<736> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (36)
[碑文] 衾道乎 引手乃山尒 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無 柿本人麻呂
この歌碑は、『万葉集』巻二の挽歌の項に「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌二首」と題して見える長歌207番と210番の中の210番の歌に合わせて載せられている短歌二首中の一首212番の歌である。原文表記によるもので、「衾道(ふすまぢ)を引出の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし」と語訳されている。歌の意は「衾道を引出の山に妻を葬って帰り来れば、悲しみがいよいよつのり生きた心地もしない」というものである。
この歌を210番の長歌と合わせて読むと、人麻呂には遺されたみどり児を抱え、昼は寂しく、夜は思い歎き、二人仲よく暮らしていたころのことを思い返すことはあるものの、それは恃みともならず、悲嘆の中に過しているのがわかる。短歌の今一首211番は、「去年(こぞ)見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年さかる」という歌で、その意は「去年見た秋の月は今も変わりなく照り輝いているけれども、ともに見た妻は亡くなり、年々遠ざかって行く」というもので、嘆きの歌である。
この巻二の「妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌二首」と題された歌はなお一首の長歌と短歌三首が見られ、合わせて長歌三首に短歌七首が一連の形に並べられている。最後の一首213番の歌は「或る本の歌に曰はく」とあって、その直前の長歌210番と同じ内容であるので問題にはならない。これに対し、最初の一首207番の歌は、同じく泣血哀慟して妻の死を悼んで詠んだ歌であるけれども、時、所、内容とも長歌210番や213番とは異なるので、この妻は別の妻であると考えられ、ほかにも「妹」(妻)を詠んだ歌が幾つも見られることから、人麻呂には何人妻がいたのかとか、この歌は妻を亡くした誰かに代わって作った歌ではないのかとか、創作(虚構)による歌ではないのかとかいうようないろいろな推察がなされている次第である。
しかし、210番と213番の長歌とこの長歌に添えられている短歌五首については、その死に前後して詠まれたと思われる人麻呂の他の歌に明らかな心情の違いが見られる点で、自身の妻の死に寄せた挽歌であるとする見方の強いことがうかがえる。その違いの見える歌というのは、例えば、巻七の雑歌の項に見られる。あげてみると、妻の生前に詠まれたと目される歌に「三諸のその山並に子らが手を巻向山は継ぎのよろしも」(1093)という歌があり、妻の死後の歌には、「兒らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き纏(ま)かめやも」(1268)という歌がある。
生前の歌では、三諸山(三輪山)と巻向山が手を巻くように並んでいる姿が(仲のよい夫婦のようで)よいと言っているのに対し、死後の歌では、手を巻くような巻向山は以前と変わりなく今もあるけれど、この巻向山の巻くではないが、もう妻のところへ行って手を巻くことは出来ないと悲しんでいる。つまり、人麻呂にとって、三諸山(三輪山)とともにあるこの巻向山の風景は妻の死によって一変してしまうわけで、この二首はその人麻呂の心情の変化をよく表しているということが出来る。で、この二首の比較において言えば、人麻呂の妻はこの近辺に暮らしていて、あるとき突然亡くなったことが想像され、長歌210番、213番の一連の悲歌に通じることになるわけである。
ところが、この一連の長、短歌を読むと、亡妻に対する心情というものはよく伝わって来るけれども、今一つ、脇に抱えたみどり児のことが思われ、いろいろと考えさせられるところがある。この子は男の子か女の子か、その後どのように養育され、どのような人生を歩んだのかというようなこと。けれど、この児のそういうところが人麻呂の他の歌にも触れられていない。ここのところに不思議が纏って来ることになる。
これは人麻呂の詩人としての資質かも知れないが、このことから、泣血哀慟して詠んだというこの長歌三首、短歌七首の一連の挽歌は本人の妻を詠んだものではなく、長歌210番、213番の場合も、別人の妻子を自分の妻子のように詠みなしたものではないかという考えも生じて来る。で、この一連の歌は妻を亡くしたことをテーマにした歌群として『万葉集』の編者がまとめた創作的あるいは虚構性の強い歌ではないかという見方も出来るわけで、見解が輻輳する。言わば、これもいろいろと推察される『万葉集』の特色の一つの例として言えるかも知れないと、そんなふうにも思われる。
なお、これは、最初に触れておいた方がよかったかも知れないが、歌の中の「衾道」というのは天理市中山町の衾田陵(西殿古墳)付近ではないかと目され、古墳が多く、現在は念仏寺の広い墓地が近く、一般のお墓も多く見られるところである。また、「引出の山」はこの背後に位置する竜王山(586メートル)と目され、人麻呂の歌が多く残されている巻向山の麓に当たる一帯とは山の辺の道で繋がり、さほど遠くなく、この辺りのどこかに長歌210番、213番に詠まれた亡妻は住まいしていたと考えられるわけである。
この歌碑は、「孝書」の署名があるので、犬養孝筆によることがわかる。他の例と同じく、原文表記の碑で、中山町の衾田陵(西殿古墳)に近い竜王山を仰ぐ山の辺の道の傍に建てられている。写真左は歌碑(右側の高い山は竜王山)。写真右は人麻呂が妻を葬ったと目される付近(石の垣がある左手前の森は衾田陵。右側の高い山は竜王山)。 草いきれ 踏み分け行きし 古墳道