<754> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (38)
[碑文1] 逝く秋のやまとの國の薬師寺の塔のうへなる一ひらの雲 佐佐木信綱
[碑文2] すゐえんのあまつをとめがころもでのひまにもすめるあきのそらかな 会 津 八 一
この二首は秋の薬師寺東塔を詠んだ歌としてよく知られる。両歌の碑は奈良市西ノ京町の薬師寺白鳳伽藍の西塔(昭和五十六年・一九八一年復興再建)の北側に並んで建てられている。現在、東塔が大修理の最中で、東塔側にあった信綱の碑文1の歌碑が西側の八一の歌碑の傍らに移されたことによる。
東塔は薬師寺の創建当時からある唯一の建物で、天平二年(七三〇年)に建てられた白鳳時代の名建築として知られる国宝である。三重塔であるが、高さが三十四メートルあり、各層に裳階(もこし)が施されているので、均整の取れた六重塔に見える。昭和二十七年(一九五二年)に大修理が行なわれ、現在、六十一年ぶりに大々的な解体修理が行なわれている。
工事中の塔はすっぽりと被いに囲まれ、平成三十一年予定の完成までその姿を見ることは出来ない。だが、薬師寺では「東塔水煙降臨展」を今年十一月末まで寺内において催し、降ろされた塔最上部の水煙部分を一般公開しているので、この機会に八一の歌などに重ねてこの水煙を間近に鑑賞するのも一案かと思われる。
では、まず、信綱の碑文1の歌碑から見てみよう。この歌は明治四十五年(一九一二年)に作られ、『新月』に所収。「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」と助詞の「の」を多用し、リズムよく、大和、薬師寺、塔、雲と焦点を絞って大和の奈良の秋の塔の一景をまとめ上げている歌として評価が高く、人口に膾炙している歌である。
信綱は国文学者で、『万葉集』の研究で知られるとともに、歌人として結社「竹柏会」を立ち上げ、「心の花」を主宰して短歌の世界でも活躍した。大和にはよく足を運び、奈良、大和を詠んだ歌も多く、この碑文1の歌はその代表的な歌として知られる。
一方、八一の碑文2の歌は、『南京新唱』、『鹿鳴集』に所収の歌で、信綱の碑文1の歌とほぼ同時代に詠まれた、これも秋の歌である。歌は水煙に意識を集中し作歌しているところが特徴的で、信綱の歌とは印象を異にする美術史家ならではの知識の裏付けがうかがえる。
これについては、『自註鹿鳴集』に「すべて塔の頂上に立つ九輪の上には、恰も火焔の如き形に鋳造せる銅板を掲ぐ。これを「水煙」といふ。「水」の字を用いるは火難を禁厭する意なり。この薬師寺のものは、雲気の中に数名の飛天が、歌舞音楽せるさまを作り込めたり」と、その知識と美意識をして歌に対している旨が述べられている。
『南京新唱』には、この歌の前に「くさにねてあふげばのきのあをぞらにすずめかつとぶやくしじのたふ」と、やはり、薬師寺の塔を詠んだ歌が見られ、草の上に仰向けになって塔を眺めている何とものどかな気分の八一の姿が想像されるが、この水煙の歌は、そんな気分の中でも美術史家たる知識と美意識をもって歌に臨んでいるのが感じられ、写真をする私などには教えられるところのある歌である。
三十四メートルの高さに位置する透かし彫りされた水煙は望遠レンズでのぞいて見ても、その雲気を表わす模様の中に飛天が舞っているという意識を持っていなくては見逃してしまうほどの遠さにあるから、ぼんやりと塔を見上げているような目だけではこうした歌は作り得ない。
言わば、この歌は、写生的歌においても、知識を積んでいるかそうでないかで、歌の内容に差が生じて来る例として見ることが出来る。八一の歌は平仮名表記でとっつきやすいように思われるけれども、自註等に触れると歌意の深いことがわかる。因みに、歌の中の「ひま」は隙(隙間)の意であり、「すめる」は「澄める」で、水煙の透かし彫りの間からも澄む秋空が見えるという意である。
両歌碑は、昭和二十七年に行なわれた東塔の大修理のとき、落慶法要のために作られた「東塔讃歌」に用いられた両歌を碑にする話が持ち上がり、最初に信綱の碑文1の歌碑が出来、遅れて八一の碑文2の歌碑が出来たものである。それにしても、二つの歌碑が仲良く並んで建っている光景は何とも微笑ましく思える。
写真は上段左が信綱の歌の碑面、中央が仲良く並ぶ両歌碑(右側が八一の碑)、右が八一の歌の碑面。下段は左が東塔最上部の水煙。透かし彫りの銅板が表裏をもって十字形に組まれている。一面の片面に三人の天人が見られるから、両面で六人、全部で二十四人ということになり、地上のどこの位置からも見られる工夫がなされている。八一が「数名の飛天」と言ったのは、一地点からは六人以上見ることが出来ないからである。右は水煙の童子が笛を吹いている部分。 青空に 塔高々と 見ゆる秋