大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月25日 | 写詩・写歌・写俳

<753> モ ズ( 百 舌 )

       せぬことを 為すこと然り 百舌が鳴く

                                                  

 約束をするな。期待をするな。未来は不確かである。不確かなものに思いを寄せてはいけない。今を一途に為せ。この一途にこそ未来は開かれる。脇目を振らず、雑音を入れず、ひたすらに為せ。これがせぬことを為すことである。心頭を滅却し、為すことを為し、待つこと。待てば海路の日和あり。待つとは、つまり、せぬこと。約束をせぬこと、期待をせぬこと。せぬことは即ち為すこと。準備万端整えて海路に臨む、これが一番の海路である。百舌が高らかに鳴く。夏が過ぎて、秋が来る。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月24日 | 万葉の花

<752> 万葉の花 (109) あは (粟、安波) = アワ (粟)

       粟みのる 安寿と厨子王 母の声

     ちはやぶる神の社し無かりせば春日の野辺に粟蒔かましを                       巻 三  (404)     娘   子

      春日野に粟蒔けりせば鹿(しし)待ちに継ぎて行かましを社し留むる              巻 三  (405)   佐伯赤麻呂

      足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくもあやし                        巻十四 (3364)  詠人未詳

    左奈都良の岡に粟蒔きかなしきが駒はたぐとも吾(あ)はそと追はじ                  巻十四 (3451)  詠人未詳

    梨棗黍に粟嗣ぎ延ふ田葛(くず)の後も逢はむと葵花咲く                       巻十六 (3834)  詠人未詳

 『万葉集』にあは、即ち、アワ(粟)の登場する歌はここにあげた五首で、「蒔く」に関わる歌が四首、「継ぐ」に続く歌が一首となっていて、すべてのあはが作物として捉えられているのがわかる。では、あはの見える若い番号の歌から順に見てみよう。

 404番の娘子(をとめ)の歌は「娘子、佐伯宿禰赤麿の贈るに報(こた)ふる歌一首」という詞書があるように、この歌は問答歌で、最初にあるべき赤麻呂の贈る歌は如何なるわけか欠落して見えず、この歌の次の405番の歌に赤麻呂の歌が娘子の404番の歌に応じる形で載せられ、そのまた次に娘子が応じる形で、406番の歌が見える。

  娘子の406番の歌は「吾が祭る神にはあらず丈夫(ますらを)に着きたる神そよく祭るべき」というもので、404、405、406番と続けて読むと、歌は娘子―赤麻呂―娘子の順になる一種かけ合いのような問答歌になっているのがわかる。

 その意は、まず、(404)の歌で、娘子が「そこに(畏れ多い)神社がなかったならば、粟の種を蒔くだろうけれど、畏れ多い神社があるので蒔くことは致しません」と、神社と粟を譬喩に用いて、「あなたさまには畏れ多い人(愛人)がいらっしゃるので、お逢いすることなど出来ようはずがございません」と言っている。

 これに対し、(405)の歌で、「春日野に粟を蒔くならば(即ち、あなたが来て下さるなら)鹿を待ちうけるように、あなたを待ちに私は引き続いて行くだろけれど、神の社のような娘子の愛人が妨げになって行かれないことだ」と赤麻呂が応じ、更に、これに対し、娘子が(406)の歌で「私が祭っている神のことではなく、あなたさまについている神こそよく祭るべきではありませんか」と返し、「あなたさまに今ついている女の人こそ大切になさいませ」と丁々発止、言い継いでやり合っているのがわかる。

 次は巻十四の東歌に登場し、まず、相聞の項に見える3364番の歌がある。この歌では「足柄の箱根の山に粟を蒔いて実とはなったが、この実のように我が恋は成就したけれども、逢うことが出来ないのはどうしてなのか、訝しい」と言っている。次の3451番の歌も東歌で、雑歌の項に見え、その意は「左奈都良の岡に蒔いた粟をいとしい人の馬が食べてもその馬を追い払うようなことはすまい」というものである。

 今一首は、巻十六のきみ(黍)やあふひ(葵)の項でも触れた3834番の歌で、その意は「梨に棗(なつめ)、黍に粟が続くというように、続いて君に逢い、這う葛のように蔓が伸びてまた逢うように、後も逢おうと思うが、その逢うではないが、葵の花が咲く」というものである。これらのあはに関わる歌を見ると、粟(あは)に逢うを掛けた掛詞を駆使した歌が三首に及び、万葉歌の特性がうかがえる。

                                                                                                      

 このアワ(粟)はイネ科の一年草で、古くから栽培され、記紀の神話にも登場し、五穀の一つに数えられ、その名は味が淡いためと一説に言われる。高さ一.五メートルほどになり、夏から秋にかけて直立する茎の先端に花穂を出す。花穂は緑色の小花を無数につける。実は小さな頴果で、黄色を帯びる。実にはタンパク質や脂肪分が多く含まれ、粟飯、粟餅、粟おこしなどに用いられる。山間地や寒冷地にも適応し、稲作の出来ない地方でも作られて来た。

 森鷗外の『山椒大夫』のラストの場面にアワ(粟)の登場を見るが、このラストの感動シーンにアワ(粟)は実によく相応している。では、そのアワ(粟)の見えるラストの場面を記してみたいと思う。

 安寿恋しや、ほうやれほ。/厨子王恋しや、ほうやれほ。/鳥も生あるものなれば、/疾(と)う疾う逃げよ、逐わずとも。

 正道(厨子王)はうっとりとなって、この詞に聞き惚れた。そのうち臓腑が煑え返るようになって、獣めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。忽ち正道は縛られた縄が解けたように垣の内へ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏した。右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏した時に、それを額に押し当てていた。

 女には雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱え罷めて、見えぬ目でじっと前を見た。その時干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た。女は目が開いた。

  「厨子王」と云う叫が女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。

 この物語は平安時代後期の仏教説話を題材にしたもので、この場面は佐渡の国の設定である。稲作が出来なかった当時の佐渡では粟が作られていたのである。そのことがこの場面で思い起こされる。 写真は実をつけたアワ(粟)の穂とアワ(粟)の穂に来てその実を食べるバッタの仲間 (いずれも春日大社神苑の萬葉植物園で)。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月23日 | 写詩・写歌・写俳

<751> 大和寸景 「塔と秋空」

           ひろびろと 塔の上なる 秋の空 みな見上げゐる 大和のすがた

 台風十八号の去った後、気持ちのいい晴天が続いている。この晴天に誘われ、法隆寺界隈を歩いた。日差しは強かったが、周囲に見えるものが、それぞれに秋めいているのが感じられた。稲田は実りの色づきを見せはじめ、道端ではヒガンバナやアキノノゲシなどの花が見られた。

 まず、法隆寺へ。境内はいつ来ても広々としているが、今日は秋空が広がり、一層広々として見えた。法隆寺を北東に向い、法輪寺から法起寺へ。途中に墓苑が見られ、この連休は秋の彼岸に当たり、周辺では人影が多く見られた。その墓苑を見ていると、実に過密である。高齢社会になって、都会では火葬が手一杯で、順番待ちになっているという。死んでからも難儀する実情にあるという。そう言えば、生まれるときだって十分ではない。産婦人科が足りなくて、救急搬送出来なかったことがあり、問題になった。

                                                                 

 墓苑の過密には限界があるから、墓も個人墓はまかない切れず、累代の合同墓になって来た。もっと極端なのは墓のカプセル化で、寺院がお骨を預かってカプセル様のスペースに収納し、一同に供養するというやり方である。それかと言えば、樹木葬というように木々を植えて墓地を公園化し、その木々の下に散骨するというような形の埋葬も企てられている。

  もっと大胆な散骨は海とか空に骨を撒くという方法も考えられている。こうなると、墓の存在自体がなくなることになるが、これは所謂、死後についての考え方に変化が現われて来ている証と言って差し支えなかろう。既に昔の考えとか様式が半ば敬遠されつつあることを裏付けるものと言ってよい。

  それは当然のこと、死者を送る様式にもうかがえる話で、一律であった昔のような葬儀告別式の様式にも変化が現われ、ピンからキリまで、多様化していることが言える。つまり、墓地や墓と同様、死者を葬る様式も一律ではなくなったことが言えるようである。

 このように、今後は人の死における対応の仕方もいよいよ多様化するであろうことが思われるが、いくら多様化しても、死者にとって死んだ後の落ち着き場所というものは必要であるから、何とかしなくてはならないという気持ちの現れは当然であると思われる。もちろん、落ち着く場所などいらないという御仁もいる。しかし、どこでも散骨してよいというわけにはゆくまいから、そこにはやはり迷いが生じて来ることになる。

 後に残る子供たちの手をなるべく煩わすことがないようにというようなことも念頭に置くから、やはりその段の思いというものは生じて来ることになる。殊に、私のような田舎から都会に出て来て郷里を離れて暮らしているものにこの定まらない思いというものが纏っているように思われる。しかし、悩んでいても仕方ないから、過密にせよ、合同にせよ、死んだ先まで思いを巡らせるのは止めて生きるのがよいかも知れない。

 墓などというのは、この世の見栄、こだわりだという認識ならば、「こだわらないこころ」で、恬澹と生きて行くのが第一と思われたりもする。どちらにしても、死んだらこの大空の下の大地に帰る。そして、誰もがみんな安らかに眠る。見栄を張らなくてはならないのはこの世の仕儀にほかならない。途中、農家がやっている売店でイチジクを買い、踵を返した。写真は秋の法隆寺。   


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月22日 | 写詩・写歌・写俳

<750> 大和寸景 「沢蟹のいる光景」

       沢蟹の 濡れゐる水の 清らかな

 東大寺二月堂のところ、鬼子神の祠の前、柘榴が植わっている庭の石垣に沿って浅い溝がある。この溝に沢蟹がいるというので、石垣に小さいながら目を引く札が掛けられている。札には、「最近、久しぶりに姿を見せるようになった沢ガ二が野性化したアライグマの被害により再び激減しています。沢ガ二にとっては、この溝が我が家です。見つけても捕獲して持ち帰らないで下さい」と、東大寺二月堂の「お願い」として書いてある。

 この札は以前からあったが、沢蟹の姿は見かけなかった。ところが、この度、通りがかりに沢蟹のいるのを見かけた。小さいのと大きいのと、小さいのは今年生れた子蟹であろう。大きいのは棲み処の穴のところで溝に生えた苔を食べているようであった。子蟹は不釣り合いな大きさの実のようなものをどこかに運んでいる。ともに甲羅が水に濡れて艶やかに見えた。で、「やはり、いるんだ」と思い、カメラを出して写真に収めた。

 二月堂は十一面観音を本尊とする観音霊場で、欄干を廻らせた舞台があって、この舞台をお水取りの大松明が走ることで知られる。ほかにも観音霊場で欄干を廻らす舞台の設けられているお寺は京都の清水寺と初瀬の長谷寺がよく知られるところで、二月堂と同じく、山の斜面を利用して建てられている特徴がある。で、舞台が設けられているのであるが、舞台の下には水の湧くところがあって、小さな滝のあるのが共通点としてあげることが出来る。有名なのは清水寺の音羽の滝で、延命の御利益があると言われる名水として知られるが、二月堂にも存在する。滝というほどでもないが、芭蕉の「水取りや籠りの僧の沓の音」の句碑の裏手に龍王の滝と名のつく滝がある。

 これは山から湧水しているからであるが、地下に水脈があることによる。二月堂では、修二会のお水取りのとき、舞台下方にある閼伽井屋の若狭井から汲み上げる香水を本尊の十一面観音に供えて法要を取り行う。この井に若狭と名がついているのは若狭国(福井県)の遠敷明神に通じる聖水であるという伝説によっている。言わば、二月堂の一帯には地下水脈があって、綺麗な水が湧き出るところということが出来る。

                       

 少し話が逸れたが、綺麗な水の環境に棲む沢蟹がいる溝はこの若狭井のすぐ近くで、石垣からいつも清らかな水が滲み出て、絶えず濡れている状態にある。この水によって沢蟹の好物である苔が生え、その上、溝には石垣が連なっているため、その石垣の穴が棲み処になって沢蟹の生存を可能にしている。思えば、この溝が沢蟹に適した環境の生活圏を提供していることになる。

  石垣に掛けられた沢蟹保護の呼び掛けをする札を見ていると、沢蟹には平穏に暮らして行ける場所であるが、そこには難敵がいるというわけである。生きものというのは、人間でも同様であるが、住と食が適わなければならない。沢蟹にとって、この二月堂下の溝は、生きて行くうえに必要なこの蟹の住と食の条件を十分に満たしているということになる。

  しかし、札は沢蟹にとって難敵がいることを指摘している。それがアライグマだというわけであるが、注意書きをよく読むと、アライグマは注意喚起の道具立てにほかならず、実のところは心ない者、即ち、人間に対して呼びかけていると知れる。言わば、沢蟹にとって一番の難敵はほかならぬ人間であるということになる。「どうか、捕らないでやってほしい」という切なる呼びかけが慈悲深い観音さまの膝元でなされている。で、この効用かどうかはわからないけれど、溝に沢蟹の姿が見られる。このような小さい生きものも、実は私たちの視野の中の大切な生きものである。沢蟹を見ながら思ったことではあった。写真は左から沢蟹の親と子。右端は石垣に掛けられた沢蟹の保護を訴える「お願い」。

 

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月21日 | 写詩・写歌・写俳

<749>  大和寸景  「レンタサイクル」

           Jitennsya de meguru asuka no akibiyori

 これから秋の行楽シーズンで、民間による周遊型レンタサイクルが定着している奈良の明日香村では、自転車で名所旧跡を巡る人たちの姿も多く見られるようになる。3・11の大震災以降客足に陰りが見られ、苦戦を強いられているようであるが、径二キロほどを周遊するサイクリングは気持ちのいいもので、この時期になると、自転車を走らせて行く人たちの姿も増えて来る。

 今は彼岸花の時期で、この連休は彼岸花祭りが開かれ、この花を目的に訪れる人が多いようであるが、レンタサイクルの自転車を借り切って周遊する修学旅行生たちも見られる。この間は東京からやって来たという中学生たちが、レンタサイクルを利用し、地図を片手に、名所旧跡巡りに出かけるのを見かけた。何組かのグループに分かれ、思い思いに声かけ合って出かけて行った(写真)。 

                                                                   

 この光景を見ていてふと思うことがあった。その地の観光を活性化させるには、立地の要件を満たすだけでは十分でない。需給一体でなくてはならない。奈良県などでは滞在型のエコ・ツーリングというような構想も立てているようであるが、このアイディアを如何に発展させるかが大切である。で、以下に私見であるが、述べてみたいと思う。

  受け入れ態勢を整えることはもちろんであるが、情報発信してPRに努め、やって来る人々のニーズ、要望などの調査研究をし、態勢と要望の整合性において観光の方向づけをして盛り上げる。思うに、明日香の場合は受け入れの観光的素材は十分に備わっているので、周辺の自治体などと連携し、一体化をもって、エコ・ツアー型の集客を行ない、日本のみならず、海外からの客層も視野に入れて、要は、「日本の故郷」と呼ばれるその特色を生かして新たな観光開発をして行く。既に観光もこのようなグローバルな時代に来ているということが出来る。

  例えば、宿泊施設は鉄道網の行き届いている橿原市や桜井市に任せ、そうした、隣接市町村とも連帯して世界に発する観光を視野に置いて整備する。エコ・ツアーというのは、日本よりも海外、殊に欧米に見られる発想であるから、受け入れ態勢を整え、世界に発信して行けば、効果は期待出来る。言わば、日本の中の「明日香」だけではなく、世界に誇れる明日香あるいは大和の南部域ということになる。これは琑末なことかも知れないが、レンタサイクルにしても、体の大きい外国人にも合うサイズの自転車を多少は揃えるくらいの心遣いから始めなくてはならないだろう。

 それに、これは明日香だけのことではないが、大和や近畿圏に集中する大和王権に関わる古墳群をユネスコの世界遺産に申請することなども一案として考えられる。天皇の陵墓ということでネックになるかも知れないけれど、他の世界遺産も参考にし、研究する必要はある。大和の古墳群が世界遺産に登録されれば、強力な観光の目玉が一つ増えることになる。

  この古墳群というのは、日本の国家形成期の遺産で、世界にも十分通用し、現在の日本国の存在との歴史的結びつきということも世界の人々に知ってもらえるという利点があり、観光にも役立てられる。とにかく、現状に甘んじて手をこまねいているだけでは発展を見ることは出来ない。言わば、外国人観光客の呼び込みが出来る態勢にもってゆくことが求められている時代に来ているように思われる。日本の象徴富士山が登録されたのであるから、「日本の故郷」明日香をはじめとする大和ならびに近畿圏の古墳群の世界遺産登録は可能であると言える。まずは、「隗より始めよ」である。