大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年09月01日 | 写詩・写歌・写俳

<729> 奈良の地名に思う (2)     ~<728>よりの続き~

         地名には故郷(ふるさと)の 色ほのぼのと点る 誰にも故郷がある

  なお、地名には由来とともに故郷の感覚があり、地名をあげてゆくとき、この故郷ということにも思いがゆく。どんな人にも生まれた土地があり、そこに生まれた人にとってその土地は特別なところであって、離れる離れないは問題でなく、そこには確固とした一つの思いが纏わることになる。

 これを地名の側から思い巡らしてみると、その地というのは誰かの故郷であり、その地名には必ず誰かの故郷が纏っているということが出来る。で、故郷というのは私たちに愛着や誇り、或いは郷愁の情を抱かせるところがあるわけで、どんな片田舎の辺鄙なところでも、地名というのはそういう気分を負ってあることが言える。土地に執着する日本人には、殊にこのことが言えると思う。

  地図を広げて、地名を辿る地図上の旅をする人は結構多いのではないかと思われるが、私もよく地図を開いて地名を辿る旅をする。これは実際にその地へ赴かなくても、地名から想像を膨らませ、自由に心の旅が出来るからである。この旅というのは経費もかからず、時間に制約されることなく旅を楽しめる利点がある。言わば、地図上の地名によって色々と思いを巡らせながら幻想の旅をするわけである。

  これは地名が持つ一つの魅力というか、歴史や風土が地名に重なって想像を広げることが出来るからである。とともに、これは誰かの故郷を訪ねる旅でもあって、その地名にふさわしい風土というものを思い描きながら訪ねることになる。上記の短歌はこのような思いによって生まれた。

                                        

 とにかく、地名というのは人によってつけられたものであり、地名には人の気持ちというものが反映されている。それゆえに、その地を取り巻く自然の環境などと合わせ、地名はイメージづけられ、親しみをもって受け止められるわけである。そこで、地名に対する愛着の情なども生れて来ることになる。

 ところが、近年、合理主義的なものの考え方が幅を利かせ、区画整理などで町名が現代風に変えられ、従来の町名が消えて行くというようなことが起きて来た。「中央」というような名が多く見られるようになったのもその一例で、そこには利便優先の行政措置が働いているように思われる。

  平成の大合併でも、合併に際し地名の変更が行なわれたが、住民の地名に対する思いは強く、合併反対の理由になったケースもある。奈良県下で言えば、斑鳩町がその例で、住民投票の結果、合併に対する反対票が賛成票を上回り、結局、七ヶ町村によるこの地域の合併はならなかった。斑鳩町民の中には「斑鳩の里」という全国的に知られる名が消え行くことに不安を覚え、これが合併の反対理由の一つになったのである。

 このように、地名というのは、その地とその地に住まいする人々とを負って生まれ来たったもので、こよなく愛されて存在していることがわかる。 写真は左から奈良市の地図に拾った三碓、肘塚、内侍原、大豆山、生流星、藺生の各地名。