の登場人物の報われざる愛の連鎖と破局をフーガ形式で描き、人間存在の孤独と挫折を追究した>……。
アメリカ文学の傑作で、寺山修司もエッセイ等で繰り返し言及している。十数年ぶりに再読したが、かつての感慨が甦ってきた。1930年代後半、貧困に喘ぐ南部を舞台に、<町にはふたりの唖がいた。ふたりはいつもいっしょだった>の書き出しで物語は始まる。
主人公のジョン・シンガーは聴覚障害者で、「唖」という表現が頻繁に現れる。「ニグロ」という蔑称もそのまま訳されていた。初版は72年だが、時を置かず差別語の言い換えが始まった。本作が復刻される可能性は極めて低いといわざるをえない。差別語や不快語の言い換えについては論を改めるとして、ここでは作品の中身について紹介したい。
シンガーには同じ障害を持つ友がいたが、心身に異常を来し、遠くの病院に隔離されてしまう。孤独に苛まれたシンガーは無償の愛を注ぐが、友は暴君のように振る舞って厚意をないがしろにする。それでもシンガーは、彼こそ理解し合える唯一の存在と信じていた。
シンガーは仕事が終わると散歩をし、カフェで食事を取って下宿に戻った。単調で平穏な日々だったが、変化の兆しが訪れる。シンガーは読唇術を心得ており、話の内容を少しは理解出来る。シンガーがじっと目を見てうなずくと、話した者は懺悔を終えたような安らぎを得た。絶望や懊悩を秘めた者が周りに集い始め、シンガーは「無口なキリスト」的存在になっていく。
下宿屋の娘ミックは思春期を迎え、音楽家を志している。インスピレーションの素になっているのが、20歳も年長のシンガーへの思いである。そのミックに好意を寄せているのが、妻を亡くしたばかりのカフェの亭主ビフだった。不能の中年男で、ミックへの感情は父性愛に近いものといえる。
ビフは弱者やはみだし者に優しく、その親切に甘えているのがブラウントという流れ者だ。ブラウントもカフェで同席したシンガーに魅せられていく。シンガーこそ、社会の矛盾を知る数少ない人間のうちの一人と考えている。多くの人間に理解者と期待されていることに、シンガーは困惑していた。「まったく狐につままれたような気分です」と、投函しなかった友への手紙に綴っている。
ミック、ブラウント、ビフ以外にシンガーの部屋を訪ねるのは、黒人医師コープランドだ。医師は黒人の意識向上に尽力するが、家族から見放され、自らも病を抱えている。ブラウントとコープランドはシンガーを通じて知り合い、夜を徹して議論する。マルクス主義の立場で革命を説くブラウントと、黒人差別の撤廃こそ最重要課題とするコープランドは、相容れることなく決裂してしまう。
シンガーを結び目にした関係は、唐突に終わりを告げた。友の死を知ったシンガーが、後を追って自殺したからだ。コープランドは息子が刑務所でリンチに遭って両脚を切断するという事態に、張り詰めたものが壊れ、老父の待つ農園に帰る。ブラウントも次なる拠点を求めて町を出た。シンガーの死とともに音楽の情熱を失くしたミックは、平凡な日常に埋没していく。物語はビフの主観で終わり、「やがてのぼる太陽を待った」という記述で閉じられる。俺の想像に過ぎないが、ドアーズのサードアルバム“Waiting for the sun”は、本作の結びから借用したのではなかろうか。
マッカラーズはこの作品を22歳で書き上げた。女流作家の衝撃的なデビューという点では、「ホワイト・ティース」(2000年、新潮クレスト・ブックス)のゼイディー・スミスが思い浮かぶが、彼女でさえ完成時は25歳だった。マッカラーズは22歳で社会の深層を把握し、やさぐれ男の孤独や憂愁を理解していた。その天才ぶりには驚くしかないが、その後の人生は、作家として精彩を欠き、私人としても不遇だった。
黄ばんだ文庫本のページで小さな活字を追っているうち、視界がかすんできた。視力は落ちていないはずだし、おかしいな。次の瞬間、脳裏をかすめた言葉は恐ろしいものだった。これって、もしかしたら老眼……。