大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年12月21日 | 写詩・写歌・写俳

<3264>  余聞 余話 「冬至」

       無事に来ぬ今年もお陰の柚子湯かな

 今日は冬至。冬至と言えば、柚子湯。我が家の庭には一本のユズが植えてある。よく実を生らせて来たが、何ゆえか今年は花をつけず、当然のこと実が一つもつかなかった。という次第で、例年、この時期になると香りのよい黄色の実が山盛りにされているのだが、今年は淋しくもその光景がない。「柚子湯も出来ないか」と思っていたら、妻の知り合いから「柚子湯にでもして」ということで、頂戴した。買うほどのことはないと、半ばあきらめていたので、何とか格好がついた今年の柚子湯ではあった。

                            

 それにしても、今年は新型コロナウイルス感染症に関わるニュースで明け暮れた感がある。高齢者に厳しいウイルスの印象が強く、現在も進行形であるが、私なども人一倍注意しながら暮らしているというのが現状である。そんな一年であったが、お陰で何とか無事で、区切りの冬至を迎えた。明日からは日脚が伸びてゆく。コロナ禍はどのような軌跡によって収まりゆくのか。とにかく、この一年は無事に過ごせそうである。 写真は湯舟に浮かぶユズの実(左)と実りを迎えたデコポン(右)。


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2020年12月20日 | 創作

<3263>  写俳百句  (28)  冬薔薇

                 眼鏡の奥の心熱冬薔薇

                                          

 冬薔薇(ふゆさうび)は寒薔薇(かんさうび)とも呼ばれる冬に咲くバラのこと。四季咲きのバラが冬に咲いている風情で、俳句では冬の季語である。暖かなころ咲く花は色鮮やかで幸せ感に満ち溢れ、バラの右に出る花はないほどの色合いを有し、咲き誇るが、寒さの厳しい中で咲く花は縮こまり、艶やかな花だけに、よりわびしく感じられる。こういう印象によって冬薔薇の花は受け止められている。

 しかし、この冬枯れの庭に咲く冬のバラは、そうした侘しさを外見からは印象付けられるが、その花にズームインして、例えば、深紅のバラの内側に目をやると、外見にはない燠を思わせる秘めた熱情のような色合いをうかがうことが出来る。これも冬薔薇の一面と言えよう。それにしても、このバラの花のエネルギーは何処に発するのか、霜をも溶かす勢いに見える。


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2020年12月19日 | 創作

<3262>  写俳百句  (27)  真冬の到来

               荒ぶ野に寒風なほも襲ふ日々

                        

 日本列島は西高東低の冬型気圧配置により真冬の感。北国では雪に閉じ込められた高速道の車の救出があった。我が大和地方ではこのところ寒風が吹き荒ぶ寒い日が続いている。すっかり枯れてしまった原野の草叢は容赦なく吹きつける寒風になお荒んで見える。歩いているとそんな草叢から一羽の小鳥が飛びして来た。緑と黄色の模様があり、アオジに違いない。風に流されながら向かいの雑木林に消えた。

 草叢の枯れ果てた草々は、よく見ると、うらぶれた中にそれぞれがそれぞれの姿の中に種子を含んだ実を生らせているのがわかる。飛び立ったアオジは枯れ果てた草々の茂みによって寒風を避け、この草々の実を頂戴していたのだろう。「邪魔したな」という気になった。

   枯れ果てた草々は自らの生を実に託し、なを宿命のごとく寒風に曝され、ますますうらぶれて行く。明日への夢を秘めた実は種を継ぐ役割を担って春を待つという次第。そして、寒風は自然のならいのごとく吹き荒び、実は寒風の日々を耐え、春を待って芽を出し、草々には再生を果たすということになる。    うらぶれし冬野がありて春野かな


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2020年12月18日 | 写詩・写歌・写俳

<3261>  余聞 余話 「歩く」

      何処までも道は続くに行き悩むほどの人生歩みつつあり

 山登りをすることが極めて稀になり、カメラを携えて近場を歩いているが、最近は一日五千歩以上を目標に歩くようにしている。山歩きのときは歩数など全く気にしなかったが、代わりに一日のスケジュールに合わせるよう所要時間に気を遣って歩いた。往復五千歩はそれほどの距離ではない。コースを変えて歩かないと、出会う風景も慣れて見飽きてしまい、カメラ携帯の値打ちもなくなるので、自宅から四方八方に向けて歩くようにしている。時には自転車や車で出かけ、歩くこともある。

                                                                            

 風景、草木、野鳥といった自然に関わるものに関心があるので、携行するカメラはそういう被写体の都合に合わせ、持ち歩き、よほどのことがない限り、カメラを人様に向けることはない。人様の写真は撮影しても使用するにはばかられるからである。野鳥を撮りたいときは望遠レンズを持参する。少々重いが運動に役立つと思って携行する。

 一番の関心事は何といってもライフワークにして来た野生の花であるが、最近歩いている近場の平地部では外来種が圧倒的で、考えさせられるところがある。外来種の多いことは人間社会におけるグローバル化の影響が考えられ、文化の流れに共通するところがうかがえる。これは日本が極東の小さな島国であることと関連していると思われるところで、文化の交流と軌を一にしているところがうかがえる。

   このように歩きながらいろいろと気づいたことに思いを巡らせるわけであるが、これは結構楽しいもので、飽きない。山路を登りながら考えた夏目漱石を時には思い出したりしながら、このブログのネタなども掘り起こしている次第である。もちろん、歩くことは健康にも繋がる。 写真は今日の成果であるスマホが記録した14248歩の歩数(左)、今日の歩きで見かけたカワセミ(右)。

 


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2020年12月17日 | 写詩・写歌・写俳

<3260>  余聞 余話 「草木の実の話」

       それぞれにある花ある実それぞれにあるものにして希望の燈

 冬のこの時期、道端の草叢や畦の草地を覗き込むと、枯れて茶色くなった中にしばしば草木の実を見ることがある。これは本体が実に将来を託す植物の姿の一端で、種を継ぐ言わば健気な姿である。しかし、この役目を果たすために働かせる草木の戦略は実に巧妙で、それぞれが知恵を発揮しているのがうかがえる。

 その戦略はさまざまであるが、なるほどと思わせるものばかりで、その方法はみなそれなりに成功しているので、現存の草木には種を絶やさず今にあるのである。では、道端の草叢や畦の草地などで見かけた草木の実について見てみたいと思う。その戦略は実によく巧まれている。

                  

 キク科やイネ科の植物のように、自然に吹く風を利用するタイプがある。これは種子を冠毛や穂につけ、風に乗って飛んで行き、拡散出来る仕組みで、ヤナギ科の植物のように綿毛によるものも見られる。次に、マメ科植物に見られる殻や莢が割け、その勢いによって中の種子が飛び散る戦略に出るものもある。

 また、実に鉤状の刺や毛を有し、獣など動くものに引っ付き、運んでもらうよう工夫しているキク科のセンダングサやオナモミ類、マメ科のアレチヌスビトハギのような植物がよく知られる。この方法は人間も利用される。

 最も戦略的なのは、鳥に運んでもらうやり方である。実を美味しくして鳥に食べてもらい、未消化の種子を糞とともに何処かへ落としてもらるというもの。木々に多い液果や核果に見られる戦略で、鮮やかでよく目につく鳥の啄みやすい手ごろな大きさの丸い実が多い。これは持ちつ持たれつの戦略で、実には種子を運んでもらう代わりに自らを差し出すやり方である。

 以上のような例が見られるが、それは実が種を継ぐという同じ役目において見られる姿である。そして、その役目は戦略によって果たされているのである。 写真は左から風を利用するジシバリの種子をつけた冠毛(下側に種子がついている)、動くものに引っ付いて移動するオオオナモミの実、殻が割けて種子が飛び出す仕組みのマメアサガオの実、鳥の目につき、啄みやすい大きさの丸く赤いノイバラの液果状の偽果。